プロローグ:泥の中で咲く花は
俺は今、世界で最も美しい女の首に手をかけている。
白磁のように滑らかな肌。細く、折れそうな首筋。
親指の腹に、トクトクという微かな脈動を感じる。
力を込めれば、簡単に終わる。
この狂った愛も、俺を縛る重力も、全て。
「……殺して、くださるのですね」
女——セレスティアは、恍惚とした表情で微笑んだ。
恐怖はない。抵抗もない。
ただ、至上の喜びに打ち震えている。
「アレン様の手で。この命を。ああ……なんて、なんて幸せな……」
彼女の青い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではない。歓喜の涙だ。
俺に殺されることが、彼女にとって最大の「愛の証明」なのだ。
吐き気がした。
俺は、首にかけていた手を離した。
セレスティアが、物足りなそうな、捨てられた子犬のような顔をする。
「なぜ、止めてしまわれたのですか?」
「……汚れるからだ」
俺は、自分の手についた泥をズボンで拭った。
「俺の手は、畑を耕すためのもんだ。お前の綺麗な血で汚すわけにはいかねえ」
「私の血など、アレン様の泥に比べれば汚物も同然です! どうか、どうかその泥で私を染め上げてください!」
セレスティアが俺の足にすがりつき、泥だらけの長靴に頬擦りをする。
王国の第一王女。
世界最強の魔術師。
万人がひれ伏す美貌の持ち主。
その全てをかなぐり捨てて、彼女は俺という泥沼に這いつくばっている。
「アレン様。愛しています。愛しています。愛しています。愛しています愛しています愛しています愛しています——」
呪いのような愛の言葉が、鼓膜を打つ。
俺は空を見上げた。
鈍色の空。雨が降りそうだ。
愛とは、他人の心に土足で踏み入り、そこに勝手に花を植える暴力のことだ。
俺は、その花が咲くのが怖い。
根を張り、俺の心を養分にして育ち、最後には俺を食い破るのが怖い。
だから俺は、誰のことも愛さない。
誰からの愛も受け取らない。
そう決めていたはずだった。
なのに、どうしてこんなことになったのか。
始まりは、半年前。
俺の頭の中に、狂った機械の声が響いたあの日からだ。
『警告。特異点の発生を確認。世界の計算式が崩壊を開始します』
ただの村人Aだった俺の日常は、あの瞬間に終わった。
泥の中で静かに腐っていくはずだった俺の人生は、この狂った女と、狂ったシステムによって、無理やり引きずり出されたのだ。
「……セレスティア」
「はいっ、アレン様!」
「夕飯の支度だ。今日は大根のスープにする」
「はいっ! アレン様が育てた大根、私が美味しく煮込んでみせます!」
彼女は嬉しそうに立ち上がり、泥だらけのドレスのまま家へ向かって走っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は深くため息をついた。
これは、愛を恐れる男が、愛という名の暴力に蹂躙される物語だ。
あるいは、泥の中で咲く花の、醜くも美しい記録。
雨が、降り始めた。




