歪んだ平和
システムが崩壊し、セレスティアが「人間」として俺の畑に戻ってきてから、季節が一つ巡った。
村の秋は、収穫の時期だ。
俺の畑でも、泥まみれになって育てた野菜たちが、丸々と太って実りをつけていた。
「アレン様! 見てください、この大根! すっごく大きいです!」
泥だらけの顔で、セレスティアが巨大な大根を掲げて満面の笑みを浮かべている。
麻の服は土で汚れ、かつて王女として纏っていた気品など微塵もない。
だが、その笑顔は、王宮の玉座に座っていた時よりも、ずっと生き生きとしていた。
「おう。お前が毎日、変な歌を歌いながら水やりしてたからな。大根も呆れてデカくなったんだろ」
「変な歌ってひどいです! これは、大根さんが元気に育つようにと、私が心を込めて作った『大根豊作祈願の歌』ですよ!」
セレスティアは頬を膨らませて抗議するが、その手はしっかりと大根を抱きしめている。
「それに……」と、彼女は急に声を潜め、大根の葉に付いていた青虫を指で摘まみ上げた。「アレン様の畑を荒らす悪い虫は、私が一匹残らず『排除』しましたから」
ブチッ、と。
青虫が、彼女の細い指先で無惨に潰された。その瞳には、一瞬だけ、かつての王女時代のような冷酷な光が宿っていた。
「……お前、相変わらず極端だな」
「アレン様のものに手を出そうとする輩は、虫だろうと何だろうと許しません。……ふふっ」
人間になっても、その「重すぎる愛」と「微かな狂気」は健在らしい。
俺は、ため息をついて鍬を置き、汗を拭った。
平和だ。
システムに支配されていた狂った世界が嘘のように、ただの泥臭い、当たり前の日常がここにあった。
だが、その平和の裏で、俺の心には常に「ある不安」が付き纏っていた。
『……ピピッ。システム再起動。……エラー。深刻なデータ欠損を確認。……バックアップ領域からの復元を試みます』
あの時、玉座の間で聞いたナビのアナウンス。
セレスティアが復元されたのは、あのプロセスのおかげだ。
だが、システムは本当に「セレスティアだけ」を復元したのだろうか?
「……アレン様? どうかしましたか?」
俺が黙り込んでいると、セレスティアが心配そうに覗き込んできた。
「いや、なんでもねえ。ほら、さっさとその大根を洗ってこい。今日の夕飯は風呂吹き大根だ」
「わぁい! アレン様の作るご飯、大好きです!」
セレスティアは嬉しそうに大根を抱えて、井戸の方へと走っていった。
その背中を見送りながら、俺はポケットの中に手を入れた。
そこには、あの「青いリボン」が入っている。
セレスティアが実体を取り戻してからも、このリボンだけは、なぜか消えずに残っていたのだ。
時折、このリボンが微かに熱を帯びることがある。
まるで、何かの「受信機」のように。
「……考えすぎか」
俺はリボンから手を離し、再び鍬を握った。
今は、目の前の畑に集中するべきだ。
俺は農民だ。世界のシステムだの、バグだの、そんな面倒くさいことは、もう俺の管轄外だ。
* * *
その日の夜。
夕飯を終え、セレスティアが眠りについた後、俺は一人で家の外に出た。
秋の夜風が冷たい。
空には、満天の星が輝いていた。
「……おい、いるんだろ。出てこい」
俺が虚空に向かって声をかけると、背後の暗がりから、一人の人影が音もなく現れた。
黒い外套に身を包んだ、長身の男。
シオンだ。
「……気づいていたか」
「農民の勘を舐めんな。獣の気配には敏感なんだよ」
俺は、振り返らずに言った。
「王都の復興で忙しい騎士団長様が、こんなド田舎に何の用だ? まさか、大根をもらいに来たわけじゃねえだろ」
「……ああ。すまないが、大根より厄介な話だ」
シオンの声は、ひどく沈んでいた。
俺は、嫌な予感を覚えながら、シオンの方へと向き直った。
「……ヴィクトリア殿下が、脱走した」
「……なんだと?」
俺は眉をひそめた。
ヴィクトリアは、地下の牢獄に幽閉され、精神的なショックでまともに会話もできない状態だったはずだ。
「どういうことだ。あいつは、魔法も使えないただの人間になったんだろ? 厳重な牢獄から、どうやって逃げ出した」
「……それが、わからないんだ」
シオンは、苦渋に満ちた表情で首を振った。
「牢獄の扉は破壊されておらず、見張りの騎士たちも、誰一人として侵入者を見ていない。ただ、朝になったら、殿下の姿が消えていた」
「神隠しにでも遭ったってのか?」
「……監視カメラの魔導具には、不可解な映像が残されていた」
シオンは、懐から小さな水晶玉を取り出した。
水晶玉の表面に、ぼんやりとした映像が浮かび上がる。
そこには、牢獄の中でうずくまるヴィクトリアの姿が映っていた。
だが、次の瞬間。
『……ピピッ。対象の再接続を確認。……システム・オーバーライドを実行します』
映像から、無機質なノイズ音が響いた。
俺は、息を呑んだ。
あの音だ。俺の頭の中で鳴っていた、ナビの声。
映像の中のヴィクトリアが、ゆっくりと立ち上がる。
彼女の目は、かつての「完璧な秩序」を求めていた時のように、氷のように冷たく、そして——赤く発光していた。
そして、ヴィクトリアの体が緑色の文字列に包まれたかと思うと、ノイズと共に、その姿が完全に消失したのだ。
「……これは」
「転移魔法ではない。魔力の痕跡は一切なかった。まるで、空間そのものから『切り取られた』ようだった」
シオンは、水晶玉をしまった。
「アレン。お前が破壊したはずの『システム』は……まだ、生きているんじゃないのか?」
「……」
俺は、ポケットの中の青いリボンを強く握りしめた。
リボンが、微かに、だが確実に熱を帯びている。
「……最悪の予想が当たっちまったか」
俺は、舌打ちをした。
システムは、完全に破壊されてはいなかった。
メインサーバーは崩壊したが、どこかにバックアップが存在し、それがヴィクトリアを「再接続」したのだ。
「……シオン。ヴィクトリアが消えた後、王都で何か変わったことはないか?」
「変わったこと……? いや、特には……」
「よく思い出せ。些細なことでもいい。例えば、天候がおかしいとか、作物が急に枯れたとか」
シオンは、少し考え込んだ後、ハッとしたように顔を上げた。
「……そういえば、王立図書館の地下にある『禁書庫』の扉が、開いていたという報告があった。中には誰もいなかったが、一部の古い文献が消えていたらしい」
「古い文献? どんな内容だ」
「……『創世の神話』に関するものだ。この世界がどのように作られ、誰が管理しているのか……そんな、おとぎ話のような内容の書物だ」
俺は、深く息を吐き出した。
ヴィクトリアは、システムのバックアップに再接続され、世界の「根源」にアクセスしようとしている。
もし、彼女が再びシステムの管理者権限を取り戻せば、今度こそ、この世界は完全に初期化されてしまうかもしれない。
「……アレン。どうするつもりだ」
「決まってんだろ」
俺は、家の壁に立てかけてあった鍬を手に取った。
「俺の畑に、また雑草が生えようとしてるんだ。……根こそぎ引っこ抜いて、土に還してやる」
平和な日常は、終わりを告げた。
俺は、再び泥まみれの戦いへと身を投じる覚悟を決めた。




