残された泥
玉座の間での死闘から、数日が経過した。
システムの崩壊に伴い、王都を覆っていた黒い茨は全て枯れ落ち、魔物たちの活動も急速に沈静化していった。
ヴィクトリアのクーデターによって混乱の極みにあった王都は、生き残った騎士団と市民たちの手によって、少しずつだが復興への歩みを始めていた。
俺は、王宮の一角にある客室で目を覚ました。
窓から差し込む朝の光が、泥だらけだったはずの俺の体を照らしている。
シオンが用意してくれた新しい服に着替え、俺は窓辺に立った。
眼下には、復興作業に汗を流す人々の姿が見える。
「……平和なもんだな」
俺は、小さく呟いた。
システムという絶対的な管理者が消え去り、世界はただの「不完全な人間の世界」に戻った。
もう、魔力による理不尽な階級制度も、システムによる強制的な排除もない。
誰もが、自分の足で泥を踏みしめ、自分の力で生きていく世界だ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
扉が開き、シオンが入ってきた。
彼の顔には、まだ疲労の色が濃く残っているが、以前のような張り詰めた緊張感は消え去っていた。
「アレン。体調はどうだ?」
「悪くねえよ。ただ、三日三晩泥の中で寝てたようなだるさはあるがな」
「無理もない。お前は、一人で世界のシステムを破壊したんだからな。……本当に、規格外の男だ」
シオンは、苦笑交じりに言った。
「ヴィクトリア殿下は、どうしてる?」
「……地下の牢獄に幽閉されている。精神的なショックが大きく、まだまともに会話ができる状態ではないらしい。だが、命に別状はない」
「そうか」
俺は、窓の外から視線を外した。
ヴィクトリアを殺す気はなかった。彼女もまた、システムという呪縛に囚われた被害者の一人に過ぎない。
これからは、ただの人間として、自分の犯した罪と向き合って生きていくしかないだろう。
「それで……セレスティア殿下のことは……」
シオンが、言葉を濁しながら尋ねてきた。
俺は、ポケットの中の「青いリボン」に触れた。
「あいつのデータは、システムの最深部で消去された。……だが、完全に消えたわけじゃないらしい」
「本当か!?」
「ああ。あの時、頭の中でナビの再起動のアナウンスが聞こえた。あいつの残骸データから、復元を試みてるってな」
俺は、リボンを取り出し、朝の光にかざした。
ただの布切れに見えるが、俺には、そこに微かな温もりが残っているように感じられた。
「……どれくらい時間がかかるかはわからねえ。明日かもしれないし、十年後かもしれない。あるいは、復元に失敗して、二度と戻ってこないかもしれない」
「アレン……」
「だが、待つのは俺の得意分野だ。種を撒いて、芽が出るのを待つ。……農民の仕事は、いつだって待つことから始まるんだよ」
俺は、リボンを再びポケットに深くしまい込んだ。
「俺は、村に帰る」
「えっ……? もう帰るのか? 王都の復興には、お前の力が必要だ。それに、国王陛下も、お前に直接礼を言いたいと……」
「断る。俺はただの農民だ。王宮の綺麗な床なんて、俺の泥だらけの足には合わねえ」
俺は、部屋の隅に立てかけてあった鍬を肩に担いだ。
「俺の畑が、俺を待ってるんだ。……それに、あいつがいつ帰ってきてもいいように、草むしりをしておかないとな」
「……そうか。お前らしいな」
シオンは、深く頷き、そして、右手を差し出してきた。
「ありがとう、アレン。お前がいなければ、俺は……いや、この世界は、完全に終わっていた」
「礼なら、泥だらけになって働くことで返せ。お前も、たまには剣を置いて、畑を耕してみるのも悪くねえぞ」
俺は、シオンの手を力強く握り返した。
騎士の手は、剣ダコで硬くなっていたが、俺の泥だらけの手と同じくらい、温かかった。
* * *
王都を出て、俺は一人で村への帰路についた。
行きとは違い、魔物に襲われることもなく、道中は驚くほど平穏だった。
数日後、見慣れた村の景色が視界に飛び込んできた時、俺は思わず深く息を吸い込んだ。
土の匂い。草の匂い。そして、泥の匂い。
俺の、帰るべき場所だ。
「……ただいま」
誰に言うでもなく呟き、俺は自分の畑へと向かった。
数日家を空けただけなのに、畑にはすでに雑草が生い茂り始めていた。
俺は、鍬を下ろし、無言で草むしりを始めた。
泥にまみれ、汗を流し、ただひたすらに土と向き合う。
それが、俺の日常であり、俺の生きる意味だ。
太陽が西に傾き、空が茜色に染まり始めた頃。
俺は、ふと手を止めた。
背後から、微かな足音が聞こえたような気がしたからだ。
「……誰だ?」
振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、夕暮れの風が、畑の作物を揺らしているだけだ。
気のせいか。
そう思い、再び鍬を握ろうとした時。
『……ピピッ。復元プロセス、完了。……対象の再構築に成功しました』
頭の中で、あの無機質なノイズが鳴った。
俺は、目を見開いた。
「アレン様」
背後から、声がした。
鈴を転がすような、透き通った声。
だが、以前とは何かが違う。
狂気が消えたのではない。むしろ、もっと深い場所に沈んで、静かに凝縮されたような——そんな声だった。
俺は、ゆっくりと振り返った。
夕日に照らされた畑の真ん中に、彼女が立っていた。
銀色の長い髪。青い瞳。
泥だらけのドレスではなく、どこで手に入れたのか、村娘が着るような質素な麻の服を着ている。
「……遅えよ、馬鹿野郎」
俺は、震える声を隠すように、ぶっきらぼうに言った。
「草むしり、半分終わっちまったじゃねえか」
「ごめんなさい、アレン様。……少し、迷子になってしまって」
セレスティアは、困ったように微笑んだ。
その体は、もう透けていない。
システムの一部ではなく、血の通った「人間」として、そこに存在していた。
だが、その微笑みの奥に、俺は見た。
あの「重い愛」の残り火が、消えるどころか、人間の体を得たことでより生々しく燃えているのを。
「私……もう、魔法は使えません。お姉様のような完璧な秩序も、作れません。……ただの、不完全な人間になってしまいました」
「上等だ。俺の畑に、完璧な人間なんて必要ねえ」
俺は、鍬を地面に突き立て、彼女に向かって歩み寄った。
「泥にまみれて、汗かいて、失敗して、それでもまた種を撒く。……それが、人間の生き方だ」
「……はい」
セレスティアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
俺は、泥だらけの手で、彼女の涙を拭った。
彼女の頬に、泥の跡がつく。
だが、彼女は嫌がるどころか、俺の手に自分の手を重ね、嬉しそうに微笑んだ。
「アレン様……私、アレン様と一緒に、泥だらけになりたいです。ずっと、ずっと……」
その「ずっと」の響きに、俺は背筋がぞくりとした。
人間になっても、こいつの愛の重さは変わっていない。いや、むしろ——「死んでも戻ってきた」という事実が、その重さに永遠の質量を与えてしまった気がする。
「ああ。覚悟しとけよ。俺の畑仕事は、地獄よりキツいからな」
俺は、彼女を力強く抱きしめた。
夕日が、泥だらけの二人を優しく包み込んでいた。
——ただの村人Aだった俺は、世界を書き換える「特異点」だった。
だが、世界を書き換えた後も、俺はただの農民だ。
これからも、俺はこの面倒くさくて愛おしい女と一緒に、泥にまみれて生きていく。
それが、俺の選んだ、最高に泥臭いハッピーエンドだ。




