世界の底
鍬が玉座を叩き割った瞬間、世界が反転した。
物理的な破壊音はなかった。
ただ、王宮の豪奢な壁も、床も、崩れ落ちた天井も、ヴィクトリアの姿も、全てがノイズのようにブレて、暗転した。
「……なんだ、ここは」
俺は、泥だらけの長靴で「そこ」に立っていた。
上下左右の感覚がない、果てしなく広がる真っ白な空間。
だが、その白さは清浄なものではなく、無数の「緑色の文字列」が滝のように流れ落ちる、不気味なデジタル空間だった。
『……ようこそ、特異点アレン。ここはメインサーバーの最深部、世界の底です』
声が響いた。
ヴィクトリアの声ではない。
もっと幼く、無機質で、そして——聞き覚えのある声。
「……ナビ、か?」
俺が呼びかけると、文字列の一部が収束し、一人の少女の姿を形作った。
銀色の髪、青い瞳。セレスティアに似ているが、もっと幼い。
そして、その瞳には一切の感情が宿っていなかった。
『はい。私はこの世界のナビゲーションシステムであり、同時にメインサーバーの意志を代弁する端末です』
「……お前、俺の頭の中にいたあのナビなのか?」
『同一の存在です。あなたを監視し、誘導するための一時的なパーソナリティでした』
少女の姿をしたナビは、俺の方を見ていなかった。その青い瞳は、俺の向こう側——流れる緑の文字列の向こう側を、ただ冷たく見つめていた。
『あなたの危険度が規定値を超えました。消去します』
それだけだった。
半年間、俺の頭の中でうるさく嗋っていた声の、正体。
胸の奥で、乾いた土が崩れるような感覦があった。怒りではない。もっと静かなものだ。
——ああ、そうか。最初から、そうだったのか。
「で? 俺をこんな場所に引きずり込んで、どうするつもりだ」
『あなたの消去です。ヴィクトリア第一王女の権限では、あなたという特異点を完全に排除することは不可能と判断しました。よって、メインサーバーが直接、あなたを初期化します』
ナビが手をかざすと、空間に無数の「窓」が浮かび上がった。
そこには、俺のこれまでの人生が映し出されていた。
泥だらけで畑を耕す姿。
セレスティアにまとわりつかれて辟易する姿。
クロエとシオンと共に、王都へ向かう姿。
『あなたの記憶、経験、感情。それら全てをデータとして分解し、この世界のシステムから削除します』
「……勝手に人の思い出を覗き見してんじゃねえよ」
『抵抗は無意味です。ここは物理法則が存在しないデータ空間。あなたのその「鍬」も、ここではただのテクスチャデータに過ぎません』
確かに、俺が握っている鍬は、先ほどまでの重みがない。
ただの絵のように軽く、力が入らなかった。
『消去プロセス、開始』
ナビが宣告した瞬間、俺の足元から緑色の文字列が這い上がってきた。
文字列は俺の体に絡みつき、長靴を、作業着を、そして俺の皮膚を「分解」していく。
痛みはない。
ただ、自分の存在が少しずつ「薄れていく」という、圧倒的な喪失感だけがあった。
「……くそっ」
俺は鍬を振り回そうとしたが、文字列に絡め取られた腕は動かない。
このまま、俺は消えるのか。
セレスティアを救うこともできず、ヴィクトリアを殴り飛ばすこともできず、ただのバグとして処理されるのか。
『……アレン、様』
その時。
俺の耳に、微かな声が聞こえた。
幻聴じゃない。
この冷たいデータ空間に、絶対に存在するはずのない、温かい声。
「……セレスティア?」
『アレン様……。私、ここにいます……』
声は、俺のポケットの中から聞こえてきた。
俺は、動かない腕を必死に動かし、ポケットの中に手を入れた。
そこには、セレスティアが遺した「青いリボン」があった。
『エラー。未確認のデータ残骸を検知。排除対象セレスティアのデータが、完全に消去されていません』
ナビの声に、初めて焦りのようなものが混じった。
俺がリボンを取り出すと、そこから青白い光が溢れ出した。
光は、俺の体を覆っていた緑色の文字列を弾き飛ばし、俺の体に再び「重み」を取り戻させた。
『アレン様。私、気づいたんです』
リボンから溢れる光が、セレスティアの幻影を形作る。
彼女は、優しく微笑んでいた。
『私が消去される時……システムの底に、アレン様への想いを、ほんの少しだけ隠しておいたんです。それが、このリボンに……』
「お前……。自分が消えかかってる時に、そんな馬鹿なことを……」
『馬鹿じゃありません。だって、これが私の「愛」ですから』
セレスティアの幻影が、俺の頬にそっと手を触れた。
冷たいデータ空間で、その手だけが、恐ろしいほどに温かかった。
『アレン様。この世界は、冷たいシステムで動いているかもしれません。でも、人間の心までは、計算できないんです』
「……ああ。そうだな」
『私の愛は、システムにとってはバグかもしれません。でも、アレン様にとっては……?』
「……最高の肥料だ。面倒くさくて、重くて、でも……俺の畑には、必要なもんだ」
俺の言葉に、セレスティアは嬉しそうに笑った。
『なら、耕してください。この冷たい世界を、アレン様の泥で』
光が、俺の握る鍬に吸い込まれていく。
ただのテクスチャデータだったはずの鍬が、本物の鉄の重みと、土の匂いを取り戻した。
いや、それだけじゃない。
セレスティアの魔力と、俺の「特異点」としての力が融合し、鍬の刃が眩い青白い光を放ち始めた。
『……警告。システム崩壊の危機。対象個体の消去プロセスを最大出力に引き上げます』
ナビが、無数の緑色の文字列を槍のように束ね、俺に向かって放ってきた。
だが、今の俺には、そんなものはただのノイズにしか見えなかった。
「……お前らシステムが計算できなかったものが、一つだけある」
俺は、青白い光を放つ鍬を両手で構えた。
「それはな、『泥臭い人間の意地』だ」
俺は、迫り来る文字列の槍に向かって、渾身の力で鍬を振り下ろした。
空間が、世界が、システムが、根底から砕け散る音がした。




