茨の迷宮
黒い茨は、鍬を振り下ろすたびに硬い反発力を返してきた。
だが、俺の力に耐えきれるものではない。
バキバキと音を立てて茨を切り裂き、俺たちは王宮の敷地内へと足を踏み入れた。
かつて美しく手入れされていた庭園は、見る影もなかった。
花壇は掘り返され、噴水は干上がり、至る所に巨大な魔物の足跡と、乾いた血痕が残されている。
王宮の白亜の建物自体も、黒い茨に侵食され、まるで巨大な魔獣の巣のようになっていた。
「……ひどいな」
シオンが、悲痛な声で呟いた。
「俺が仕えていた美しい王宮が、こんな姿に……。ヴィクトリア殿下は、本当に国を滅ぼすつもりなのか」
「お姉様は、昔から完璧主義でした」
セレスティアが、静かに口を開いた。
彼女の顔には、先ほどまでの涙の跡はもうない。
代わりに、静かな覚悟のようなものが宿っていた。
「少しの汚れも、少しの不規則も許せない。全てが自分の計算通りに、完璧な秩序を保っていなければ気が済まない。……だから、私のような『計算外のバグ』が許せなかったのでしょう」
「……完璧な秩序ねえ」
俺は、鼻で笑った。
「こんな泥だらけで血生臭い場所のどこが完璧なんだ。ただの狂人の箱庭じゃねえか」
「……ええ。お姉様は、システムに囚われすぎたのです。完璧な秩序を求めるあまり、人間としての心を失ってしまった」
セレスティアは、悲しそうに目を伏せた。
「私は、お姉様を止めなければなりません。これ以上、誰も傷つけないために」
「ああ。俺も手伝う」
俺たちは、茨の迷宮と化した王宮の中へと進んでいった。
内部は、外から見る以上に異様な空間だった。
廊下の壁や天井には、脈打つような黒い血管のようなものが這い回り、床には粘液のようなものが滴っている。
空気は重く、息をするだけで肺が腐りそうな悪臭が充満していた。
「……気をつけて進もう。いつ魔物が襲ってくるかわからない」
シオンが剣を構え、先頭を歩く。
俺はセレスティアの隣を歩き、周囲を警戒した。
玉座の間へ続く大階段に差し掛かった時だった。
「……来たぞ」
シオンの声に、俺は鍬を構えた。
階段の上から、黒い靄のようなものが降りてくる。
靄は徐々に人の形を形成し、やがて、数人の「騎士」の姿となった。
「なっ……!?」
シオンが、息を呑んで立ちすくんだ。
俺も、その姿を見て言葉を失った。
現れたのは、近衛騎士団の鎧を着た騎士たちだった。
だが、その顔は黒い靄に覆われて見えず、体からはドス黒い瘴気が立ち上っている。
彼らは、死してなおヴィクトリアの魔術によって操られている、亡者の騎士たちだった。
「ガレス……。ライアン……。お前たち……」
シオンが、震える声でかつての部下たちの名前を呼んだ。
だが、亡者の騎士たちは何も答えない。
ただ、無機質な動きで剣を抜き、俺たちに向かってゆっくりと階段を降りてくる。
「……シオン。下がるんだ」
俺は、シオンの前に出た。
「あいつらはもう、お前の知ってる部下じゃねえ。ただの動く死体だ」
「わかっている……! だが、俺には……!」
シオンは、剣を握る手を震わせていた。
かつての仲間を、自分の手で斬る。
それは、騎士としての誇りを持つ彼にとって、あまりにも残酷な試練だった。
「……なら、俺がやる」
俺は、鍬を握り直し、階段を駆け上がった。
亡者の騎士たちが、一斉に俺に向かって剣を振り下ろす。
だが、彼らの動きは単調で、生前のシオンの剣技には遠く及ばない。
「土に還れ」
俺は、亡者の騎士たちの剣を鍬の柄で弾き飛ばし、そのまま横薙ぎに鍬を振るった。
ガァァァン!!
先頭の二人の鎧がひしゃげ、黒い靄となって霧散する。
俺は立ち止まらず、残りの騎士たちにも次々と鍬を叩き込んだ。
ものの数分で、亡者の騎士たちは全て消滅した。
階段には、彼らが着ていたひしゃげた鎧だけが残された。
「……すまない、アレン」
シオンが、階段を上ってきて、鎧の前に膝をついた。
「俺は、本当に情けない男だ。自分の部下の引導すら、お前に任せてしまった」
「気にするな。泥仕事は農民の役目だ」
俺は、鍬を肩に担ぎ直した。
「それに、お前の剣は、もっと大事な場面のために取っておけ。こんなところで錆びつかせるな」
「……ああ。ありがとう」
シオンは、鎧に短く祈りを捧げると、立ち上がった。
その目には、先ほどまでの迷いはもうない。
深い悲しみを乗り越えた、静かな決意が宿っていた。
「行こう。玉座の間は、この上だ」
俺たちは、大階段を上り切った。
そこには、巨大な両開きの扉があった。
扉には、王家の紋章が刻まれているが、それも黒い茨によって無残に傷つけられている。
「……開けるぞ」
俺が扉に手をかけようとした時、セレスティアが俺の袖を引いた。
「アレン様」
「なんだ」
「……ありがとうございます。私と一緒に、ここまで来てくださって」
セレスティアは、少しだけ微笑んだ。
それは、王宮にいた頃の作り笑いでも、俺に向けていた狂気じみた笑顔でもない。
ただの、一人の少女としての、静かで穏やかな笑顔だった。
「……馬鹿野郎。礼を言うのは、全て終わってからにしろ」
「はい。……全て終わったら、アレン様の畑の草むしり、また手伝わせてくださいね」
「ああ。死ぬほどこき使ってやる」
俺は、扉に手をかけ、力任せに押し開いた。
ギギィィィィ……。
重い扉が開く音と共に、玉座の間の空気が流れ出してくる。
それは、外の廊下よりもさらに重く、冷たく、そして、圧倒的な魔力に満ちていた。
玉座の間の奥。
かつて国王が座っていた豪奢な玉座に、一人の女性が腰を下ろしていた。
銀色の長い髪。氷のように冷たい青い瞳。
ヴィクトリア第一王女。
彼女の周囲には、無数の黒い茨が蠢き、彼女自身も、黒い瘴気を纏っている。
「……よく来ましたね、セレスティア。そして、イレギュラーの農民」
ヴィクトリアの冷たい声が、玉座の間に響き渡った。
その声には、一切の感情がこもっていない。
まるで、機械が喋っているかのようだった。
「お姉様……」
セレスティアが、一歩前に出た。
「なぜ、こんなことを……! 王都の人々を犠牲にしてまで、私を殺す必要があったのですか!」
「ええ、ありますとも」
ヴィクトリアは、玉座からゆっくりと立ち上がった。
「あなたは、この世界のシステムを破壊する『バグ』です。あなたが存在する限り、この世界の秩序は保たれない。私は、次期女王として、世界の秩序を守る義務があるのです」
「秩序……? これが、お姉様の言う秩序ですか! 血と泥にまみれた、死の街が!」
「過程の犠牲は、計算の範囲内です。あなたという最大のバグを排除すれば、システムは再び正常に稼働し、世界は完璧な秩序を取り戻す。……そのためなら、王都の一つや二つ、安い代償です」
ヴィクトリアの言葉に、俺は呆れてため息をついた。
「……狂ってんな。そんな血も涙もねえ計算式に、何の意味がある」
「意味? ……あなたのような泥にまみれた人間に、私の絶望が理解できるはずもありません」
ヴィクトリアの冷たい仮面が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
その瞳の奥に、かつて彼女が人間であった頃の、深く暗い「傷」が垣間見えた。
「私は幼い頃から、王族としての重圧と、この不完全な世界の醜さに苦しんできました。人が人を裏切り、飢え、泥にまみれて死んでいく。……かつて私が愛した者たちも、この不条理な世界のノイズに巻き込まれて命を落とした」
「……」
「だから私は、システムと契約したのです。自らの感情を切り捨ててでも、この悲劇を繰り返さない『完璧な秩序』を創り出すために。……私の心は、とうの昔にあの冷たい計算式の中に捧げました」
彼女の言葉は、氷のように冷たかったが、その根底には「愛するものを失った悲しみ」が狂気にまで煮詰まったものがあった。
完璧を求めるのは、二度と傷つきたくないという、ひどく人間らしい弱さの裏返しだったのだ。
「……なるほどな。お前も、ただの不器用な人間だったってわけだ」
「黙りなさい、アレン・ウォーカー」
ヴィクトリアの冷たい視線が、俺を射抜いた。
「あなたは、システムにおいて最も予測不可能な『特異点』。本来なら、真っ先に排除されるべき存在。……ですが、ナビゲーションシステムがあなたを監視下に置いていたため、私は手を出せなかった」
「……」
「しかし、もうその必要はありません。メインサーバーは、あなたの排除を決定しました。ここで、セレスティアと共に、あなたも消去します」
——ナビゲーションシステムが、俺を監視下に置いていた。
その言葉が、俺の胸に引っかかった。
「監視」。
あのナビが、俺を守っていたのか、それとも——。
だが、考える暇はなかった。
ヴィクトリアが右手を上げると、玉座の間の床が轟音と共に割れ、巨大な黒い魔法陣が浮かび上がった。
そこから、数え切れないほどの魔物たちが這い出してくる。
シャドウ・ウルフ、ストーン・ゴブリン、そして、見たこともない異形の魔物たち。
「……さあ、バグの掃除を始めましょう」
ヴィクトリアの冷酷な宣言と共に、魔物たちが一斉に俺たちに襲いかかってきた。
最終決戦の幕が、切って落とされた。




