暗殺者の忠義
翌朝。
折れ曲がった鍬の柄を直すため、俺はドノバン爺さんの家へ向かった。
セレスティアは「昨夜の罪滅ぼし」と言って、朝から一人で畑の草むしりをしている。
クロエは俺の護衛だと言って、後ろを無言でついてきていた。
「……なあ、クロエ」
「なんだ」
「お前、昨日の夜の騒ぎ、気づいてたんだろ。なんで起きてこなかった」
俺が尋ねると、クロエは少しだけ歩調を遅らせた。
「……殿下と貴様の、痴話喧嘩だと思ったからだ」
「痴話喧嘩で家が吹き飛びそうになるかよ」
「殿下の魔力暴走は感じていた。だが、貴様が止めるだろうと判断した。結果として、私の判断は正しかった」
クロエは、淡々と答える。
その声には、少しの感情も混じっていない。
「貴様は、殿下を傷つける言葉を吐きながら、最後には必ず殿下を受け入れる。殿下の暴走を止められるのは、この世界で貴様だけだ」
「受け入れてねえよ。俺は自分の家を守っただけだ」
「言葉と行動が矛盾しているぞ、アレン」
クロエが、足を止めた。
俺も立ち止まり、振り返る。
「貴様は、殿下を『厄介者』と呼びながら、決して追い出そうとはしない。殿下の狂気を受け止め、その魔力を相殺し、日常の中に繋ぎ止めている。それは、貴様が殿下に対して、何らかの感情を抱いている証拠ではないのか」
クロエの鋭い視線が、俺を射抜く。
図星を突かれたような気がして、俺は視線を逸らした。
「……俺は、誰のことも愛さねえよ。ただ、あいつが一人で勝手に壊れていくのを、見て見ぬ振りができないだけだ」
「それが『愛』だと、なぜ認めない」
「愛じゃない。俺はただ……」
言葉に詰まった。
俺はただ、セレスティアの中に、かつての自分を見ているだけだ。
誰にも愛されず、誰にも理解されず、狂うことでしか自分を保てない不器用な生き物。
孤児院で泥水に顔を突っ込んでいた俺と、王宮で完璧な作り笑いを浮かべていたセレスティアは、根本的な部分で同じだ。
だから、見捨てられない。
それだけのことだ。
「……まあいい」
クロエは、小さく息を吐いた。
「貴様が殿下をどう思っていようと、私の目的は変わらない。私は、殿下をお守りする。そのためなら、貴様の命を奪うことも辞さない」
「物騒なこと言うな。俺が死んだら、あいつはもっと狂うぞ」
「わかっている。だから、貴様には生きていてもらわねば困る。……少なくとも、今は」
クロエは、再び歩き出した。
その背中を見ながら、俺はふと思った。
「クロエ。お前は、なんでそこまでセレスティアに忠誠を誓ってるんだ?」
暗殺部隊の隊長。
命令があれば誰でも殺す冷酷な殺人機械。
そんな彼女が、なぜセレスティア個人のために、こんな辺境の村で泥にまみれているのか。
クロエは、立ち止まらずに答えた。
「……私は、影の中で生まれ、影の中で死ぬ運命だった。私に名前を与え、光の当たる場所へ引き上げてくださったのが、殿下だ」
「名前を?」
「ああ。私は元々、ただの『十三番』という番号で呼ばれていた。殿下は、私に『クロエ』という名前をくださった。そして、私の目を真っ直ぐに見て、『あなたは私の大切な人よ』と仰ってくださった」
クロエの声が、初めて少しだけ震えたような気がした。
「王宮の人間は、誰も私を人間として扱わなかった。道具として、使い捨ての刃としてしか見ていなかった。だが、殿下だけは違った。殿下は、私の魂を救ってくださったのだ」
クロエはそこで言葉を区切り、少しだけ視線を落とした。
彼女の冷たい横顔に、ほんの一瞬だけ、年相応の少女らしい柔らかさが浮かんだ。
「……殿下は、私に花冠の作り方を教えてくださった。暗殺のための毒草しか知らなかった私に、ただ美しいためだけに咲く花の存在を教えてくださったのだ。……不格好な花冠を頭に乗せられた時の、あの温かさを、私は一生忘れない」
だから、命を懸ける。
だから、どんな狂気にも付き従う。
クロエの忠誠は、洗脳や義務ではなく、花冠の温もりを知った彼女自身の「愛」だった。
「……そうか」
俺は、小さく呟いた。
セレスティアは、狂っている。
だが、彼女のその不器用な優しさが、クロエという一人の人間を救ったのも事実だ。
俺の畑をめちゃくちゃにする厄介な王女は、誰かにとっては光なのだ。
「アレン」
クロエが、振り返らずに言った。
「殿下を、頼む。貴様しか、殿下の本当の心に触れることはできない。貴様が殿下を拒絶し続ければ、殿下はいつか、自分自身を壊してしまう」
「……俺に、そんな責任はねえよ」
「責任ではない。これは、私の……願いだ」
暗殺者が、願いを口にした。
俺は、何も答えられなかった。
ドノバン爺さんの家で新しい鍬の柄をもらい、村の広場を通りかかった時だった。
「アレン! アレン・ウォーカー!」
村の入り口の方から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、銀色の鎧に身を包んだ騎士が、息を切らして走ってくる。
王宮近衛騎士団長、シオン・アークライトだ。
「シオン? お前、なんでここに……」
「はぁ……はぁ……。ようやく、見つけたぞ……!」
シオンは、俺の前に立ち止まり、膝に手をついて荒い息を吐いた。
その顔には、深い疲労と、焦燥の色が浮かんでいた。
「王都で……大変なことが起きている。アレン、頼む。お前の力を貸してくれ!」
シオンの悲痛な叫びが、夏の青空に響き渡った。
俺の平穏な日常が、また一つ、音を立てて崩れていくのを感じた。




