夜の侵入者
その夜、俺は奇妙な夢を見た。
泥の海に沈んでいく夢だ。
息ができない。もがけばもがくほど、泥は俺の体を重く包み込み、光の届かない底へと引きずり込んでいく。
だが、不思議と恐怖はなかった。
泥の底は温かく、静かで、誰の嘘も届かない場所だったからだ。
「……ん」
息苦しさに目を覚ますと、俺の体の上に何かが乗っていた。
重い。
物理的に重い。
そして、甘い香りがする。
「……セレスティア」
暗闇の中で目を凝らすと、俺の布団の上に、セレスティアが馬乗りになっていた。
彼女の長い金髪が、俺の顔にパラパラとかかっている。
その青い瞳は、暗闇の中でも異様な光を放ち、俺をじっと見下ろしていた。
「……何してんだ、お前」
「アレン様の寝顔を拝見しておりました。泥のように深い眠り。なんて美しいのでしょう」
「……退け。重い」
「嫌です」
セレスティアは、俺の胸に顔をうずめた。
彼女の体温が、薄い布越しに伝わってくる。
心臓の音が、俺の心臓の音と重なるように響く。
「アレン様……私、不安なのです」
「……何が」
「クロエが言っていました。アレン様は、私の心を支配していると。私がアレン様に依存しているだけだと」
セレスティアの声は、震えていた。
いつもの狂気じみた明るさはなく、ただの怯える少女のような声。
「私は、アレン様を愛しています。この命に代えても。でも、アレン様は私を愛してくださらない。私のこの気持ちは、本当に『愛』なのでしょうか? それとも、クロエが言うように、ただの『依存』なのでしょうか?」
「……知るか。そんなもん、自分で考えろ」
俺は、冷たく突き放した。
だが、セレスティアは俺の胸から顔を上げず、さらに強く抱きついてきた。
「教えてください、アレン様。愛とは、何ですか? どうすれば、アレン様に私の気持ちが届くのですか?」
愛とは何か。
そんなこと、俺が知るわけがない。
孤児院で育った俺にとって、愛とは「大人たちが子供を騙すための便利な言葉」でしかなかった。
「……愛なんてものは、ただの言葉だ」
俺は、暗闇の天井を見つめながら言った。
「他人の心に土足で踏み込んで、勝手に自分の居場所を作るための、都合のいい言い訳だ。お前が俺に向けてるのも、それと同じだ。お前は、自分の寂しさを埋めるために、俺を利用してるだけだ」
「——っ!」
セレスティアの体が、ビクッと跳ねた。
残酷な言葉だということはわかっていた。
だが、ここで優しさを見せれば、俺は彼女の泥沼に引きずり込まれる。
だから、徹底的に突き放すしかない。
「お前は、王宮で誰も本当の自分を見てくれなかったって言ったな。だから、お前をぞんざいに扱う俺に惹かれた。それは愛じゃない。ただの現実逃避だ。俺はお前の逃げ場所じゃねえ」
沈黙が落ちた。
セレスティアは、何も言わない。
ただ、彼女の体から伝わってくる震えが、少しずつ大きくなっているのがわかった。
『マスター。対象個体セレスティアの精神状態が危険領域に突入しています。魔力出力が急激に不安定化。……バグの発生確率が98%を超えました』
ナビの警告音が、脳内でガンガンと鳴り響く。
まずい。
言い過ぎたか。
「……セレスティア」
俺が声をかけようとした、その瞬間。
セレスティアが、ゆっくりと顔を上げた。
暗闇の中で、彼女の青い瞳が、不気味なほど冷たく澄み切っていた。
「……現実逃避」
彼女の口から、氷のように冷たい声が漏れた。
「私が、アレン様を利用している……?」
「……あ、ああ。そうだ」
「ふふっ……あははははっ!」
セレスティアは、突然、狂ったように笑い出した。
その笑い声は、あばら屋の壁を震わせ、俺の鼓膜を劈く。
「素晴らしい……! ああ、なんて素晴らしいのでしょう、アレン様!」
「……は?」
「アレン様は、私の心の奥底にある醜い部分まで、全て見透かしておられたのですね! そうです、私はアレン様を利用しています! アレン様という存在がなければ、私は生きていけない! これは愛ではないかもしれない! ただの醜い執着かもしれない!」
セレスティアは、俺の両肩を強く掴んだ。
その指先が、肉に食い込むほど痛い。
「でも、それでいいのです! 愛でも、執着でも、呪いでも構わない! 私は、この感情をアレン様にぶつけ続けます! アレン様が私を拒絶すればするほど、私はアレン様を深く、深く求めてしまう!」
狂っている。
完全に、壊れている。
俺の拒絶すらも、彼女の中では「自分を理解してくれた」という喜びに変換されてしまったのだ。
『警告。対象個体セレスティアの魔力出力が限界を突破。……空間の物理法則が崩壊を開始します』
ナビの声と同時に。
あばら屋の床下から、青白い光が漏れ出した。
光は瞬く間に部屋全体を包み込み、壁や天井の木材を透過していく。
「おい、セレスティア! 魔力を抑えろ!」
「抑えられませんわ! 私の心が、アレン様を求めて爆発しそうなのです!」
セレスティアの背中から、青白い光の翼のようなものが生え始めた。
魔力が物理的な形を成しているのだ。
このままでは、家ごと吹き飛ぶ。
「チィッ……!」
俺は、セレスティアを力任せに突き飛ばし、布団から跳ね起きた。
そして、壁際に立てかけてあった鍬を手に取る。
『マスター。特異点能力、強制起動。対象の魔力を相殺するためのエネルギーを鍬に充填します』
「やれ!」
俺は、青白い光を放つ鍬を高く振り上げ、セレスティアの背後に広がる光の翼に向かって振り下ろした。
ガァァァァン!!
凄まじい衝撃音が響き、光の翼が砕け散った。
反動で、俺の体は壁まで吹き飛ばされ、背中を強く打ち付けた。
「がはっ……!」
息が詰まる。
視界が明滅する。
「アレン様!」
セレスティアが、悲鳴を上げて俺に駆け寄ってきた。
彼女の魔力は霧散し、部屋は再び暗闇に包まれている。
「……触るな」
俺は、手を伸ばしてきたセレスティアを払いのけた。
呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「……お前の感情がどうであれ、俺の家を壊すのだけは許さねえ。次やったら、本気で追い出すぞ」
「……はい。申し訳ありません、アレン様」
セレスティアは、泥の床に正座し、深く頭を下げた。
その声は、どこか満足げに聞こえた。
俺が彼女を「追い出さなかった」ことに、喜びを感じているのだろう。
俺は、折れ曲がった鍬の柄を見て、深くため息をついた。
明日、ドノバン爺さんのところで新しい柄を貰ってこなければならない。
セレスティアは、俺が「追い出さなかった」ことに喜びを感じ、その狂気をさらに深く根付かせてしまったのだ。
この泥沼からは、もう抜け出せない。
俺は、そう直感していた。




