黒騎士の農作業
夏の足音が、風に乗って村に届き始めていた。
日差しは日を追うごとに強さを増し、畑の土はすぐに乾いて白茶ける。水やりの回数を増やさなければならない時期だ。
俺は額の汗を手の甲で拭い、空を見上げた。
雲一つない青空。
絶好の農作業日和だが、この暑さは体に堪える。
「アレン、次の木はどこに運べばいい」
背後から、低い声がした。
振り返ると、クロエが自分の身長の倍はあろうかという巨大な丸太を、軽々と肩に担いで立っていた。
黒い鎧は脱ぎ捨て、動きやすい麻の服に着替えている。それでも、彼女の周囲に漂う「歴戦の戦士」の空気は隠しきれていない。
「……家の裏の薪置き場だ。そこら辺に積んどいてくれ」
「承知した」
クロエは丸太を担いだまま、足音一つ立てずに歩いていく。
彼女が村に居着いてから、二週間が経っていた。
当初、俺は彼女が数日で音を上げて王都へ帰ると思っていた。
王室直属の暗殺部隊の隊長。そんな人間が、泥にまみれて木を切り、畑を手伝うような生活に耐えられるはずがないと。
だが、俺の予想は外れた。
クロエは、驚くほど真面目に働いた。
不平不満を一切口にせず、与えられた仕事を完璧にこなす。
力仕事は俺より遥かに早く、剣の技術を応用した薪割りは芸術的な美しさすらあった。
村の連中も、最初は彼女の鋭い目つきを怖がっていたが、今では「働き者のクロエちゃん」としてすっかり受け入れている。
「……お前、本当に暗殺者だったのか?」
丸太を置き終えて戻ってきたクロエに、俺は尋ねた。
彼女は、手ぬぐいで首筋の汗を拭きながら、俺を無表情に見つめ返した。
「なぜそんなことを聞く」
「いや、あまりにも農作業に馴染みすぎてるからな。ドノバン爺さんなんて、お前を孫の嫁にもらいたいって言ってたぞ」
「……それは光栄だが、お断りする。私の命は、殿下のためにある」
クロエは、畑の隅で泥だらけになって雑草を抜いているセレスティアに視線を向けた。
セレスティアは、俺の古着をリメイクした不格好な服を着ている。純白のドレスアーマーは、ついに汚れが落ちなくなり、押し入れの奥に封印された。
それでも、彼女の金髪と青い瞳は、泥の中でも異常なほど輝いている。
「殿下は……変わられた」
クロエが、ぽつりと呟いた。
「王宮におられた頃の殿下は、常に氷のように冷たく、完璧な微笑みを絶やさなかった。誰も殿下の本心を知ることはできなかった」
「……」
「だが、今は違う。笑い、泣き、怒り、泥にまみれて……生きている。私は、あのような殿下のお顔を初めて見た」
クロエの視線が、俺に向けられる。
その目には、敵意も殺気もない。ただ、静かな探求の光があった。
「アレン。貴様は、殿下に何をしたのだ」
「何もしてねえよ。俺はただ、あいつを冷たくあしらってるだけだ。あいつが勝手に、俺の冷たさを『愛』だと勘違いして、勝手に幸せになってるだけだ」
「……そうか」
クロエは、小さく頷いた。
「だとしたら、貴様は世界で一番残酷な男だな」
「残酷?」
「ああ。殿下は、貴様に依存している。貴様が少しでも優しさを見せれば、殿下は喜びで狂うだろう。逆に、貴様が殿下を拒絶し続ければ、殿下は絶望で狂う。貴様は、殿下の精神を完全に支配している」
クロエの言葉は、俺の胸の奥の冷たい部分を正確に突いていた。
俺は、自分がセレスティアの精神を支配していることを、無意識のうちに理解していた。
だからこそ、俺は彼女に優しくしない。
優しくすれば、俺の「何もない」という防壁が崩れ、彼女の重い愛に飲み込まれてしまうとわかっているからだ。
「……俺は、誰のことも支配する気はねえ。あいつが勝手に狂ってるだけだ」
「そう言い逃れられるのも、今のうちだ」
クロエは、再び丸太を運ぶために山の方へ歩き出した。
「殿下の魔力は、日々増大している。貴様への愛が、殿下の力を際限なく引き上げているのだ。いずれ、その力は貴様自身を……いや、この世界そのものを焼き尽くすかもしれんぞ」
クロエの背中を見送りながら、俺は舌打ちをした。
世界を焼き尽くす。
冗談じゃない。俺はただ、静かに畑を耕して生きたいだけだ。
『マスター。対象個体クロエの推測は、システム上の計算と一致しています。対象個体セレスティアの魔力出力は、マスターとの接触開始時から300%増加しています』
脳内で、ナビがクロエの言葉を裏付ける。
「……どうすればいいんだ。あいつを追い返してもバグは直らねえんだろ」
『はい。現在の状況では、対象個体セレスティアの精神を「安定した状態」で固定する必要があります。つまり、マスターが彼女の愛を受け入れ、永遠の誓いを立てることです』
「断る」
俺は即答した。
「俺は、愛なんて信じねえ。永遠なんて言葉は、もっと信じねえ。そんな嘘をつくくらいなら、世界が焼き尽くされた方がマシだ」
『……非論理的な選択です。マスターの生存確率を著しく低下させます』
「俺の命は俺のもんだ。生き方も、死に方も、俺が決める」
俺は鍬を握り直し、再び土を掘り始めた。
ザクッ。ザクッ。
泥の重さ。
この感触だけが、俺の真実だ。
愛だの、運命だの、システムだの。
そんな目に見えない不確かなものに、俺の人生を振り回されてたまるか。
だが、俺のその意地が、セレスティアの狂気をさらに加速させることになるとは、この時の俺はまだ気づいていなかった。
いや、気づかないふりをしていただけかもしれない。
俺は、自分が思っている以上に、この狂った王女の存在に慣れ始めていたのだから。




