EPI.012 2026年7月某日 -北海道旅行・転- 閑話パート
「瑞希パイセン、将来G1勝ちそうな仔わかる?」
「わかるわけないでしょ」
用意されていた椅子に腰かけて、まりあは手元のカタログをぱらぱらとめくっている。図鑑のような分厚さを持つカタログであるがしっかりと読み込まれた痕跡があり、また、ページのいくつかには様々な色の付箋が飛び出していた。
落ち着いた様子のまりあとは対照的に、瑞希は隣ですこぶるに居心地の悪さを感じていた。
「まりあちゃんは分かるの?」
「まさか」
「じゃあ、どうやって買う子を決めるの?」
「血統、馬体、歩様、気性、値段、あと、その日の気分。そのあたりを総合的に、かしらね」
「条件にぴったりの子がいたら、それが強い子ってこと?」
「強いかもしれないし、強くないかもしれない。少なくとも私は、『この子は100%走る!!』なんて確信を持って買ったことは一度もないわ。ほかの参加者たちも、何を重視するかの違いだったり、譲れないこだわりだったりはあるかもしれないけれど、絶対的な確信を持って入札している人はひとりもいないじゃんないかしら」
まりあの話を聞いて、ずいぶんとぼんやりとした買い物なんだなあと瑞希は思う。
そして、その不確かさにもかかわらず、目の前で取引されている仔馬たちは――、
《1億6000万ー、1億6000万ー、ございませんかー、1億6000万ー》
とんでもない金額が飛び交っている。
まりあ曰く、いまセリに出ている子は母が海外重賞を複数勝っていて、且つ父もリーディングサイアー常連の良血馬で、さらに兄弟にオープン馬がいることもあり値が吊り上がっているとのことだ。
「ねえ、瑞希パイセン。この子、走ると思う?」
今まさにセリの舞台でどんどん値が吊り上げられている仔馬を指さし、まりあが言う。
「さっきも言ったけれど、私にわかるわけないでしょ。というか、全然現実感のない金銭のやり取りをずっと見ていたせいか、何だかすこし頭がぼーっとしてきたところよ。そんな私に聞いてどうするの」
「直感で選ぶ占いや心理クイズみたいなものだと思って考えてみて。もとから正解不正解なんてないんだから、気楽にさくっと」
「そんなこと言われても」
「瑞希パイセンの五感を総動員して直感的に、この子は走る、走らない、どちらだと思う?」
「……よくわかんないけど、この子はあんまり競走が好きじゃないような気がする」
瑞希がそう言ったタイミングで、オークショニアがハンマーをたたく。
《2億4000万円で落札です。番号を》
会場に小さな拍手が起こる。
並み居る目利きの馬主たちが競り合い、実際に二億円以上の値が付けられた評価と、瑞希の評価との乖離に、まりあは何を言うでもなく、ただ、ふーんと息を吐く。
そして、隣の瀬場へ顔を寄せる。
「瀬場、予算は?」
「まりあ様に委任されている額はこれだけと剛拳様より言付かっております」
瀨場は両の手のひらを広げる。
「10本ね。で、本当の予算は?」
「聞かれても絶対に答えるなと剛拳様より厳命されております」
「馬鹿言わないで。何年私のお目付け役やってるの。さっさと観念して答えなさい」
「――20まで。これを超えると、私もかばいきれません」
「分かったわ。ありがとう」
それだけ言って、まりあは再びカタログをぱらぱらとめくり始めた。
お金持ちの金銭感覚とお金の単位はさっぱりわからないけれど、たぶん『1本』という単位は自分のお小遣いを何年分ためてもたどり着かない額なのだろうなと瑞希は思った。
すると、途端に自分が場違いな場所にまぎれ込んでしまっていることを思い出し、ごまかすようにカタログを読むふりをする。
その手を、隣に座っていたまりあが止めた。
「パイセンはカタログを読む必要はないわ。ただ、次々と出てくる仔馬を見て、走りそうな子だなって思ったら教えて頂戴。直観だけでいいわ」
「はあ……」
いったいどういう理屈なのか不可解なことこの上ないが、まりあは本気で、ド素人である瑞希の直感を信頼しているようだった。
彼女の意図は相変わらずよくわからない。だが、やはり本気なのだということは分かる。
彼女は本気で、瑞希の直感をあてにしているのだ。
それはつまり、自分がのんきな観光客ポジションでいられないということ。そう悟った瑞希はまた胃が小さくなるのを感じた。
それから仔馬のセリをぼーっと眺めて小一時間ほどたったころ。新しくやってきた栗色の毛並みをした仔馬と目が合った瞬間、瑞希はぞくりとするものを背中に感じ、思わず身震いした。
「――この仔?」
瑞希の反応を目ざとく察したまりあが、顔をのぞき込むように尋ねる。
あくまで直感。ただの直感だ。
自信も根拠もなにもない。
だけど、なぜか、瑞希は思った。
目を見た瞬間、感じた。
この子は、誰より走りたがっている、と。
まりあは一切迷いがなかった。
「瀬場。お願い」
「かしこまりました」
瀬場が軽く手を上げると、スポッターが素早く反応した。
オークショニアが大声で入札を宣言する。
《はい、正面中ほどのお客様。3500万いただきました》
会場中の視線が三人へと集まる。
ついに、火中へ飛び込んだ。
競馬の知識などまるでない自分の思い付きで、まりあは本当に入札してしまった。
それも、3500万円というとんでもない額の仔馬に。
気が気でない瑞希とは対照的に、まりあと瀬場は、まるで退屈な古い映画でも見ているように、ただ無言でオークショニアの様子をうかがっている。
《3600万ー、3600万ー、ございませんかー、3600万ー》
そのとき、会場が少しざわつく。
オークショニアが、大声で価格を更新する。
《はい、前列の右側の方、3600万円いただきました》
まりあが、小さく舌打ちをする。
「瀬場」
「はい」
「競って」
「上限は?」
「とりあえず12本」
「かしこまりました」
言うや否や、瀬場が小さく手を上げる。
《はい、正面の方。3700万円いただきました》
すかさず、離れたところでスポッターの声が上がる。
《はい、右手の方、3800万円いただきました》
会場のざわめきが少しずつ大きくなる。
セリの応酬が始まる予感に、緊張感のある熱気が、会場を包み始めた。
《はい、正面の方。3900万円いただきました》
《はい、右手の方、4000万円いただきました》
延々と繰り広げられる入札の応酬。
オークショニアがこちらを見て大声を出すたびに、心臓が止まりそうになる。
瑞希は、ただ、早くこの時間が終わってくれと祈りながら、壊れそうなくらいに高鳴る胸をぎゅっと押さえていた。
――――。
――――。
《ございませんか? ございませんか?》
ハンマーが叩かれる。
《正面の方、5800万円です。番号を》
やっと、終わった。
瑞希は、忘れていた呼吸を思い出したように、深く息を吐く。
――5800万円。
1億円を超える価格で取引されることも珍しくない相場の中では極端に高いわけではないが、それでも途方もない大金だ。
「ありがとう、瀬場」
「申し訳ありません。5000万までには収めたかったのですが」
「いいえ、上出来よ」
「予算の残額は半分を割っています。この後の入札には十分お気を付けください」
「もちろん承知しているわ。もっとも、瑞希パイセンセレクションのこの仔を無事落札できた以上、あとは消化試合のようなものよ。カタログを下調べしていた限りじゃ、この後はぱっとした仔もいないし、熱くなることもないでしょう。気楽にやるわ」
その宣言のわずか10分後。
まりあは、『最高に顔がいい』との理由で一頭の仔馬に入れあげ、二人の制止を振り切りながら入札を繰り返し、最終的に1億2000万円で落札したところで、瀬場と瑞希に引きずられるようにセレクトセールの会場を後した。




