第〇一六話 分家
レティシアから貰った『大好き』という言葉の温もりが、まだ胸に残っている。しかし、その代償というわけではないが、ナイフで傷つけた俺の指からは、未だに血が滲んでいた。
「ルシャ様、もう少しご自身のことを考えて行動なさってください」
呆れたような、それでいて心配そうなリリアナの声。彼女は俺の手を取ると、躊躇なく血のついた指を自分の口に含んだ。
「すまない。しかし、治療に指を舐める必要があるのか?」
「指が血だらけでしたので」
リリアナはさも当然という顔で答える。理由になっているようで、なっていない気がするのだが……。
「そういえば、魔法の発動がまだ出来ないという問題もあったんだったな」
「レティシア殿下はもう発動可能ですけどね」
さらりと言い放つリリアナの言葉に、俺は思わず固まる。
どうやら、愛しの婚約者は、俺が思っているよりもずっと大人だったようだ……。
◆ ◆ ◆
リリアナの治療が終わっても、レティシアは子猫のように俺の腕に抱きついたままだ。銀色の髪をそっと撫でながら、俺は再び、『ルーシャス』の記憶の海に意識を沈めた。
これだけ好かれているんだ。絶対、過去に会っているはず……!
しかし、ルーシャスの記憶は頻繁に倒れていたせいか、まるで虫食いの古文書のように歯抜けで曖昧な部分が多い。――おかしい。以前探った時よりも、さらに記憶が薄れているような気がする。
俺の勘違いならいいが、ただでさえ不足している情報がこれ以上失われるのは致命的だ。
やはり、レティシアに関する記憶は見つからない。いっそのこと、本人に直接聞いてみるか? いや、もし覚えていないことで機嫌を損ねたら……。
コロコロと変わる彼女の表情を思い浮かべ、俺はその考えを振り払う。
「そういえば、シアは今回、俺と会う以外の目的とかはないのか?」
腕の中の温もりを感じながら尋ねると、彼女は小さく首を横に振る。
「……ない」
まったくない、か。それはそれで困った。もともとゲームばかりしていた俺に、女の子を楽しませる引き出しはほとんどない。
この世界にはテレビゲームもなければ、ボードゲームのような娯楽も見当たらない。ゲーム内にカジノがあったから、トランプぐらいはありそうだが、完全に準備不足だった。
「ルシャ様、昼食の準備が整いましたので、参りましょう」
「分かった。シア、行こう」
部屋を移動する間も、レティシアはぴったりと俺に寄り添っている。これほどまでに愛されている理由が分からないのは、正直、少し怖い。
『レティシアに惚れさせる』という最重要目標は達成できたが、今度は『嫌われないようにする』という新たなミッションが始まったようだ。
やり尽くしたはずのゲームなのに、全く攻略法が通用しないとは、なんて理不尽な世界だろうか。
◆ ◆ ◆
昼食を終えた俺たちは、馬車に揺られていた。
隣ではレティシアが「ふん、ふん、ふ〜ん」と可愛らしい鼻歌を歌っている。俺たちの体調が良いのを見た母様から、「レティシア殿下にアクセサリーを贈ってみてはどうか」と提案されたのだ。
レティシアも満更ではない様子で、窓の外を流れる景色に時折、嬉しそうな吐息を漏らしている。アクセサリーや綺麗なものが好きなのだろう。
ゲームの中ではそういった華やかなものを身に着けている印象がなかっただけに、彼女の新しい一面を発見できたようで、俺の胸も自然と高鳴る。
シャドウブレイズ領は鉱山資源が豊富で、宝石の採掘と加工技術は皇国随一なんだそうだ。
こんなに早く彼女と出会うなんて予想外だったし、ゴーレムの研究に没頭していたせいで、領内のことを調べるのをすっかり忘れていた。
ゲーム開始時には既に封鎖されていたシャドウブレイズ領。
その内側を知れるのは、転生者だけの特権だ。一つひとつの風景が、俺にとっては新鮮で興味深いものに映る。
◆ ◆ ◆
やがて馬車が停まった場所を見て、俺はリリアナに尋ねた。
「ここがそうなのか?」
目の前にあるのは、お世辞にも店とは呼べない、古びた木造の倉庫だった。
「その通りですが、何か?」
「いや、もっとこう、キラキラした華やかな店をイメージしていたんだが……」
「ルシャ様、そんな華やかな店構えでは『どうぞ襲ってください』と言っているようなものです。それに、シャドウブレイズ領が誇る宝石加工技術は、他の貴族たちも喉から手が出るほど欲しがる機密事項。こうして定期的に場所を変えているのですよ」
「なるほど、そうだったのか。もっとシャドウブレイズ領について学ばないとな」
言われてみれば、至極当然の話だ。俺は自分の認識の甘さを恥じる。
その時、軋む音を立てて倉庫の扉が開き、中から甘い香りと共によく通る声が響いた。
「ルーちゃん、いらっしゃい! 姉さんから話は聞いてるわよ」
現れたのは、母の妹、つまり俺の叔母にあたるレイラ・ムーンブレイズ(二十歳)だった。母と同じオーキッド色の薄紫の髪を豊かに巻いており、瞳の色も同じ紫。だが、柔らかな印象の母とは対照的に、レイラの瞳はどこか挑戦的で、見る者を射抜くような強さがある。
百七十センチはあろうかという長身に、モデルもかくやというしなやかな体つきは、歩くたびに艶めかしい色香を振りまいていた。
何より特筆すべきは、その豊満な胸だ。俺の知る限り最も大きい主治医のフリーダよりも、さらに大きい。そういえば、レイラはフリーダと同い年で友人同士だったか。
母の実家であるムーンブレイズ家は、シャドウブレイズ家の分家の中でも、特殊なスキルを持つ者が多いと聞く。本家は他家との婚姻を避け、分家の中から優れた者と当主を結ばせるのが習わしだ。他家、それも皇族と婚約したのは、このルーシャスが初めてのケースとなる。
もともとは分家の中に婚約者候補がいたらしいが、俺が魔力過剰症候群でスキルがゴーレムという『ハズレ』だったため、破談になったそうだ。そのおかげでレティシアと婚約できたのだから、結果的には感謝しかない。
「ルシャ様から離れて下さい」
俺に近づこうとするレイラを、リリアナが素早く制止する。同時に、レティシアも俺の前に立ち、小さな両手を広げて俺をかばうように構えた。
リリアナが警戒するのは分かるが、レティシアは本能でこの叔母が『危険人物』だと察したのだろうか。
実際、この叔母レイラは、幼いルーシャスに過度ないたずらを繰り返した前科があり、近づくことを禁じられていたのだ。
「ちょっと、リリアナ! 可愛い甥っ子に会うのは久しぶりなんだから、ハグぐらい許してくれてもいいじゃない!」
「ライラ様より、レイラ様を近づけないようにと厳命されておりますので。それに、ハグだけとおっしゃる割には、お顔が完全にキスを狙っていますが?」
確かに、レイラはハグと言いながら、唇を尖らせていた。ルーシャスの記憶によれば、俺のファーストキスはこの女に奪われている。
できることなら、その忌まわしい記憶を抹消して、レティシアを正真正銘のファーストキスの相手にしたい。
レティシアとの過去は忘れているくせに、どうしてこんなしょうもない記憶だけが鮮明に残っているのか、実に腹立たしい。
「私とルーちゃんの仲なら、このくらい当たり前よ!」
レイラはそう言うと、挑発するように唇をぺろりと舐めた。その妖艶な仕草に、レティシアはますます警戒を強め、俺の腕にぎゅっとしがみついてくる。レイラもたまには役に立つな。
「あらあら、可愛い婚約者様。そんなに妬けちゃうのね」
レイラは楽しそうに笑うと、俺たちに背を向けた。
「母様から聞いていると思うが、早速、シアに贈るアクセサリーを見せてもらえるか?」
「ルーちゃんの頼みとあらば断れないわね。さあ、ついて来て」
レイラは艶然と微笑むと、俺たちを薄暗い倉庫の中へと誘うのだった。
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