第9話:銀竜の顎と噛み応えへのこだわり
白銀ベーカリーのバックヤードは、パンの焼ける匂いで満ちていた。
小麦粉と、バターと、ほんのり甘い発酵の香り。それが鉄板オーブンの熱気と一緒に肌へまとわりつく。本来なら客として店の前に立っているはずの僕が、なぜか白いエプロンを巻いて、業務用のステンレス台の前に立っている。
「はい透くん、まずは強力粉だ。このボウルに量って入れて」
黒岩さんが僕の横で腕を組んでいる。腕が太い。パン屋というよりはガテン系を彷彿とさせる体格で、でもその顔は完全にニコニコしている。こわもての大男が満面の笑みでパン作りを教えている図は、なかなかの迫力だった。
事の発端は昨日だ。
洞窟で銀華に「パンとは何だ、どう作られるんだ」と聞かれた。もちろん答えられなかった。前の質問攻めの延長だったけれど、金平糖の形を知らなかったときと同じ気まずさが込み上げてきて、「明日、ちゃんと調べてくる」と約束してしまった。
で、折角なら本物のプロに聞こうと思って、普段通り白銀ベーカリーに寄った時「パンが膨らむ仕組みを教えてください」と頭を下げたら黒岩さんは一瞬ぽかんとして、一気に破顔した。
「それなら作ってみるのが早いよ、透くん!」
断る暇もなかった。
「水の温度は大事だからね。冷たすぎると酵母が起きないし、熱すぎると死んじゃうから」
「死ぬ……?」
「うん。イースト菌っていう微生物でさ、パン生地の中で呼吸してるんだ。その呼吸で出るガスが、生地を膨らませるんだよ」
黒岩さんがイースト菌の入った小袋を開けて、ぬるま湯に溶かした。淡い茶色の液体を粉のくぼみに注ぐと、乾いた粉が湿って色を変えていく。
「これが……生きてるんですか」
「生きてる生きてる。こいつらが元気に呼吸してくれないとパンにならないからね」
見えない命が呼吸して、それで生地が膨らむ。頭では理解できるけれど、粉と水を混ぜた塊の中に生き物がいるという感覚はなかなか追いつかない。
「さ、こねて」
言われるままに生地をこね始めた。最初はべたべたして手にくっついて全然まとまらない。台に叩きつけて折り返して、また叩きつけて。黒岩さんが「もっと体重かけて」と言うので全力で押すけれど、腕がだるくなってくる。
「パン作りって力いりますね」
黒岩さんの腕が太い理由、わかった気がする。
「ここが肝心なんだ。ちゃんとこねないとグルテンが出来ないから、膨らみも弱くなる。手を抜くとイースト菌が頑張ってくれても意味なし」
十分くらいこね続けて、やっと生地が滑らかになってきた。手のひらで伸ばすと薄い膜みたいに伸びる。
「お、いいね。じゃあ一次発酵だ」
生地をボウルに入れて濡れ布巾をかぶせた。温かい場所に置いて待つ。
その間に、僕は黒岩さんにもう一つお願いをした。
「すごく硬いパンって、焼けますか」
「硬いパン?」
「はい。バリバリに硬いやつ。噛み応えが……すごいやつ」
黒岩さんが目を丸くした。それから、急にうれしそうな顔になった。
「透くん、やっぱり渋いねえ!俺、フランスの田舎パン系が得意なんだ」
「できるだけガチガチのやつでお願いします」
「おっ、いいねえ。俺もさ、本当はこういうのをもっと焼きたいんだよ。うちの売れ筋はモチモチのほうだけどさ」
黒岩さんの目がいきいきしていた。嬉々として別の生地を一緒に仕込み始める。
一次発酵が終わった生地は、さっきの倍近くに膨らんでいた。布巾をめくったとき、思わず声が出た。
「うわ、本当に膨らんでる」
「ね? イースト菌が呼吸した証拠だ。触ってごらん、指で押すと」
指先でそっと押すと、ぷすっと空気が抜けて生地が少し縮んだ。中にガスが溜まっていたのが指先から伝わる。見えない命が、この中でずっと息をしていたのだ。
正直に言って、ちょっと感動した。
◇
山道に入ったのは昼過ぎで、いつもよりだいぶ遅かった。
成形は黒岩さんがほとんどやってくれた。僕のほうのパンは不恰好だったけど、黒岩さんは「初めてでこれなら上出来」と笑ってくれた。
焼き上がったパンは、黒岩さんでも「ちょっとやりすぎたかな」と言うくらい外殻がガチガチで、指で弾くとコンコンと硬い音がした。
「これは……、かなりキツいかもな」
「きっと大丈夫です。顎は、その……頑丈なので」
黒岩さんは怪訝そうな顔をしていたけれど、深くは聞かれなかった。紙袋にパンを詰めてくれて、「またいつでも作りに来なよ」と背中を叩かれ、感謝を伝えつつ店を出た。
腕がまだ少しだるい。でも今日は、手の中に自分が作ったものがある。その重みがちょっとだけ特別だった。
大岩をくぐって、暗い通路を進んで、祠を過ぎて、奥へ。
広間に入ると、銀華が壁に寄りかかって座っていた。こちらを見上げて、かすかに片眉を上げる。
「透。今日は少し遅めだな」
「ごめん。ちょっと寄り道してた」
銀華の鼻がひくりと動いた。目線が僕のシャツに落ちる。
「……パンの匂いがする。それに、疲れているようだが」
「わかるの。すごいね」
「匂いはわかる。それで、パンの問いはどうなった」
忘れていなかった。当然忘れないよな、銀華だもの。
僕は紙袋を岩の上に置いて、隣に座った。
「パンが膨らむのは、酵母っていう目に見えないくらい小さい命が、生地の中で呼吸してるからなんだ」
「呼吸」
「うん。僕らが息を吸って吐くみたいに、酵母も息をする。そのとき出るガスが生地の中に溜まって、膨らむ」
銀華が黙ったまま聞いている。真剣な目だ。
「でもね、それだけじゃなくて。生地をこねて、待って、形を作って、焼いて。すごく手間がかかる。しかも温度を間違えると酵母が死んじゃうし、こね方が足りないとちゃんと膨らまない」
「……見えない命を練り込んで、温度と力加減を間違えないように育てて、パンを作ると」
「そう、そういうこと」
銀華が腕を組んだ。壁にもたれたまま、天井を仰ぐ。
「執念のようだな。見えないもので、食べるものを作るのは」
執念、という言葉選びが銀華らしい。褒めているのか呆れているのか、たぶん両方だ。
「で、今日はそれを体験してきたんだ。パン屋さんで実際に生地をこねて」
「透が、作ったのか」
「うん。プロに教えてもらいながらだけど」
紙袋からバゲットを取り出した。こんがりと焼けた表面は黒岩さんの言った通り異常に硬い。指で弾くと鈍い音がする。
「これ、僕と黒岩さんで焼いたバゲットっていうパン。ものすごく硬いから、本当に気をつけ――」
言い終わる前に銀華が受け取っていた。
バキンッ。
洞窟に響いた音は、パンを噛む音じゃなかった。小枝を折るような、いや、もっと硬いものが砕ける乾いた音だ。銀華の白い歯がバゲットの端をいとも簡単に噛みちぎっていた。
人間の姿でも、竜の顎。恐るべし。
忠告する意味がまったくなかった。人間なら前歯が欠けかねない硬さを、銀華はまるで煎餅でもかじるように咀嚼している。バリバリ、ゴリゴリと豪快な音が広間に響く。
銀華の目が、見開かれた。
「……この強い抵抗感」
噛む動きが止まらない。ゴリゴリ、バリバリ。音だけ聞いたら何かの工事だ。
「噛めば噛むほど味が出る。強い匂いと、奥に甘さ、がある。これは、良い」
銀華が僕を見た。瞳の奥に光が灯っている。駄菓子のときとも、いつもの固めのパンのときとも違う。もっと深い、本能に近い喜びの色だった。
「これを、透が作ったのか」
「まあ、ほとんど黒岩さんの力だけど」
「いや。透が作ったのだろう」
有無を言わせない口調だった。バゲットの残りを一気に口に押し込んで、ゴリゴリと噛み砕く。全部飲み込んで――銀華の体が、ぶわっと膨れ上がった。
来る。
白銀の鱗が肌を覆い、手足が伸びて爪が岩を噛む。背中が弓なりに反って、首が天井に向かって突き上がる。キリンほどの体躯を持つ竜が、僕の目の前で四肢を踏みしめていた。洞窟の銀が共鳴するように明るさを増す。
銀華が大きく口を開けた。
――ォオオオオオオッッ!!
咆哮。
壁が震え、天井から細かい砂粒がぱらぱらと降ってくる。腹の底から突き上げてくるような振動が、足元を通って全身に伝わった。何度聞いても慣れない。でも、怖くはない。
竜の首がゆっくりと降りてきて、巨大な銀色の瞳がすぐ近くで僕を見つめた。吐息が顔にかかる。温かい。パンの小麦の匂いが混ざっている気がした。
僕は思わず笑った。
「気に入ったみたいだね」
竜は喋れない。でも、鼻先をぐいっと僕の肩口に押しつけてきた。ごつごつした鱗の感触が首筋に当たる。これはお礼のつもりなのか。いつもより結構きついな。
◇
銀華は人間の姿に戻ると、思い出したように口を開いた。
「しかし、パンを作るのは随分と手間がかかるのだな。透にパンをくれる職人はすごいな」
「くれる? いや、もらってるわけじゃないよ」
「む、どういうことだ、拾うのか?」
「拾ってない拾ってない」
そういえば、銀華にお金の話をしたことがなかった。
考えてみれば当然だ。洞窟の中で暮らしている銀華に貨幣経済の概念があるわけない。パンも駄菓子も漫画も、僕が持ち込んだものはいつも「透がくれるもの」だったのだ。
僕はポケットから財布を出した。中から百円玉と千円札を取り出して、銀華の前に並べる。
「これ、お金っていうんだ。人間はものを手に入れるとき、代わりにこれを渡す」
銀華が百円玉をつまみ上げた。銀色の硬貨を裏返して、表面の模様をじっと見つめている。
「硬くて、小さい」
「で、こっちが千円札。紙のお金」
千円札を手渡すと、銀華は指先で端を持ち上げて、不思議そうに観察した。透かしを光にかざしたり、表と裏をひっくり返したり。紙幣の扱いが繊細すぎて、逆に面白い。
「この紙にも絵が描いてあるな、人間だ。この者は誰だ」
「えっと、昔の偉い人」
「偉い人の絵を描いた紙と、パンを交換するのか。それだけの価値が紙にあるということか」
そう言われると答えに詰まった。
「うーん……正確には、この紙そのものに価値があるわけじゃなくて。みんなが『これには価値がある』って信じてるから、交換に使えるんだ」
「みんなが信じているから」
「うん。約束みたいなもの。この紙や小銭を出せば、パンでも漫画でも駄菓子でも、欲しいものと交換できる」
銀華が千円札をじっと見つめている。小さな皺の一本一本まで観察するような目つきだった。
「漫画も、駄菓子も……」
しばらく黙り込んでいた銀華が、唐突に顔を上げた。
「――ならば君は、自分の持つものを減らしてまで、毎回私に色々持ってきていたというのか」
声の温度が変わっていた。さっきまでの好奇心とは違う、もっと真剣な、探るような視線だった。
「まあ、お金を使ってるのは確かだけど」
「お金を渡さなければパンは手に入らない。駄菓子も、漫画も、全部そうだったのではないか」
お小遣いとお年玉から出しているのは事実だから、間違いじゃない。でもそんなことを意識したことがなかった。銀華にパンを持っていくときに損得を考えたことがない。
「パン屋の黒岩さんも、お金があるから材料を買えて、店を続けられる。お客さんがお金を払って、黒岩さんがそのお金で小麦粉を買って、新しいパンを焼く。人間はみんなそうやって回してるんだ」
銀華は膝の上に置いた千円札をじっと見つめていた。
「回している、か。なるほど。では、君のお金は回っていないのではないか。私のところで止まっている」
今日の銀華は妙に鋭いな。
銀華が立ち上がった。広間の隅へ歩いていく。壁際の窪み――鱗と、駄菓子の「問いの残骸」が並んでいる場所に手を伸ばして、純銀の鱗を一枚拾い上げた。
洞窟の光を受けて、鱗がまばゆく光る。
「透。これは、小銭とやらになるか」
銀華がまっすぐこちらを見ていた。冗談の色はどこにもなかった。自分の体の一部を差し出して、透に返せるものはこれしかないと、本気で言っている。
僕は笑った。嫌な笑いじゃなくて、なんだか嬉しくて、でもちょっと困って、混ざった笑いだった。
「いらないよ」
「なぜだ。これでは小銭にはならないのか」
「ならないのもそうだけど、鱗は銀華が持ってるほうがいいよ」
「しかし――」
「パンを持ってくるのに理由はいらない。いつもそうしてきたし、これからもそうする。お金のことは気にしないで」
銀華は鱗を握ったまま動かなかった。銀の指の間から淡い光が漏れている。
しばらくして、銀華が鱗を元の窪みに戻した。丁寧に、他の鱗と並べて。
そのまま壁際に座り直して、膝を抱える。千円札と百円玉はまだ岩の上に置いてある。銀華がそちらにちらりと目をやった。
「……透」
「うん」
「透の持ってくるものには、お前の重さがあったのだな」
なんて返せばいいのかわからなかった。ただの千円札が、銀華の目を通すと別のものに見えてくる。信用とか経済とか、そういう仕組みの話をしたはずなのに。銀華はそこに僕の気持ちを読み取っていた。
僕は財布に硬貨と紙幣をしまった。
沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃなくて、何かが静かに沈殿していくような、重みのある静けさだった。
銀華が膝に顔を埋めたまま、小さな声で呟いた。
「……ありがとう、透」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
ありがとう。お礼の言葉。漫画で読んだのか、辞典で見たのか。銀華がその言葉を使ったのは、今日が初めてだった。
膝に顔を埋めているから、表情は見えない。銀色の髪の隙間から覗く耳が、ほんの少し赤い気がした。洞窟の光のせいかもしれないけれど。
「……どういたしまして」
声が少しだけ上擦った。
広間の天井から銀色の光が降りている。壁際の窪みに並んだ鱗と、駄菓子の包装紙と、その隣に置かれた記憶のかけらたち。銀華はまだ膝に顔を埋めたままだった。




