第10話:都会からやってきた喧騒と銀竜の怒り
扉が勢いよく開いたとき、僕はまだ布団の中にいた。
「お兄ちゃーん、起きてるー?」
起きてない。いや、今ので起きた。
布団を頭まで引き上げる間もなく、どたどたと足音が近づいてきて、お腹に体重がのしかかった。起こすためだけなのに容赦がない。
「ちょ……澪、重い」
「重くないし! 女子に普通それ言う?」
妹の旭日澪は、僕の上に座ったまま退く気配がなかった。同い年の子より頭一つ小さいくせに、態度だけはでかい。朝だというのに髪は寝ぐせひとつ無いし、さらにはゆるくウェーブまでかかっていて、最後に会ったときよりだいぶ色気づいている。都会の女子はこわい。
春休みの終わりも見えてきた頃、都会から家族がやってきた。父さんと母さん、そして澪。毎年何度も帰省しているが、今回は昨日の夜の到来だった。
ようやく澪を引き剥がして居間へ行くと、おばあちゃんが台所で大量の煮物を仕込んでいて、おじいちゃんが縁側で父さんと茶を飲んでいる。母さんはすでにキッチン周りの衛生状態を点検しており、「透、冷蔵庫の中のこれ何? 賞味期限いつ?」と聞いてくる声が台所から飛んでくる。
静かだった祖父母の家が、一気に賑やかになった。いや、賑やかというか、もはや騒がしい。
「そうだ、これお土産!」
澪が僕の目の前に差し出したものは、銀色の体にまんまるの目。ちんまりとした手足と、デフォルメされた短い尻尾。見覚えのある――というか、つい先日も商店街で見たばかりの、あの「ツキゴンちゃん」のぬいぐるみだった。
澪はいやがらせのように、毎回のお土産でツキゴングッズを買ってくるのだ。
「かわいくない? サービスエリアで買ってきた!」
澪は満面の笑みで、ぬいぐるみをぐいぐい押しつけてくる。
「……ありがと」
「え、反応うすっ。もっと喜べよ」
「喜ぶわけないだろ、こんなの商店街にいくらでも売ってるんだから。毎回ツキゴングッズ買ってくるのやめてくれよ」
「でもかわいいじゃん! ほら、部屋に飾っときなよ」
かわいい、か。僕は本物を知っている。壁際の窪みに鱗と駄菓子の残骸を並べて、バゲットを噛み砕いて咆哮するあの銀竜を。デフォルメされたまんまるの目と、実物の鋭い瞳はまるで別物だ。
(本物はもっと格好いいしな……)
ぬいぐるみを受け取って、机に置いた。銀華がこれ見たらまた不快な顔するんだろうな、と思いながら。
澪は今年で中学に上がる。十二歳。小さい頃は喘息がひどくて、両親がこの町への移住を決めたのも、もとはと言えば澪の療養のためだった。空気が良くて、自然が豊かで、体にいい環境。実際に移住してから澪の症状はみるみる良くなって、数年後にはもう通院の必要もなくなった。
両親と澪は都会に戻った。父さんの仕事のこともあったし、都会の環境に戻りたがった。
そうして、僕だけが残った。
理由は色々ある。祖父母の家に馴染んだこと、友達ができたこと、山に慣れたこと。でも本当のところは一つだ。洞窟に行きたかったから、というのが全てで、誰にも言えない理由。
居間に降りると、おばあちゃんの豚汁と筑前煮が食卓に並んでいた。澪は椅子に座るなり「おばあちゃんのご飯最高!」と歓声を上げて、父さんは黙々と食べて時折うなずき、母さんは「透、ちゃんと野菜食べてるの」としつこく確認してくる。おじいちゃんは朝から焼酎のお湯割りを片手に、孫が二人揃った食卓をにこにこ眺めていた。
家族が揃うと、空気の密度が変わる。音と会話と気配が、何倍にも膨れ上がる。少し眩しくて、でも嫌いじゃない。洞窟の銀色の静寂とは対極の、人間のあたたかい喧騒。
ただ、こうなると家を空けるのは不可能だった。
食事の後は過保護な母さんに捕まって高校の入学準備の確認をさせられ、父さんには制服の採寸がどうとか教科書がどうとか聞かれ、ようやく一息ついたと思ったら澪が「お兄ちゃん温泉行こうよ」と言い出した。
めまぐるしい。
結局、洞窟に行く隙がなかった。丸一日、完全に家族に拘束されて。
夜、寝る前に澪と居間で二人になった。父さんと母さんはもう寝室に引き上げている。おじいちゃんとおばあちゃんも早寝だ。
僕はここで、前もって澪に頼んでいたものを切り出した。
「澪、そういえば漫画持ってきてくれた?」
「あー、それね。持ってきたよ」
澪が旅行かばんの奥から、ずしりと重い紙袋を引っ張り出した。中身は少女漫画の単行本。背表紙に花やリボンがあしらわれた、僕の本棚には絶対に並ばない類の本だ。
「もう読まないやつだけど、結構あった。 全部で三十冊くらい」
「ありがとう。助かる」
銀華に新しいジャンルを見せたかった。少年漫画は『宝石の竜』以外にも何冊か持ち込んだけれど、日常や恋愛を描いた作品はまだだ。
紙袋を受け取って中身を確認していると、澪が膝を抱えたまま、にやにやとこちらを見ていた。
「何」
「お兄ちゃんさ、さては彼女でもできたの?」
手が止まった。
「……は?」
「だって少女漫画でしょ。男子がわざわざ妹に少女漫画くれって頼む? 普通に考えてヤバいでしょ」
「違うから」
「えー、じゃあ何に使うのよ」
「読むんだよ。普通に」
「んなわけ。お兄ちゃん少女漫画読まないじゃん。小学校の時からドラゴンの本しか読んでなかったし」
澪の目が据わっている。からかっているというより、観察している目だ。この子は昔からこうだった。口が達者で、人の嘘を見抜くのが妙にうまい。
「あでも、彼女ではないか。今違うって顔した」
「そう?」
「してたよ。でも何か秘密にしてるでしょ」
心臓がひやりとした。妹の洞察力が、妙に的確に刺さる。
「……別に。友達に頼まれただけ」
「ふーん」
澪は納得していなかった。でもそれ以上は追及してこなかった。代わりに、紙袋の中から一冊抜き出して表紙をこちらに見せた。
「これね、めっちゃ泣けるから。五巻まであるけど三巻で号泣するよ」
「泣く前提なの」
「泣くから!」
僕は笑って紙袋を閉じた。
明日、洞窟に持っていこう。銀華がどんな反応をするか、楽しみだな。
◇
翌朝、僕は紙袋を抱えて家を出た。
「山行ってくる」
「気をつけてね。お昼には戻るんでしょう?」と母さん。「いってらっしゃい」とおじいちゃん。「あ、お兄ちゃんまた山!」と澪が食卓から声を上げたが、振り返らずに玄関を出た。
春の山道は陽射しが柔らかくて、足元の落ち葉も湿り気を帯びている。風が通るたびに木々がざわめいて、鳥の声がする。ずしりと重い紙袋を脇に抱えて、いつもの道を登る。
大岩をくぐり、暗い通路を抜け、祠を過ぎて、奥へ。
広間に入った。
銀華は、壁際にいた。
いつもの場所。いつもの体勢。膝を立てて壁に背を預け、目をつむっている。ここまでは普通だ。
ただ、違和感があった。
「銀華、おはよう」
「……ああ」
こちらを見ない。目をつむったまま、返事はしたのに眠ったように動かない。いつもなら僕が来た瞬間に顔を上げて、何を持ってきたかと目を輝かせるはずなのに。
「あの、お土産あるんだけど」
紙袋を持ち上げて見せた。妹から貰った少女漫画を、全部は一度に持っていけないから十冊くらい。新しい漫画を持ち込むたびに目の色を変えて食いつくはずが――。
「……そうか」
それだけだった。
空気が冷たい。洞窟の温度の話じゃなくて、銀華から放たれている気配そのものが、普段と違う。張り詰めている。薄い氷の上に立っているような緊張感が、広間を満たしていた。
僕は紙袋を地面にそっと置いて、少し離れた場所に座った。
しばらく無言が続いた。二人とも喋らない洞窟はとても静かで、耳鳴りが聞こえてきそうだ。
ああ、これはもしかして。
昨日、僕が来なかったから。
このところ、春休みに入ってからほぼ毎日通っていた。大雨の日は無かったし、最近なんかは一日も開けずに洞窟へ来ていた。最初の頃は週に一回、十日に一回くらいだったのに、最近はもう毎日が当たり前になっていた。銀華にとっても、僕にとっても。
それが一日、途切れたから?
「……銀華」
「何だ」
「昨日来られなくて、ごめん」
頭を下げた。銀華の視線がようやくこちらに向く。表情は平坦だけど、目の奥にかすかな揺れがあった。
「妹が来てたんだ。都会に住んでる家族が帰ってきて、一日中家にいたんだ。抜け出す隙がなくて」
「……妹」
「うん。僕の、妹。澪っていう。十二歳の」
銀華がわずかに眉を動かした。情報を咀嚼している顔だ。
銀華は黙って僕を見ていた。怒っているようにも見えた。でもどこか違う。怒りなら、もっとわかりやすい。銀華の怒りは言葉に出るし、表情にも出る。今の銀華は、自分の気持ちが自分でもわかっていないような顔をしていた。
「銀華。僕が勝手に、約束もしないで来なかったんだから。怒っていいんだよ」
できるだけ穏やかに言った。
銀華がこちらを見上げた。それから、少し眉を寄せて、自分の胸のあたりに手を当てた。ぎゅっと、服の上から押さえるように。
「……怒る、か」
呟くような声だった。
「私は、一日透が来ないだけで、良くない気分になった」
銀華の指が、胸元の布を握りしめている。
「しかし、それが怒りかと言われると……違う気がする」
「違う?」
「怒りというのは、もっと熱いものだろう。怒った人間は顔が赤くなって、声が大きくなって、暴れたくなると」
少年漫画の知識だ。間違ってはいないけど、それがすべてでもない。
「でも私のこれは、熱くなかった」
銀華が目を伏せた。銀色の睫毛が影を落とす。
「もっと静かで、冷たくて……痛みがあった。何かが足りないような。そわそわして、落ち着かなくて、漫画を読んでいても頭に入らない」
小さく息を吐く。
「私は、この気持ちがわからない」
銀華のその言葉は、僕には少しだけ遠かった。
それは「寂しさ」じゃないか、と思ったけど。銀華の感じているものが本当に「寂しさ」だなんて、今回は言い切れなかった。
当然のことだけど、わからないのだ。僕は銀華のことをすべて理解しているつもりなんてなかったけれど、こうして改めて突きつけられると、その距離がはっきりと見える。八年通い続けて、漫画を持ち込んで、パンを焼いて、それでもまだ、銀華の中には僕の知らない領域がある。
「……ごめん、銀華。でも、今日は来たから」
僕は紙袋から少女漫画を一冊取り出して、銀華の隣に座った。肩が触れるくらいの距離。近い。でも今はこのくらいがいい気がした。
「一緒にこれ読もう。今日のお土産、新しいジャンルなんだ」
表紙を見せると、銀華がちらりと目をやった。花柄の背景に、男女が向かい合っている絵。いつもの冒険ものとは明らかに違う空気の装丁だ。
「……これは」
「少女漫画っていうんだ。人間の恋愛とか、日常とか、そういう話が多い」
「恋愛」
聞いたことのない単語を噛み締めるように、銀華が復唱した。目がわずかに細まる。好奇心の兆しだ。
「妹から譲ってもらったんだ」
銀華がしばらく黙っていた。それから、不器用にからだを傾けてきた。肩口に銀色の髪が触れる。すり寄る、と言ったほうが近い動作だった。猫の変身をしたときに見せた、あの落ち着く場所を探すような仕草に似ている。
銀華の手が漫画に伸びた。表紙の上に白い指が乗る。ゆっくりと開いて、最初のページに目を落とす。
何も言わなかった。ただ漫画を読み始めた。
広間に紙のめくれる音が入った。二つ分の呼吸と、ページを送る乾いた音。洞窟の壁に沈んだ銀が淡く光って、僕らの影を揺らしている。




