第44話:銀華と銀色の指輪
目覚ましより先に目が覚めた。
布団の中で天井を見つめたまま、昨日のことを思い返す。思い返すというか、ずっと頭の中をぐるぐる回っていて、寝ている間も回っていたから、目覚ましが鳴る前に回転の勢いで起きてしまった。
水族館。海。イルカ。タコ。夕焼けの帰り道。
——透と私は、恋人だ。
銀華の声が、どこかから聞こえる。
あの後のことを、僕はほとんど覚えていない。マンションの前まで手を繋いだまま歩いたはずだ。何か喋ったはずだ。「じゃあまた明日」とか「おやすみ」とか、そういう当たり前のことを言ったはずだ。でも、何を言ったか一切思い出せない。頭が真っ白だったのか、真っ赤だったのか、そのどっちかだ。
恋人。
僕が言い出したのだ。「僕たちも、恋人になってみる?」なんて——。
なってみる、って何だ。お試しみたいな言い方しやがって。それを銀華は「それは良いな」と頷いた。明日の天気を訊かれたみたいな顔で。いや、そのあとちゃんと嬉しそうに繋いだ手を揺らしていたから、嬉しかったのだと思う。思いたい。
布団の中で何度も寝返りを打つ。祖父母はもう起きているらしく、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。いつもの朝だ。なのに全然いつもじゃない。
ポケットの中にあった指輪は、昨夜、机の引き出しにしまった。千五百円の、イルカの尾びれをあしらった銀色の指輪。水族館のお土産。結局渡せなかった。
スマホを手に取る。画面を点けると、メッセージアプリの通知が光っていた。
銀華からだった。
——『どうくつにきて』
短い。用件だけ。
朝の六時二十分に送られている。僕が布団の中で悶々としている間に、銀華はメッセージを送ってきていたらしい。
何だろう。胸がざわつく。
嫌な予感じゃない。嫌な予感じゃないのに、なぜか落ち着かない。昨日「恋人だ」と言ったばかりの相手から、翌朝に呼び出しが来ている。嬉しいのか、怖いのか、その両方なのか、判別がつかなかった。
『わかった。すぐ行く』と返した。
◇
僕は鞄を肩にかけて、いつもの山道を登り始めた。
五月の午前。木漏れ日が足元にちらちらと落ちて、青葉の匂いが鼻をくすぐる。この道を何回歩いてきただろう。小学生の頃から数えたら、もう八年になる。最初は道なんてなかった。獣道すらない藪を掻き分けて、迷って、たどり着いた洞窟。
今は、足が勝手に道を覚えている。
洞窟の入り口に着いた。大岩をくぐって中に入る。ひんやりとした空気が頬を撫でた。奥に進むと、壁に埋まった銀の鉱脈がぼんやりと光っている。いつ見ても、ここだけは別の世界みたいだ。夜空を閉じ込めたような、静かな輝き。
銀華はいた。
いつもの場所——洞窟の奥の、少し広くなった空間。銀の光に照らされた岩肌を背にして、銀華は立っていた。
でも、こっちを向いていなかった。
背中を見せたまま、微動だにしない。
洞窟の銀色の光が、彼女の髪を淡く照らしている。白いブラウスの背中が、まっすぐに伸びている。
「……銀華?」
声をかけると、銀華の肩がぴくりと動いた。でも振り返らない。
「ここで」
銀華が口を開いた。背中を向けたまま。
「私は透に、いろんなことを学んだ」
声は静かだった。洞窟の壁に反響して、少しだけ遠くから聞こえるように感じた。
「パンの味を。言葉を。音楽を。漫画の面白さも、友達も」
指を折るように、一つずつ。
「駄菓子の包装紙の意味も。季節が変わることも。嘘が楽しいことも」
銀華の声が、ほんの少しだけ揺れた。
——別れを告げられるのか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。いっぱい学んで、もう満足したから、洞窟に帰る。そういうことなのか。胸の奥がぎゅっと締まった。昨日「恋人だ」と言ったばかりなのに。いや、だからこそ——。
銀華が振り返った。
笑っていた。
見たことのないくらい、はっきりと。
口の端がいつもよりずっと大きく持ち上がっていて、目が細められている。照れているのか、嬉しいのか、その両方が混ざったような、どちらとも言い切れない表情だった。
「透に、プレゼントがある」
銀華の両手が、小さな包みを差し出していた。
白い箱に包まれた、てのひらに収まるくらいの——。
「……何、これ」
「開けてみろ」
言われるままに、箱を開けた。
中にあったのは、指輪だった。
銀色の、細い金属の輪。
ただの輪じゃない。中央の部分がゆるやかなふたつの曲線を描き、尾びれのような形を作っている。
イルカの、尾びれ。
……え?
これ、僕が買った指輪とまったく同じやつじゃん。
「銀華、これ……」
「きのう、透に内緒で買った」
頭が真っ白になった。
「……なんで、指輪?」
やっと声が出た。かすれていた。
「恋人は、ムードとやらをつくって、プレゼントを渡すものなのだと」
「……なのだと?」
「澄香に聞いた」
「なんで名和さんが?」
「昨日、メッセージで透と恋人になったと話した。そうしたら、澄香がたくさん教えてくれた」
「……すぐ言っちゃうんだから」
「いけなかったのか?」
「いけなくは……ないけど」
「澄香も喜んでいた。恋人ができると、周りも祝うものなのだな」
銀華は淡々と言った。いつもの口調だ。事実を確認するように、一つずつ丁寧に。でもその目は——嬉しさを隠しきれていなかった。口元は真一文字に戻そうとしているのに、頬がわずかに上気していて、目が笑っている。
名和さんに即報告する銀華を想像して、呆れるやら恥ずかしいやら。
——もう。
何でもいいや。
ポケットに手を入れた。指先が小さな箱に触れる。
「僕からもプレゼント」
銀華の目が丸くなった。
箱を開ける。イルカの尾びれをあしらった、シンプルな銀色の指輪。
「……銀華」
声が震えた。でも、今度は口が勝手に動いたんじゃない。自分の意思で。ちゃんと銀華の顔を真っ直ぐに見て。
「僕の恋人になってください」
昨日は、勢いで言った。考えるより先に口が滑った。
今日は違う。ちゃんと言っている。自分が何を言っているか、全部わかって言っている。
銀華は——。
固まっていた。
見たことのない顔をしていた。目が大きく見開かれて、口が半開きになって、そして——
顔が真っ赤になった。
銀華の顔が赤くなるのを、僕は初めて見た。
いつも涼しい顔をしている。嬉しいときも、困ったときも、感情は目や口元のわずかな変化で読み取るしかない。それが、今——耳の先まで朱に染まっている。白い肌だから余計に目立つ。洞窟の銀の光に照らされて、その紅潮がはっきりと見えた。
「きのうも」
銀華の声が、かすれた。
「きのうも……言われたのに」
一度言葉が途切れる。
「今日のほうが、良い」
その一言で、僕の胸の中で何かが弾けた。
恥ずかしいとか、照れくさいとか、そういうのが全部吹き飛んで、ただ——嬉しかった。銀華が嬉しいと言ってくれたことが、ただただ嬉しかった。
「つけて」
「え」
「指輪。つけてみたい」
銀華が右手を差し出した。指が微かに震えている。
箱から指輪を取り出した。僕の手も震えていた。二人して震えている手で、銀華の薬指に、イルカの指輪を通した。少しだけきつかったけど、収まった。
「……入った」
「入ったな」
銀華が自分の手を見つめた。銀色のイルカの尾びれが、洞窟の光を受けて小さく煌めいている。
「今度は、私の番だ」
銀華が手を伸ばして、僕の右手を取った。
銀華の手って、こんなに温かかったっけ。
僕と同じ、イルカの尾びれの指輪が、僕の薬指に通された。
同じ指輪のはずなのに、銀華の手から渡されたそれは、どこか温もりが残っているような——銀華の気持ちが、僕の指に伝わってくるような感覚だった。
「……すごい」
「何がだ」
「いや、まさかお揃いになるなんて思わなかったから。……嬉しいよ」
「澄香は、恋人はお揃いのものを持つのが基本だと言っていたからな」
銀華がふんと鼻を鳴らした。少し得意げな、いつもの銀華だ。
でも、顔は相変わらず赤かった。
互いの指に指輪がある。銀華が僕の指を、僕が銀華の指を、それぞれ見つめている。洞窟の銀の光が二つの指輪を照らして、壁に小さな光の粒を散らしていた。
顔を上げると、銀華の目と目が合った。
近い。
いつの間にか、ものすごく近い距離にいた。指輪をつけ合ったとき、自然と身体が近づいていたのだ。銀華の息が頬にかかるくらいの距離。彼女の瞳の中に洞窟の銀の光が映り込んでいて、それが微かに揺れている。
心臓がうるさい。洞窟の中は静かなのに、自分の心臓の音だけがやかましく響いている。銀華にも聞こえているんじゃないかと思うくらいに。
銀華の目が、僕の目を見つめていた。
真っ直ぐに。逸らさずに。
そのまま——どちらからともなく。
距離が消えた。
柔らかかった。ただそれだけだった。
一瞬。
目を閉じたのか、閉じなかったのか、それすらわからないくらい短い時間で。でも、その一瞬に、いままでの全部が詰まっていた気がした。
唇が離れた。
銀華の顔が、もう、見たこともないくらい赤かった。耳どころか首まで赤い。目が泳いでいる。あの銀華の目が泳いでいる。口をもごもごさせて、何か言おうとして、でも言葉が出てこないらしく、最終的に——。
両手で顔を覆った。
銀華が、両手で顔を覆って、俯いた。
「——……っ」
声にならない声が漏れた。肩が小刻みに震えている。
「銀華? 大丈夫?」
「だいじょう、ぶ」
全然大丈夫じゃない声だった。指の隙間から覗く耳が、信号機みたいに赤い。
しばらくそのまま動かなかった。洞窟の中に、二人の呼吸音だけが響いていた。銀の光が変わらず壁を照らしていて、世界はいつも通り静かだった。
やがて。
銀華がゆっくりと顔を上げた。
まだ赤い。でも、その赤さの中に——笑っていた。
今まで見たどの笑顔とも違う。いたずらに成功したときの得意げな笑みでも、新しいことを知ったときの好奇心の輝きでもない。ただ、嬉しくて、恥ずかしくて、どうしていいかわからなくて、でもそのどうしていいかわからない気持ちすら楽しんでいるような——そんな顔だった。
「……透」
「うん」
「私は、恋人が何なのかを、まだよくわかっていないのだと思う」
「……うん」
「でも、今のこの気持ちが、そうなのだとしたら」
銀華が自分の胸に手を当てた。
「とても——良い」
それは、銀華にとって最大級の賛辞だった。
また頬が赤くなる。目を逸らして、洞窟の壁を見つめながら。
僕は笑った。たぶん自分でも馬鹿みたいな顔で笑っていたと思う。でも止められなかった。
「帰ろうか」
「……もう少しだけ」
銀華がぽつりと言った。
「もう少しだけ、ここにいたい」
洞窟の奥で、銀の光に包まれたまま。
僕たちは並んで座った。肩が触れている。昨日の電車の中と同じ距離。でも、昨日とは全然違う温度だった。
銀華が、繋いだ手をまたゆっくりと揺らした。昨日の夕暮れの帰り道と同じように、子供がブランコを漕ぐみたいに。
薬指の指輪同士が、時折かちりと当たって、小さな音を立てた。




