第43話:銀華と水族館デート
日曜日の朝。
月銀町の駅はけっこう立派だ。田舎っぽくなく自動改札機が横一列に並び、ホームも複数ある。観光客の出入りが多く、日曜の朝ともなれば、大きなリュックを背負った旅行者やカメラを首から下げた人たちで混み合っている。
昨日の夜、布団の中でスマホを睨みながら時刻表と路線図を三回確認した。水族館の最寄り駅まで四十分。乗り換えなし。
デート。
自分で言ったくせに、未だにその言葉の重さが胸に残っている。あの夕方、銀華のマンションの前で「デート、しよう」と口走ってしまったあと、銀華は「でーと?」と首を傾げただけで、拒否も困惑もしなかった。ただ、その意味がすぐにピンとこなかっただけだ。翌朝には「好意を持つ男女が二人で出かけることだったな。了解した」というメッセージが来た。
あっさり了解されてしまった。
場所は僕が決めた。隣町にある海沿いの水族館。銀華は初めて、海という途方もない水の塊を前にしたらどんな顔をするだろう、そんなことを考えながら。
時計を見る。九時五十二分。約束は十時。
銀華が現れた。
白いブラウスに、淡いブルーのスカートは裾が膝の少し上で揺れていて、足元はストラップのついたサンダル。髪はいつも通りと思いきや、今日はなぜか肩の上で少し跳ねている。
銀華は僕を見つけると、小走りで駆け寄ってきた。サンダルの踵がぱたぱたと軽い音を立てる。
「透。おはよう」
「おはよう。……その服」
「何かおかしいか?」
「……おかしくない。全然おかしくない」
おかしくないどころか、駅前にいる全員の視線が集まっているのがわかる。缶コーヒーのおじさんが二度見している。
「よかった。では行こう」
銀華がすたすたと改札に向かう。僕は慌てて追いかけて、切符売り場で二枚分の切符を買った。銀華に一枚渡すと、彼女はそれをじっと見つめた。
「この小さな紙で、遠くへ行けるのか」
「そう。改札に通すと、向こう側に行ける」
「ふむ」
銀華が切符を改札に通す。吸い込まれて、反対側からぴょんと出てくる。銀華は出てきた切符を拾い上げて、裏表をひっくり返して確認していた。
「戻ってきた」
「うん、帰りにまた使うから。なくさないでね」
「わかった。大事にしまう」
銀華が切符を両手で丁寧にスカートのポケットに入れた。その仕草があまりにも律儀で、なんだか胸の奥がくすぐったくなった。
電車が来た。
ホームに滑り込んできたのは、二両編成のローカル線だ。月銀町へ向かってくる上り電車は観光客で満員のはずだが、僕たちが乗る隣町方向の下り車両はガラガラだった。のんびりとした箱型の車両に乗り込むと、銀華は迷いなく窓側の席に座り、僕はその隣に腰を下ろした。
発車のベルが鳴って、電車がゆっくりと動き出す。
銀華は窓に顔を寄せた。
流れ始める景色。駅前のロータリーが遠ざかり、線路沿いの住宅が後ろへ滑っていく。田んぼの緑が広がって、山の稜線が窓いっぱいに連なる。
「……動いている」
銀華が呟いた。声はいつもより少しだけ低くて、目は窓の外に釘付けだった。
「景色が流れる。私は動いていないのに」
「バスに乗ったときも同じだったでしょ」
「確かに、そうだった。別の乗り物なのに不思議だな」
電車は揺れが穏やかだった。ガタンゴトンという一定のリズムが心地いい。
銀華の肩が、僕の肩に触れていた。
窓に身を乗り出しているから、自然とこっちに寄りかかる形になっている。たぶん本人は気づいていない。
「透」
「な、なに」
「あの光るもの。何だ」
銀華が指差した先には、ビニールハウスの屋根が朝日を反射してきらきらと光っていた。
「あれはビニールハウス。野菜を育てるための——」
「ほう」
興味深そうに頷いて、また窓の外に目を戻した。
◇
トンネルを抜けた瞬間、車窓の向こうに一面の青が広がった。
銀華は目を見開いた。
窓に両手をついて、食い入るように外を見つめている。口が僅かに開いて、言葉を失っている。
「……」
「銀華?」
「——広い」
それだけ言って、あとは黙って海を見つめていた。
僕も一緒に窓の外を見た。青い水面が陽光を弾いて白く光っている。波が寄せては返す。水平線が空と溶け合うように伸びていて、その境界がどこなのか曖昧だった。
銀華が「海」を知ったのはいつだっただろう。国語辞典なり漫画なりで、存在は知っているはずだ。でも、想像の海と、目の前に広がる本物の海は、きっと全然違う。
電車が速度を落として、駅に近づく。銀華は最後まで窓から目を離さなかった。
水族館は、駅から歩いて十分くらいの場所にあった。
海沿いの道を歩いていく。潮風が頬を撫でて、銀華の髪をふわりと揺らした。空は透き通っっていて、遠くにカモメが飛んでいる。
水族館の入り口は、大きなガラス張りの建物で、入口の上に「MARINE AQUARIUM」と書かれた看板が掲げられていた。日曜日だから家族連れやカップルが多い。チケットを二枚買って、中に入る。
最初に現れたのは、巨大な水槽だった。
天井まで届くような青い水の壁。その中を、魚が群れをなして泳いでいる。銀色の小さな魚が、まるで一枚の布みたいにうねりながら方向を変える。
銀華が水槽の前で立ち止まった。ガラスに手を当てて、食い入るように中を見つめる。
「……こんなにたくさんの生き物が、水の中にいるのか」
「うん。海にはもっともっとたくさんいるよ」
「もっと」
銀華の瞳に青い水の色が映り込んでいた。その横顔が、水槽の光に照らされて、なんだか現実離れした綺麗さで。
——だめだ。見とれてる場合じゃない。
順路に沿って進む。クラゲのコーナーでは暗い部屋の中でふわふわ漂う透明な生き物に「これも生き物なのか。目がない」と真剣に驚き、サメの水槽では「あれは強そうだ。歯の形でわかる」と独特な視点で捕食者を見ていた。
「透」
銀華の足がぴたりと止まった。
目の前の水槽には、赤褐色のぬるりとした生き物が、八本の足をくねくねと蠢かせながらガラスに張り付いていた。
タコだ。
「これが……」
銀華がガラスに顔を近づけた。
「これが、本物のたこか」
「うん。マダコだって」
「足が多いな」
銀華の目が真剣そのものだった。タコの足が吸盤をぺたぺたとガラスにくっつけながら移動する様子を、まるで論文でも読むかのような集中力で観察している。
「あの駄菓子の名前に付いていた生き物だ」
「覚えてたんだ」
「見た目が全く違う」
「まあ、絵だから……」
銀華はしばらくタコの水槽の前から動かなかった。タコがゆっくりと岩陰に潜り込んでいくのを、最後まで見届けてから、ようやく歩き出した。
水族館の奥に、屋外のステージがあった。
「イルカショー 11:30〜」と書かれた看板が立っていて、観客席にはもう人がびっしり座っている。僕たちは早めに来ていたおかげで前から三列目、水が飛んできそうな距離の席を確保できた。
「いるか、というのは何だ」
「海に住んでる大きな生き物。すごく賢くて、いろいろな芸ができる」
「芸」
銀華は興味深そうに、でもどこか疑わしげな顔でプールを見つめていた。
ショーが始まった。
音楽が鳴り響いて、水面を割るようにイルカが跳んだ。
一頭。二頭。三頭。灰色の流線型の身体が空中で弧を描き、水面に戻るときに凄まじい水飛沫が上がる。三列目の僕たちの顔に、細かい飛沫がぱしゃりとかかった。
「——っ」
銀華が目を丸くした。
次のイルカがボールを鼻先で弾き、くるりと回転しながら着水する。トレーナーの合図に合わせて、三頭が同時にジャンプ。水柱が上がる。観客席から歓声と拍手が沸き起こる。
銀華の目が、子供みたいにきらきらと光っていた。
「すごいでしょ」
「驚いた。水から、あんなに軽々と跳ぶのだな」
銀華は身を乗り出して、飛沫で濡れるのも構わずにイルカの動きを追いかけていた。両手を膝の上で握りしめて、跳ぶたびに小さく息を飲んで、着水すると少しだけ肩の力が抜ける。その繰り返し。
隣で見ているだけで、こっちまで楽しくなってくる。
ショーが終わると、銀華は少し名残惜しそうに席を立った。
「また見られるのか」
「午後にもう一回あるみたいだけど——お土産、見に行こうか」
「みやげ」
「うん。記念に何か買って帰ろう」
お土産コーナーは水族館の出口付近に広がっていた。
ぬいぐるみ、キーホルダー、お菓子、文房具。海の生き物をモチーフにした雑貨が所狭しと並んでいる。銀華はイルカのぬいぐるみを手に取ったり、深海魚のクリアファイルを不思議そうに眺めたりしていた。
僕はその隣を歩きながら、なんとなくアクセサリーの棚に目が行った。
指輪。
イルカの尾びれをあしらった、シンプルな銀色の指輪。千五百円。安い。水族館の土産物レベルだもの。
銀華がタコのぬいぐるみを持ち上げて「この触感は本物と違うのだろうな」と呟いている。こっちを見ていない。
手が伸びた。
千五百円。財布から出して、レジに持っていった。小さな箱に入れてもらって、ポケットにしまった。
——何をやっているんだ、僕は。
何に使うんだ、これ。渡すのか。誰に。銀華に? なぜ?
でも、手はもう買ってしまっていた。ポケットの中の小さな箱の角が、太ももに当たっている。
「透、見ろ。このタコのぬいぐるみ、色が違う」
銀華がオレンジ色のタコのぬいぐるみを僕に見せてきた。
「う、うん。かわいいね」
「かわいい、か?」
「……まあ、好みの問題かな」
ポケットの中の箱を意識しすぎて、会話が上の空になっていた。
◇
お土産コーナーを出ると、もう昼過ぎだった。
館内のフードコートで海鮮丼を食べた。銀華は酢飯が初めてだったらしく「すっぱい」と眉をひそめつつ完食していた。
午後は残りの展示をゆっくり見て回った。ペンギンのエリアでは「あの鳥は飛べないのか。だが泳ぎは速い。合理的だな」と感心し、ウミガメの水槽の前では長い時間立ち止まっていた。「こいつも、長く生きるのだろうな」と、ぽつりと呟いた声が妙に静かだった。
時計の針が四時を回る頃、僕たちは水族館を出た。
帰りの電車に乗る。
行きとは反対側の窓から、午後の海が見えた。朝よりも色が濃くなっていて、西日を受けた水面がオレンジと青の境界で揺れている。
銀華はまた窓に寄りかかっていた。でも、行きほどのはしゃぎはなくて、どこか穏やかな、満ち足りたような表情をしていた。
「楽しかった」
銀華がぽつりと言った。窓の外を見たまま。
「うん」
「海は広い。月銀町とも全然違う」
「そうだね」
「たこも見れた」
「……うん、タコ、よかったね」
銀華がふっと笑った。ほんの微かに、口の端が持ち上がるだけの笑みだった。
電車が揺れる。ガタンゴトン。
彼女の肩が僕の肩に当たる。今度は離れなかった。行きと同じ距離。同じ温度。
僕の中で、何かがずっとざわざわしている。ポケットの中の箱。千五百円のイルカの指輪。なぜ買ったのか自分でもわからない。わからないのに、ポケットの中で何度も指先が箱の角に触れてしまう。
地元の駅が近づいてきた。
車窓の景色が見慣れたものに変わっていく。田んぼ。山。トンネル。月銀町の手前のトンネルを抜けると、夕焼け空が広がっていた。
もうすぐ着く。
もうすぐ、今日が終わる。
その事実が、じわりと胸に染みた。
電車が減速し始めて、駅のホームが見えてくる。
「切符、ちゃんと持ってる?」
「もちろん」
銀華が窓から身体を起こして、降りる支度を始めた。切符をポケットから丁寧に取り出して、手のひらに載せている。
改札を出た。
夕日に染まった駅前のロータリーは、観光帰りの人々や地元の人たちが行き交い、長く伸びた影がいくつも交差していた。ここからマンションまで歩いて十分くらい。十分歩いたら、銀華はマンションに帰って、僕は祖父母の家に帰る。
今日が終わる。
駅前の道を並んで歩く。夕日が長い影を作っている。銀華の影と僕の影が、アスファルトの上で並んでいる。
あと五分くらいで、マンションの前に着く。
あと五分で。
——手が動いた。
考えるより先に、僕の右手が銀華の左手を掴んでいた。
ぎゅっと。強く。
銀華の足が止まった。
つないだ手を見下ろしている。僕の手と、彼女の手。指は絡まっていないけど、手のひらがぴったりとくっついている。
「……透?」
銀華が顔を上げた。驚いているというより、不思議そうな目だった。
僕は何も言えなかった。自分の行動の理由を説明する言葉が見つからなかった。ただ、離したくなかった。この手を離したら今日が本当に終わってしまう気がして、離せなかった。
銀華はしばらく繋がれた手を見つめていた。
それから、静かに口を開いた。
「こういうのを、恋人と呼ぶんだな」
心臓が跳ねた。
「でーとをして、手をつないで」
銀華の声は、いつもと変わらない落ち着いた調子だった。断定でも質問でもなく、ただ自分の中にある知識を確認するように、穏やかに。
「漫画で見た」
恋人。
その単語が耳から入って、胸の真ん中を貫いた。
ポケットの中の指輪。銀華の手の温度。夕日。帰り道。
全部が混ざって、頭の中がぐるぐる回って——。
「……僕たちも、恋人になってみる?」
「ああ。それは良いな」
……えっ?
今、僕、なんか言ったよな。
また。
考えるより先に、口が動いた気がする。
それを何の迷いもなく。何の留保もなく。まるで「明日も学校だな」くらいの温度で、銀華は……?
思考がフリーズした。
待ってくれ。待ってくれ。
今、何が起きた。僕は何を言った。銀華は何て答えた。恋人になってみる、と言った。良いな、と返ってきた。それはつまり——。
どういうこと?
銀華は繋いだ手をじっと見つめていた。
それから、ゆっくりと、繋いだ手を前後に揺らした。小さく、嬉しそうに。子供がブランコを漕ぐみたいに、何の衒いもなく呟いた。
「透と私は、恋人だ」




