第42話:銀華と試着室
ゴールデンウィーク初日。
朝から銀華のマンションに来ていた。インターホンを押すと、ほとんど間を置かずにドアが開く。最近の銀華は僕の気配を察知しているのか、オートロックを開けた瞬間にはもう玄関に立っているような気さえする。
「透。おはよう」
「うん、ちょっと確認しておきたいことがあって」
「確認?」
銀華は首を傾げた。リビングのソファに腰かけると、テーブルの上にスマホが置いてある。画面にはメッセージアプリの通知がいくつも並んでいた。
「名和さんたちと連絡取ってたの?」
「ああ。時間の確認だ。前に澄香から『ごーるでんうぃーく、みんなで遊びに行こう!』と来たからな。遠足の班の女子たちも一緒に。駅のしょっぴんぐもーるで11時に集合、だそうだ」
銀華の口から「しょっぴんぐもーる」という単語が出てくると、どうしても妙な味わいになる。覚えたてのカタカナを丁寧に読み上げているような、その律儀さが銀華らしくて少しおかしい。
遊びに行くのはいいんだ。銀華が「透以外の人間」と過ごす時間を自分から選んでいることは、良いことだろう。
——ただ、問題がある。
僕はソファに座ったまま、なんとなく視線を逸らした。銀華の服。今日はいつもの白いブラウスにグレーのロングスカートという組み合わせで、清潔感があって悪くない。けど、この服は全部「変身」で作られている。
学校の制服も、私服も、全部。
でも、ショッピングモール。服を見ることだってあるだろう。
つまり——。
「銀華」
「なんだ」
「……今から、すごく大事なことを教える」
「大事なこと」
銀華の表情が少しだけ引き締まった。
「今日、ショッピングモールに行くんだよね。そこには試着室っていうのがあって、服を試しに着てみることができるんだけど」
「そういえば。漫画で見た」
「うん。で、試着室に入ったら、今着てる服を脱いで、新しい服に着替えるんだけど」
「脱ぐ?」
銀華が怪訝そうに眉を寄せた。
「銀華の服は変身で作ってるから、脱ぐって概念がない。でも人間の服は、身体から外れるんだよ。服の下には下着っていうのを着ていて、試着室では下着姿になってから新しい服を着る必要があるんだ」
顔が熱い。
下着の説明を銀華にしている。高校一年の男子が、女子に下着の着用について真顔で説いている。
「したぎ」
「そう。下着。えっと、服の一番下に着るもので、肌に直接——」
「ああ、それなら知っている」
銀華がぽんと手を打った。文化的な知識としてインプットはされているようだ。
「三か条だものな。人前で変身はしない。試着室の中で全身を変えれば、違和感が残る。——つまり、下着に変身できればいいのだな」
「そ、そう! そういうこと!」
理解が速くて助かった。自分でこれ以上の詳細を説明する勇気は、正直なかった。
「試しにやってみる」
「——は?」
「見ていてくれ。おかしくないか確認してほしい」
銀華が立ち上がった。
「ちょっ、待っ——」
瞬きの間に、ブラウスの襟元がほんの僅かにずれた。ずれたように見えた。いや、ブラウスの内側に、白い布地の輪郭が薄く浮かんでいる。変身は一瞬で終わったらしい。服の外見は何も変わっていないが、中の構造だけが組み変わったのだ。
銀華がブラウスの裾をつまんで少し持ち上げた。
「透、どうだ」
白い腹部が数センチ覗く。その上に、確かに下着の縁が見える。
「大丈夫。問題ない」
その返事が精一杯だった。
「よし。では行ってくる」
銀華は満足げに頷いて、スマホをポケットに入れた。
僕はソファの背もたれに身体を預けて、天井を仰いだ。今日一日、大丈夫だろうか。僕の不安のほうが。
◇
「何、この謎生物」
「だからジオ坊だって。何回言わせんだよ」
旅館「月待」の家族用スペースの一室。畳敷きの六畳間に座布団が転がっていて、壁際にはびっしり漫画が並んだ本棚がある。直也の部屋は何度となく来てるけど、前にはなかったものが一つ増えていた。
直也の掌の上で丸くなっている、楕円形の、茶色い、何か。
「ツチノコ……?」
「それっぽいけど、んなわけないだろ。庭にいたんだよ、春休みの終わりくらいに。枯れ葉の山の中でモゾモゾ動いてて。最初はトカゲかと思ったんだけどさ、足がないし、蛇にしては胴が太すぎるし」
直也は膝の上に座布団を敷いて、その上に「ジオ坊」とやらを載せていた。手のひらサイズの楕円形の身体に、不釣り合いなほど丸くて大きな目がついている。目は閉じていて、すーすーと小さな寝息を立てていた。
……かわいい。
この造形は反則だ。枯れ葉を丸めたみたいなくすんだ茶色の体表に、ほんのり温かそうな丸い頭に、大きな目。なんだか赤ちゃんみたいだ。
「触っていい?」
「おう、優しくな。こいつビビりだから」
人差し指の背で、ジオ坊の頭をそっと撫でた。すると、閉じていた丸い目がうっすら開いて、僕のほうをぼんやりと見上げた。数秒。それからまた目を閉じて、すーすー。
……信用された、のか?
「なんだよ、お前にはすぐ慣れたな。慧士のときは布団の下に潜って出てこなかったのに」
「慧士、動物に嫌われるとか聞いたことないけど。猫飼ってるし」
「不思議だよな。でもこいつ、ママにはベタ甘えなんだよ。膝に乗せたらごろごろ転がって離れなくなる。俺よりママのが好きなのか、こいつめ。うりうり」
直也がぶつぶつ文句を言いながら、ジオ坊のお腹を指先でさすっている。嫌がる素振りは微塵もない。温泉旅館の息子が、正体不明な生き物の世話を焼いている。
ジオ坊の寝息に合わせて、僕の呼吸もゆっくりになっていく。撫でている指先に伝わる小さな温度。生き物の体温。
——銀華が見たら、喜ぶだろうな。
ふと、そう思った。
右手がポケットに伸びた。スマホを取り出す。画面を点ける。
——通知、なし。
消す。戻す。
「……」
まだ昼前だ。向こうは向こうで楽しくやってるだろう。
直也の母親——高坂さんが、お盆に載せた麦茶とお煎餅を持ってきてくれた。和装をぴしっと着こなした佇まいは旅館の女将そのものなのに、ジオ坊を見た瞬間に「あらあら、起きたの、ジオちゃん」と声色が三段階くらい甘くなるのが面白い。
「旭日くん、ゆっくりしていってね。直也が友達を連れてくると、この子も嬉しそうなのよ」
「ありがとうございます」
高坂さんが去った後、直也が煎餅をバリバリ齧りながら漫画の話を始めた。最近読んだ冒険ものの展開がどうとか、打ち切りになりそうでヤバいとか。僕も相槌を打ちながら麦茶を飲んでいたんだけど。
また、手が伸びた。
スマホを取り出す。画面を点ける。メッセージアプリを開く。
——通知、なし。
閉じる。消す。戻す。
開く。
——なし。
閉じ——
「お前、さっきからスマホばっか見てんな」
直也が煎餅を咥えたまま、じとっと見ていた。
「……え」
「え、じゃねーよ。俺の部屋来てからもう何回目だよ。なんか待ってんの?」
「……銀華が、買い物に行ってて」
「え、そんで?」
「ちょっと気になって」
直也は煎餅を飲み込んで、少し間を置いた。それから、にやっと笑った。
——この顔は嫌な予感しかしない。
「透さあ」
「何」
「過保護すぎ」
「……うるさい」
「嫉妬だろ」
麦茶を吹きそうになった。
「は——ちが、違うよ。心配してるだけだって。銀華は色々知らないことが多いから、ちゃんとやれてるかなって」
「心配だからって、そんな頻度でスマホ見ねーだろ。五分に一回くらい確認してんぞ、お前」
「……数えてたの」
「気づいたの」
直也は膝の上のジオ坊を撫でながら、あっけらかんと続けた。
「岩見さんが他の女子と楽しく遊んでんのが気になるんだろ。自分抜きで」
「そういうことじゃない」
「お前、すーぐ嘘つくな。嘘下手なのに」
ぐ、と言葉に詰まった。
ジオ坊が直也の掌の上で、もそっと寝返りを打った。
僕は湯飲みの中の麦茶の水面を見つめた。揺れている。僕の手が、僅かに震えていた。
「……嫉妬、かな」
自分で言って、驚いた。口に出したら、胸の中のモヤモヤに急に輪郭が生まれた。
心配とは違う。不安とも違う。
銀華が楽しそうにしているのは嬉しい。友達が増えるのはいいことだ。頭ではわかっている。でも、銀華が僕の知らない場所で、僕の知らない表情をして、僕以外の誰かと笑っている。そう想像するだけで、胸の奥がぎゅっと握りつぶされるように痛む。
——僕のそばにいてほしい。
僕だけの隣にいてほしい。
そう思っている自分がいる。ずっと前から。たぶん、遠足の頃から。いや、もしかしたらもっと前から。
「あーあ。やっと認めた」
直也が呆れたように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「お前さ、幼馴染だ幼馴染だって言い張ってるけど、そんな顔してる奴が『ただの幼馴染』なわけないだろ」
「……うるさいな」
「いや、いいんじゃねえの」
直也がジオ坊を持ち上げて、僕の目の前に差し出した。丸い目がぱちくりと開いて、僕の顔をじっと見つめている。
「ほら、ジオ坊も応援してる」
「してないだろ、この顔は」
「してるって。なー、ジオ坊」
ジオ坊は何の反応も示さず、ふたたび目を閉じた。
すー、すー。
なんだろう、この空間。旅館の畳の間で、謎の生き物を挟んで、友達に恋心を見抜かれている。高校一年のゴールデンウィークの過ごし方として、これはどうなんだ。
◇
旅館を出たのは、四時過ぎだった。
直也に「じゃあな、がんばれよ」と背中を叩かれて送り出された。何を頑張ればいいのかは聞かなかった。
商店街を抜けて、温泉街の古い建物の間を歩く。ゴールデンウィークだから観光客が多くて、いつもより賑やかだ。ツキゴンの着ぐるみが土産物屋の前で手を振っているのが見える。
足は、勝手に動いていた。
家に帰るなら、ここで右に曲がる。祖父母の家は駅とは反対側だ。でも僕の足は右に曲がらず、まっすぐ進んでいる。駅のほう。銀華のマンションのほう。
——なんで来てるんだろう。
わかってる。銀華の帰りを待ちたいからだ。連絡もしていないし、待ち合わせもしていない。でも、足が勝手にこっちに向かってしまった。
マンションの入り口の壁にもたれかかって、スマホを取り出した。画面を点ける。メッセージアプリを開く。
通知、なし。
こっちから連絡する勇気はなかった。
大丈夫。嫉妬してる自覚はもうある。だから、ここで待つくらいは、自分に許してもいいだろう。
西日が建物の間から差し込んでいた。五月の夕方の空気は少しだけ温かくて、風が心地いい。スマホの画面をぼんやり眺めながら、壁に背中を預けて立っていた。
足音が聞こえた。
駅のほうから、軽い足音。一人分。ぱたぱたと、少し速い。
顔を上げた。
夕日に染まった道の向こうに、白いブラウスが見えた。グレーのスカートの裾が揺れている。左手に紙袋を下げていて、右手には——何か小さなものを握っている。
銀華だった。
目が合った。
銀華の足が止まった。それから、その表情が変わった。驚いたように目を見開いて、次の瞬間、ぱあっと顔全体が明るくなった。
走り出した。
歩いて近づけばいいのに、足が勝手に速くなっている。白いブラウスが夕日の中を駆けてくる。僕の前で止まった時、銀華は少し息が上がっていた。
「透」
右手を持ち上げた。握っていたのは、小さなキーホルダーだった。銀色の星の形をしていて、夕日を受けてきらきらと虹色に反射している。
「楽しかった、透。これ、澄香たちとお揃いで買った」
銀華がキーホルダーを僕に見せながら、嬉しそうに言った。今日一日の楽しさが、全身から溢れ出しているような。
——ああ、だめだ。
楽しかったんだ。よかった。本当に、よかった。
でも、それだけじゃない。
今日一日、僕のいない場所で遊んで、銀華は色んなものを見て、色んなことを経験してきて。
嫉妬。独占欲。
好き。
たぶん、ずっと前から。
「——デート、しよう」
……。
あれっ?
何を言ってるんだ、僕は。
脈絡がない。
唐突すぎる。
いきなり何を——。
銀華がぱちぱちと瞬きをした。キーホルダーを握ったまま、首を傾げる。
「でーと?」
その声は不思議そうで、拒絶はなくて、ただ純粋に意味を確認しているだけで。
夕焼けの中、マンションの前で向かい合っている。銀華の手の中の銀色の星が、まだきらきらと光っていた。
僕の心臓は、壊れそうなくらい暴れている。
でも、撤回はしない。




