第41話:銀華とスマホデビュー
放課後、学校の正門に神無月先生が居た。
「旭日くん、銀華さん」
声がかかった。
今日は教頭のスーツではなく、ダークグレーのジャケットにノーネクタイというカジュアルな姿だった。街中で見かけたら、二十代後半の落ち着いた社会人にしか見えない。でも僕は知っている。この人の中身は数万歳の精霊だ。そんな存在が、ジャケットを着て微笑んでいる。
「少し寄り道をしないかな」
——この人は、いつもこうだ。
説明も前置きもなく、ただそれだけ。寄り道の目的も行き先も言わない。僕が返事をする前に、もう歩き出している。
「……あの、神無月先生。どこに」
「すぐ近くだよ」
答えになっていない。振り返りもしない。でも銀華はもう先生の横に並んで歩き出していて、僕だけが立ち止まっている。
慌てて二人の背中を追う。
商店街を抜けて、普段なら曲がらない角を一つ曲がった先に、白い看板の店があった。青い文字で携帯電話の会社名が書かれている。チェーンの携帯ショップだ。
「——ここ、ですか」
「銀華さんにも必要だろうと思ってね。高校生の生活も慣れてきたようだし」
神無月先生はそう言って、ようやくこちらを振り返った。穏やかに目を細めている。教頭の顔ではない。年の離れた親戚が、姪っ子の成長を見守るような。
……それが本心なのか、計算なのか、僕にはわからない。
「スマホ」
銀華が、ガラスの向こうに並ぶ展示台を覗き込んでいた。小さな画面がいくつも光っている。
「全部、透の持っているものと同じなのか」
「同じようなものだけど、色々種類がある」
「ほう」
銀華の目がきらりと光った。「面白そうなものを見つけた」時の顔。こっちの神無月先生に対する不信感なんかお構いなしに、もう入る気満々だ。
「契約には同伴がいるからね。私の仕事だよ」
神無月先生が何でもないことのようにそう言って、先に自動ドアをくぐった。
自動ドアをくぐると、銀華がぴたりと足を止めた。
店内は蛍光灯の白い光に満ちていて、壁際にずらりと並んだスマートフォンのモックアップが、それぞれ小さな画面を輝かせている。タブレット端末やケースの棚。天井から吊り下がったポップ。奥のカウンターでは店員さんが二人、接客をしている。
「……明るい」
「携帯ショップはだいたいこんな感じだよ」
銀華は一歩、また一歩と慎重に歩みを進めながら、展示台のスマホを一つずつ覗き込んでいく。画面に触れるたびに表示が切り替わるのが面白いらしく、右手の人差し指でちょんちょんと突いては首を傾げている。
「透。これは全部、別のものなのか。形が似ているが、違う」
「中身が違うんだよ。カメラの性能とか、大きさとか」
「私には区別がつかない」
「うん、正直僕もあんまりわからない」
神無月先生が横から「では、店員さんに聞こう」と声をかけ、カウンターに案内してもらう。年配の女性店員さんが、銀華に向かって「初めてのスマートフォンですか?」と微笑んだ。
「ああ。初めてだ」
「まあ。じゃあ、使いやすいものを一緒に選びましょうか」
店員さんの説明を聞く銀華の横顔は、真剣そのものだった。画面の大きさ、色、重さ。一つ一つ手に取って、裏面の質感まで確かめている。
「これはなんだ。『えーあい』とは」
「最近の機能で、色々賢いことをしてくれるやつだよ」
「賢い板」
「……まあ、そうだね」
結局、色で決まった。銀華が選んだのは、背面がうっすらと銀色に光るモデル。理由は「一番綺麗だったから」。値段も性能も見ていない。神無月先生が黙って契約書にサインしているのを横目に、僕はなんだか妙な気分になった。
獣が保護者として契約し、竜が銀色のスマホを選ぶ。この光景を知っているのは、世界で僕だけだ。
契約が終わって、店の片隅のベンチで初期設定を済ませる。神無月先生は「あとは二人に任せよう」と言って先に帰っていった。保護者としての用事が済んだら、さっと引くのが大人なんだろうか。
「じゃあ、ラインの使い方を教えるね」
「らいん」
「うん。文字で会話できるやつ。これを入れておけば、離れていても連絡が取れる」
銀華の手元を覗き込みながら、アプリのインストールを手伝う。アカウントを作って、アイコンを設定。
「まず、僕を友達登録して。このQRコードっていうのを——」
画面を見せると、銀華が自分のスマホのカメラを向けて、真剣な顔で読み取る。ピコン、と軽い通知音。僕のスマホに「岩見銀華さんが友だちに追加されました」という表示が出た。
銀華の友達リスト、一人目。
なんだか嬉しかった。
「これで、文字を打って送ると僕のスマホに届く。ここを押すと電話もできるよ」
「ほう」
銀華は画面をじっと見つめて、ぽつりと言った。
「……便利なものだな」
「うん。あ、洞窟は圏外だから使えないけどね」
「そうか。では洞窟以外の場所で」
その言い方が、なんだかやけに広い範囲を指していて、少しだけ笑った。
翌日。
銀華の机の周りに、軽く人だかりができている。
「見てくれ。すまほだ」
銀華が、両手でスマホを掲げるようにして見せていた。画面を外側に向けて、まるで宝物を披露するみたいに。普段あまり自分から何かを見せびらかす子じゃないのに、今日はやけに得意げだ。銀色の背面が蛍光灯の光を反射して、きらきらと光っている。
「えっ、そういえば銀華ちゃん、スマホ持ってなかったんだ」
澄香が真っ先に食いついた。あおいもすぐ後ろから覗き込んでいる。
「ああ。昨日、迅に買ってもらった」
「やったじゃん! じゃあさ、連絡先交換しよ!」
澄香がポケットから自分のスマホを取り出して、画面を操作する。銀華は昨日教えたばかりの手順を思い出しているのか、少し手間取りながらも自分のQRコードを表示させた。
「すごい、もう使えるんだ」
「透に教わった」
「あはは、いつもの旭日くん先生だ」
ピコン。澄香と銀華の友達登録が完了する。銀華がぱっと目を輝かせた。
「おお、澄香の名前が出てきた」
「出てきた出てきた! あたしも! ね、さっそくスタンプ送るね!」
澄香のスマホからぽこぽことスタンプが飛んでくる。銀華の画面に、丸っこい動物のキャラクターが踊る画像が表示された。
「……これは何だ」
「スタンプ! 気持ちを絵で送れるの! かわいいでしょ」
「……かわいいか?」
あおいが控えめに「私も交換していい?」と手を挙げた。銀華は「ああ、もちろん」と頷いて、今度はさっきより少しスムーズにQRコードを出した。学習が速い。
「岩見さん、俺も俺も」
直也が割り込んできた。いつの間にか慧士も後ろに立っている。
「おう透、岩見さんのスマホ、昨日買ったのか? 言えよそういうのは」
直也が僕に向かって声を飛ばしてくる。僕は自分の席から、少し離れた場所でその光景を眺めていた。
「いや、昨日はバタバタしてたから」
「お前はいつもそれだよ。ほら岩見さん、交換しよ」
「わかった」
直也、慧士、澄香、あおい。次々にQRコードが読み取られ、銀華の友達リストが膨れ上がっていく。さらに遠足の班で一緒だった女子が「あたしも!」と寄ってきて、いつの間にか銀華の周りは小さな集団になっていた。
銀華は一人一人丁寧にQRコードを読み取っては「また増えた」「この者は誰だ、ああ、あの席の」と、友達リストが伸びていくのをまるでコレクションのように楽しんでいる。
僕は自分の席に座ったまま、頬杖をついてその様子を見ていた。
……僕よりよっぽど友達多いな、この竜。
友達が増えるのはいいことだ。銀華の世界が広がるのは、いいことだ。わかってる。でも。
「透、お前もう交換してんだろ」
直也が戻ってきて、僕の机に手をついた。
「うん。昨日した」
「んだよ、抜け駆けしやがって」
「抜け駆けって、僕も買うのに同伴したんだから当然でしょ」
「それもそっか。てか岩見さん、意外と楽しそうにしてんな。あんまり表情変わんないイメージだったけど」
直也の言葉に、ちらりと銀華の方を見る。確かに、普段より口角が上がっている。澄香に何かを教えてもらいながら、画面をしきりに操作している。スタンプの送り方を覚えたらしく、連打しているのが遠目にも見える。
「……楽しそうだね」
「だろ?」
直也は気楽にそう言って、自分の席に戻っていった。
いいこと、だよな。
昼休みになっても、銀華のスマホ熱は冷めなかった。
澄香がグループの作り方を教えていて、遠足のメンバーでグループが作られたらしい。銀華が「どういう仕組みだ」と目を丸くしているのが聞こえる。
僕はいつもの中庭のベンチでおにぎりを食べながら、教室から聞こえてくるその声を聴いていた。隣には誰もいない。いつもなら銀華が何も言わずに座っている場所が、空っぽのままだ。
……拗ねてるな、僕。
中の具の味がしない。おばあちゃん、ごめん。
◇
夜。
自分の部屋のベッドに寝転がって、スマホの画面を見つめていた。
銀華の世界が広がるのは、良いことだ。
頭ではわかっている。あの洞窟で何千年も一人きりだった銀華が、人間の友達を作って、連絡先を交換して、グループに入って。それはきっと、彼女にとってはすごく大きな一歩で、喜ぶべきことで。
でも。
昨日の洞窟の歌声が、頭の中で鳴り続けている。あの銀の光の中で、僕だけに聴こえていた声。
スマホの画面が暗くなる。もう一度つけて、メッセージアプリを開く。何もない。閉じる。画面が暗くなる。つける。開く。何もない。
……何やってんだ、僕。
枕に顔を埋めた瞬間。
ブッ、とスマホが振動した。
反射的に画面を見る。メッセージアプリの通知。差出人——岩見銀華。
通知をタップする。メッセージ画面が開く。
そこに表示されていたのは、たった三文字のひらがなだった。
『でんわ』
——え。
意味を理解するより先に、画面が切り替わった。
着信。音声通話。発信者——岩見銀華。
反射的に指が動いた。画面をスワイプして、スマホを耳に当てる。
「——もしもし」
一瞬の間。回線が繋がる微かなノイズ。そして。
「おお! 本当だ!」
耳元に、弾んだ声が飛び込んできた。
銀華の声だ。隣にいるわけじゃない。目の前にもいない。でも声だけが、すぐそこにある。スピーカー越しの音質でほんの少し変わって聞こえるのに、声の芯はまぎれもなく銀華だった。
「これが、でんわ、というものか。ちょっと変だが、透の声が聞こえるぞ」
「う、うん。聞こえてるよ。僕にも銀華の声、聞こえてる」
「すごいな。目の前にいないのに、声だけがする。不思議だ」
銀華の声は、心の底から感動しているらしかった。呼吸が少し荒いのは、きっとこの通話が成功するかどうか、かけるまでドキドキしていたからだろう。あの銀華が、うっすら緊張しながらボタンを押す姿を想像したら、ちょっと面白い。
「これがあれば、どこでも透と話せるのだな」
その一言が、まっすぐに突き刺さった。
——どこでも、透と。
昼間、あんなにたくさんの人とやり取りを覚えて、はしゃいでいた銀華が。最初にかけた電話が僕だった。
文字じゃなくて。スタンプでもなくて。声で話すために。
「透? 聞こえているか」
「……聞こえてるよ」
声が震えそうになったのを、必死に抑えた。
「すごいな、スマホは。澄香やあおいには文字で送った。透に文字を送ろうとしたとき、電話、というものを思い出した。なぜかはわからないが、透とは文字より、こちらのほうが良いと思った」
朝から抱えていた重たいものが、溶けていく。
昼間のモヤモヤも、中庭のベンチの空っぽの隣も、味のしなかったおにぎりも。全部、この一本の電話で帳消しになった。銀華は何もわかっていない。僕が拗ねていたことも、モヤモヤしていたことも。ただ電話をかけたかったから、かけただけ。
この天然の破壊力に、僕はいったいどう勝てばいいのだろう。
顔が、勝手に綻んでいくのがわかった。口元が緩んで止められない。きっと今の僕の顔は、人に見せられないくらいだらしない。
「透。声が笑っている」
「……いや。ちょっと、嬉しいだけ」
「そうか。私も嬉しい。この板は良いものだ」
板って言うな、とツッコむ余力もなかった。
「ねえ銀華」
「なんだ」
「……これで、いつでも話せるよ。電話くれたら、出るから」
「本当か」
「本当」
「明日も電話していいのか」
「——いいよ。毎日でも」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。でも撤回はしない。
銀華が電話の向こうで、小さく息を漏らした。
「では、おやすみ、透」
「うん。おやすみ、銀華」
通話が切れた。
画面が通常に戻る。通話時間——三分四十二秒。初めての電話。
僕はスマホを胸の上に置いて、仰向けのまま天井を見上げた。
蛍光灯の白い光。さっきと同じ天井。同じ部屋。でも、さっきまで重たかった胸の中は嘘みたいに軽くて、代わりにじんわりと温かいものが広がっている。
目を閉じる。
明日の朝もいつも通り、マンションに迎えに行く。
昨日買ったばかりの銀色のスマホを嬉しそうに持っている銀華が、きっとドアの向こうで待っている。




