第40話:銀華と秘密の特訓
土曜日の朝は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
布団の中でスマホの画面を確認する。八時十五分。休みの日にこの時間に起きるのは、洞窟に行く日くらいだ。おばあちゃんが台所で何か作っている音がかすかに聞こえる。
着替えを済ませてリビングに降りると、おばあちゃんがおにぎりを握っていた。
「透、今日も山かい」
「うん。ちょっと行ってくる」
最初に向かうのは、山じゃないけどね。
マンションに着くと、エントランスのガラス越しに銀華が立っているのが見えた。白いパーカーにジーンズという、最近のお気に入りの格好。動きやすいらしい。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
銀華は僕の顔を見るなり、小さく頷いた。朝のやり取り。特別な会話もなく、二人で歩き出す。
マンションから洞窟までの道のりも、慣れたものだ。商店街を抜け、旅館街の裏手を通り、山道に入る。舗装が途切れてからは、僕と銀華しか知らない獣道を辿る。途中から木々が深くなって、街の音が遠くなる。代わりに鳥の声と、風が葉を揺らす音だけが近づいてくる。
銀華は黙って僕の後ろを歩いている。でも、足取りがいつもと少し違った。歩幅が普段より小さくて、何度か足元の石を蹴りそうになっている。
——緊張しているのかもしれない。
音楽の授業で、銀華は初めて「居心地が悪い」と言った。自分の出した音が皆と違ったことを、気にしていた。数学がわからなくても動じなかった銀華が、歌では揺らいだ。それくらい、彼女にとって音楽は特別なものだったのかも。
洞窟の入り口に着く。いつもの大岩をくぐって中に入ると、ひんやりとした空気が全身を包んだ。
外の光が届かなくなる頃、壁の銀脈がぼんやりと青白く光り始める。この光は銀華の力と関係があるらしくて、銀華が近くにいるときだけ特に強く輝く。何度見ても不思議な景色だ。天然のプラネタリウムみたいに、壁一面が微かに瞬いている。
洞窟の奥、銀華がいつも過ごしていた広い空間に着いた。天井が高くて、声を出すとよく反響する。前に銀華が竜の姿で咆哮したときは、洞窟全体が震えるくらいだった。
僕はリュックを下ろして、適当な岩に腰を掛けた。銀華は立ったまま、洞窟の壁をなんとなく眺めている。
「じゃあ、始めよっか」
スマホを取り出して、前もってダウンロードしておいた曲を探す。洞窟の中は圏外だから、事前に保存しておかないと何も聴けない。選んだのは授業で歌った合唱曲のメロディだけの音源。歌詞入りもあるけど、まずはメロディを覚えるところからだ。
「まずは聴いてみて。メロディの流れだけ追えればいいから」
スマホのスピーカーから、穏やかな旋律が流れ出す。洞窟の空間に反響して、普通に聴くよりずっと深みのある響きになる。
銀華は目を閉じて聴いていた。微動だにせず、全身で音を受け止めるように。初めて音楽を聴かせたときと、同じ顔だ。
曲が終わった。
「どう?」
「……綺麗だ」
うん、そこは大丈夫だ。聴く方はいい。問題は出す方。
「じゃあ次。今度は僕が歌うから、それに合わせて口ずさんでみて。無理に大きい声じゃなくていいから」
スマホでもう一度メロディを流しながら、僕は歌い始めた。人前ではまともに声を出せないけど、銀華の前なら――恥ずかしいけど、まあいい。上手くはないけど、音程くらいは取れる。銀華のためだし。
ワンフレーズ歌って、銀華に目で合図を送る。
銀華が口を開いた。
「——————」
…………。
うん。知ってた。
音程は行方不明。声量は洞窟の壁を震わせるほど。メロディの欠片もない、ただの——なんだろう、山彦? 谷間で叫んだ時の反響みたいな、方向性のない声が洞窟じゅうに反射して僕の鼓膜を揉みくちゃにする。
教室で聴いたのと、まったく同じだった。
「ストップ、ストップ」
銀華が口を閉じる。洞窟に残響がしばらく残って、壁の銀脈がびりびりと微かに震えたあと、ようやく静寂が戻った。
「……どうだ」
「正直に言っていい?」
「ああ」
「全然合ってない」
銀華は無表情のまま、こくりと頷いた。自覚はあるらしい。
「もう一回やろう。今度はもっと小さい声で、僕の声をよく聴いてから出してみて」
二回目。声量は少し落ちたけど、音程はやっぱり迷子のまま。メロディの最初の音を捉えたかと思うと、次の瞬間にはどこかへ飛んでいく。
三回目。さっきより少しだけマシだけど、リズムが完全にずれている。僕がサビに入ったあたりで、銀華はまだAメロの途中にいた。
四回目。声量の制御はうまくなってきた。でも音程は相変わらず、夜の山で道に迷った人みたいにあちこちへさまよっている。
「……これは、時間がかかるかもしれない」
思わず呟いたら、銀華がじっと僕を見た。
「時間がかかることは、悪いことなのか」
「いや、悪くない。全然悪くない」
そうだ。急ぐ必要なんてない。次の音楽の授業までに間に合わなくたって構わない。
「よし、もう一回」
五回目のメロディを流す。僕が最初のフレーズを歌い出す。銀華が息を吸って——
——止まった。
口を開きかけたまま、銀華が固まっている。
何かを探るように、首を少し傾けた。目が僕の方を向いているけど、僕を見ていない。僕の——喉のあたりを見ている。
「……銀華?」
「……待って。もう一度、歌ってくれないか」
言われるまま、もう一度同じフレーズを歌う。銀華の目が僕の喉元に固定されている。見つめるというより、観察している。真剣な目。
「もう一度」
三度同じフレーズを繰り返す。今度は銀華が右手を自分の喉に当てた。左手は僕の方に伸ばして——指先が、僕の首筋のすぐ横で止まる。
「触れてもいいか」
「え、う、うん」
銀華の指先が僕の喉に触れた。冷たい指。歌い続けろということらしいので、声を出し続ける。彼女の指が、僕の喉の振動を読み取るように、そっと動く。
数秒後、銀華が指を離した。そして自分の喉を押さえたまま、目を閉じて——小さく、口を動かし始めた。
声にならない声。唇だけが音の形をなぞるように震えている。
スマホの音源を流し続けた。銀華は壁にもたれかかり、片手を自分の喉に当てたまま、静かに何度も口を動かしている。
五分。十分。
僕は黙って見ていた。口を挟む気にはなれなかった。銀華の目は閉じられたまま、長い睫毛が微かに震えている。壁の銀脈の光が、彼女の横顔を薄く照らしていた。
その光景が——なんだか、とても遠い場所の出来事みたいに見えた。
十数分が経った頃。
銀華が目を開けた。
「……もう一度、曲を流してくれないか」
頷いて、スマホの再生ボタンを押す。
穏やかな前奏が、洞窟の空間に広がっていく。壁の銀脈が、音に合わせて微かに明滅するような錯覚。
歌い出しの小節が来た。
銀華が、口を開いた。
——空気が、変わった。
最初の一音。それだけで、わかった。
さっきまでの素っ頓狂な叫び声とは、何もかもが違う。
澄んだ声だった。
どこまでも透き通って、洞窟の空間を満たしていく。高すぎず低すぎず、芯があるのに柔らかくて、鋭いのに耳に痛くない。壁の銀脈に触れて跳ね返り、天井を巡って降りてきて、足元の岩肌を伝ってもう一度立ち上がる。何重にも折り重なって、洞窟全体が楽器になったみたいだった。
音程が、合っている。正確に。一音も外さない。
メロディの輪郭を完璧になぞりながら、その上に銀華自身の声の質感が乗っている。人間の歌手が歌うのとも違う。機械的な正確さでもない。もっと根本的なところで「音」と一体になっているような——声が空気に溶けて、空気ごと振動しているような。
息を呑んだ。
言葉が出てこない。
洞窟の銀脈が、歌声に共鳴してきらきらと輝いている。光の粒が壁を這うように動いて、天井から降り注いで、銀華を包み込んでいる。
その真ん中で、目を閉じたまま歌い続ける銀華の姿は——。
曲が終わった。
最後の一音が洞窟の奥へ消えていく。残響が何秒も続いて、銀脈の光がゆっくりと元の明るさに戻っていく。
静寂。
銀華が、ゆっくりと目を開けた。
こちらを見ている。不安そうな、探るような瞳。
「……これは、合っているか?」
声が、少し震えていた。あんなに完璧な歌声を響かせておいて、本人は全然自信がないらしい。さっきの授業で皆と違う場所にいたことを、まだ引きずっている。
「合ってる」
自分の声がかすれているのに気づいた。咳払いをして、もう一度言い直す。
「合ってるよ。めちゃくちゃ合ってる」
銀華の瞳が、僅かに揺れた。
その一瞬。
胸の奥で、ふたつの感情が同時に弾けた。
次の音楽の授業。この声を教室で聴かせたい。あの日笑った奴ら。変な声だと思った奴ら。哀れむように見てた奴ら。全員の前でこの歌を歌わせて、見返してやりたい。黙らせてやりたい。銀華を馬鹿にした空気ごと、ひっくり返してやりたい。
強烈な衝動だった。握りしめた拳に力が入る。
——でも、同時に。
嫌だ、と思った。
この声を、あの教室で聴かせたくない。音楽室のざわついた空気の中で、皆の耳に流し込みたくない。この声は僕が見つけたんだ。この洞窟で、銀の光の中で、銀華が生み出した声だ。
誰にも聴かせたくない。ここだけのものにしておきたい。この場所で、僕だけが聞いていたい。
ふたつの感情が、胸の中で綱引きをしている。
見返したい。教えてやりたい。銀華はこんなに凄いのだと、あの教室に叩きつけてやりたい。
でも聴かせたくない。渡したくない。この声は、僕の——。
……僕の、何だ。
何を考えた。
「そうか、合っているか!」
銀華の声が、僕の思考を断ち切った。
顔を上げる。
さっきまでの不安そうな表情が嘘みたいに、銀華の目が輝いていた。口角がきゅっと上がって、いつもの控えめな微笑みよりずっとはっきりした笑顔。嬉しいときの銀華は、目が光るのだ。銀色の瞳に、壁の銀脈の光が映り込んで、きらきらと瞬いている。
「もう一度歌ってもいいか」
僕が返事をする前に、銀華はもうスマホに手を伸ばしていた。再生ボタンを押す指つきが、妙に慣れている。
前奏が流れ始める。
銀華が息を吸い込む。背筋を伸ばして、洞窟の天井を仰ぐように顔を上げて。
そして——歌い始めた。
さっきと同じ歌。同じメロディ。でも、さっきよりもさらに伸びやかで、自信に満ちた声だった。一度「合っている」と確認できたことで、枷が外れたのかもしれない。声が弾んでいる。楽しそうに。嬉しそうに。
銀の光が壁を駆け回る。洞窟全体が、彼女の歌声で満たされていく。
僕は岩に座ったまま、何も言えなかった。
ただ聴いていた。
教室での恥が、宝物に変わる瞬間を。
銀華の歌声が洞窟に響いて、銀脈の光に溶けていく。僕の鼓膜を通って、胸の奥にまで届く。心臓のあたりがじくじくと疼く。痛いのか温かいのかもわからない。
ただひとつ。
この声を聴いているのは、僕だけだ。
この洞窟の中で。銀の光の下で。
銀竜の歌声は、僕にだけ聞こえている。
──できれば、ずっと。




