第39話:銀華と素っ頓狂な歌声
最初の音楽の授業は、軽いガイダンスと教科書の確認で終わったけど。
今日の二回目は、合唱だった。
「今日はまず、試しにみんなで歌ってみましょう。上手い下手は気にしなくていいので、とにかく声を出してみてくださいね」
音楽教師がにこにこと笑いながら言う。楽譜が配られ、ピアノの蓋が開き、音楽室特有の冷たい空気に緊張がじわりと広がっていく。
合唱曲。タイトルは知っている。中学でも授業で歌った、定番のやつだ。
ただ、高校一年の四月にこれを全力で歌える男子がどれだけいるかというと——なかなかいない。
案の定、周囲を見渡すと男子も女子も揃って気まずそうな顔をしている。直也に至っては完全に欠伸をしながら立っていた。慧士は無表情だが、口を動かす気配がまるでない。
僕も似たようなものだ。声を出すのが嫌なわけじゃないけど、この空気の中でまともに歌い出す勇気はない。適当に口をぱくぱくさせて、周りの音に紛れていればいい。高校生の音楽の授業なんて大体そんなもんだ。
そう思って、隣をちらりと見た。
銀華が、胸を張って立っていた。
楽譜を両手できちんと構え、背筋をぴんと伸ばして、前を見据えている。やる気に満ちた——というか、何かに臨む兵士のような佇まい。完全に本気の構えだ。
あ、嫌な予感がする。
「はい、では。ピアノに合わせて、最初からいってみましょう」
音楽教師がピアノの前に座った。
穏やかで柔らかい旋律が、音楽室の空気を満たしていく。何小節かのイントロの間、クラス全員が楽譜と睨み合っている。誰が最初に声を出すかの、無言のチキンレース。
歌い出しの小節が来た。
ぼそ、ぼそ、と。声にならない声がぱらぱらと散る。女子のほうが少しだけマシで、かすかにメロディの輪郭が見えるけれど、男子のほうは壊滅的だ。僕も周りに合わせて口だけ動かし、声は喉の奥に留めておく。
——次の瞬間。
「——————ッ!!」
音楽室の空気が、割れた。
何が起こったのか、一瞬わからなかった。
隣から、とんでもない声量の——音と呼ぶにはあまりにも暴力的な振動が、僕の鼓膜を直撃した。
銀華。
彼女は楽譜を掲げたまま、真っ直ぐ前を向いて、口を大きく開けて歌っていた。
歌っている、つもりだった。
声はとにかくでかい。音楽室の壁という壁に反響して、窓ガラスがびりびり震えるような錯覚すら覚える。竜の肺活量から繰り出される、常軌を逸した声量。教室の隅まで届くどころか、隣の教室にまで聞こえていてもおかしくない。
ただし。
音程が、ない。
正確に言えば、音程という概念がどこにも存在していなかった。メロディの欠片もない。楽譜に書かれた音符とは何の関係もない、ただの叫び声。しかもリズムがめちゃくちゃで、ピアノの伴奏とは完全に乖離している。伴奏はもうとっくに二小節先に行っているのに、銀華はまだ冒頭のあたりを——いや、冒頭ですらないかもしれない。何かを、叫んでいる。全力で。
ピアノの音が止まった。
音楽教師の手が鍵盤の上で凍っている。
音楽室が、静まり返った。
銀華の声だけが残響のように壁から反射して消えていく。窓の外で鳥が一羽、驚いたように飛び立つのが見えた。
僕は両手で顔を覆っていた。指の隙間から、教室中の視線が一点に集まっているのが見える。銀華の方に。
視界の隅で、名和さんが限界だった。
両手で口を押さえて、肩が小刻みに震えている。笑いを噛み殺しているのが丸わかりで、目尻に涙が浮かんでいる。隣のあおいは対照的に、両目を見開いたまま石像のように固まっていた。口が半開きで、楽譜を握る手が完全に力を失っている。
男子の方も似たような惨状だった。直也が口に手を当てて天井を仰いでいる。慧士は——慧士だけは微動だにしていなかったが、目を閉じていた。聞かなかったことにしようとしている。
静寂。
長い、長い静寂。
ピアノの弦が微かに震える残響だけが、音楽室の天井に消えていく。
その沈黙を最初に破ったのは、瀬田だった。
「い、岩見さん……すげー、元気……」
フォローにならないフォロー。声が裏返っている。笑いたいのを必死で堪えているのが声色でわかった。
銀華は——涼しい顔をしていた。
楽譜を構えたまま、微塵も動揺していない。むしろ首を傾げて、止まったピアノと黙り込んだクラスメイトたちを不思議そうに見渡している。
「——どうした。なぜ止まっている」
静寂を貫く、凛とした声。
「言われた通り、声を出しただけだろう?」
出てる。声は出てる。
出てるけど。出てるだけなんだよ……。
僕は心の中で精一杯のツッコミをしながら、両手で顔を覆い直した。指の隙間から漏れる自分の吐息が熱い。恥ずかしい。いたたまれない。
音楽教師が我に返ったように「あ、えっと、岩見さん、声量はとっても素晴らしいわね。ただ、もう少しだけ、周りの音をよく聞いて——」とフォローを始めたが、銀華はそれを聞いて真面目に頷いている。「周りの音。なるほど」と。なるほどじゃない。
ピアノが再開された。
二度目の歌い出し。今度はクラス全員が警戒して、銀華の方をちらちら窺っている。歌うどころじゃない。僕も口を動かすふりすらできなかった。
銀華は——今度は「周りの音を聞く」という指示を律儀に守ろうとしたのか、少しだけ声量を落とした。
少しだけ。
つまり依然としてクラス全員の声量を合わせたより大きい。そして音程は相変わらず、行方不明。メロディの上を放浪する遊牧民のように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、時々急に跳ね上がったりする。
今度は堪えきれなかったらしい。教室のどこかで「ぷっ」と吹き出す音がした。それを皮切りに、あちこちからくすくすと笑い声が漏れ始める。
澄香が完全にアウトだった。楽譜で顔を隠しながら「むりむりむり」と呟いているのが聞こえる。あおいが澄香の背中をさすりながら、自分も唇を噛んでいた。
音楽教師が「はい、もう一回いきましょう! 今度はみんなもっと声出して!」と手を叩き、ピアノの前奏が三度目を刻む。銀華は律儀に楽譜を構え直す。周りの生徒たちも、さっきまでの恥ずかしがりが嘘みたいに声を出し始めた。銀華のあの声量に比べたら、自分が少しくらい音を外しても誰も気にしないということに気づいたのかもしれない。
皮肉なことに、銀華の素っ頓狂な大声が、クラスの緊張をぶち壊してくれたのだ。
三度目の合唱は、一度目よりずっとましだった。銀華の声は相変わらず飛び抜けて大きくて音程もどこかへ行っていたけれど、周りの声量が上がった分だけ、少しだけ馴染んで聞こえた。気のせいかもしれない。
授業が終わるチャイムが鳴ったとき、音楽教師は苦笑しながら「岩見さん、声を出す勇気は百点です」と言った。銀華は「そうか」と頷いていた。
◇
放課後。
いつもの帰り道。校門を出て、商店街の端を通り過ぎ、マンションへ続くゆるい坂道を二人で歩く。
五月の風はもう温い。空にはまだ明るさが残っていて、遠くの山の稜線がくっきりと見える。マンションが見え始める頃には、夕陽がアスファルトの上に長い影を引いていた。
銀華はさっきから、妙に静かだった。
いつもなら帰り道で今日あったことを淡々と報告してくる。「今日の古典は面白かった」とか「澄香がおかしなことを言っていた」とか。でも今日は、校門を出てからほとんど口を開いていない。
何か考えている顔だった。
見慣れた横顔だけど、こういう表情は珍しい。眉がほんのわずかに寄っていて、視線が足元に落ちている。考え事をするとき、銀華はいつも前を見る。でも今は違う。足元だ。自分の靴の先を見つめながら歩いている。
マンションの前に着いた。
エントランスの自動ドアが開きかけたところで、銀華がふっと足を止めた。
「……透」
「ん?」
銀華は正面を向いたまま、少しだけ俯いて——ぽつりとこぼした。
「皆は、もっと上手かったのか」
何の話かわからなかった。
でもすぐに、今日の音楽の授業だと気づく。合唱。あの素っ頓狂な大声。
「皆が笑っていたのは知っている。面白かったのだろう、あの場が。それは構わない」
構わないんだ。
「だが、後から考えた。音楽には決まった音がある。皆はそれに合わせて声を出していた。私は、違う場所にいたのではないか」
銀華が、こんなことを言うのは初めてだった。
数学がわからなかったとき、銀華は「わからないものはわからない」と清々しく宣言した。体育でスポーツテストに意味を見出せなかったとき、虚無の顔で淡々とこなした。どちらのときも、周りとの差を気にする素振りは一切なかった。
でも音楽は違った。
あのとき——洞窟で初めて音楽を聴いた銀華の顔を、僕は覚えている。目を閉じて、壁の銀脈から伝わる振動を全身で感じ取っていた。人間が作り出す「音」に初めて触れて、静かに、深く感動していた。
音楽の美しさを知っている。だからこそ、自分が出した音が「美しくなかった」ことに気づいてしまったのだ。
理想と現実のギャップ。
銀華の指先が、鞄の持ち手をきゅっと握りしめた。
「……恥ずかしかった?」
聞いてみた。
銀華が、ゆっくりと首を傾げた。
「恥ずかしい——かどうかはわからない。でも、なんだろう。皆ができていることを、私だけができなかったのだとしたら、それは」
言葉を探すように、銀華の目が宙を泳いだ。
「——少し、居心地が悪い」
居心地が悪い。
数学ができなくても平気だった。体育に意味が見出せなくても揺るがなかった。でも、音楽では「居心地が悪い」と感じた。他人との比較の中で、自分の立ち位置を——初めて気にした。
それは、とても人間らしい感情だった。
恥ずかしさの、芽。
「銀華」
僕は、できるだけ普段通りの声で呼んだ。
「歌は、練習すれば上手くなるよ」
銀華がこちらを見た。夕陽の光が横から差し込んで、銀色がかった髪の端をほんのり橙に染めている。
「あの曲だって、最初から歌えた人なんていない。何回も聴いて、何回も何回も声に出して、少しずつ合わせていくんだ」
銀華は黙って聞いている。瞳が、まっすぐ僕を見つめている。
「……練習してみようか」
気づいたら、口が先に動いていた。
銀華の目が、わずかに見開かれた。
夕陽に照らされた横顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。驚いたような、でもどこか安堵したような——そんな表情。
「……いいのか」
「いいよ。僕だって上手くないけど、二人でやれば少しは楽しいだろうし」
銀華は何も言わなかった。しばらく僕の顔を見つめてから、視線を足元に落とし、それからもう一度上げた。
小さく、頷いた。
こくり、と。ほんとうに小さく。
口元が、ほんのわずかに緩んでいた。笑うとまではいかない。でも、マンションに着いたときの強張った空気が、ふっと解けたのが見えた。
「では、次の休みに」
「うん。洞窟でやろう。あそこなら誰にも聞かれないし」
「……そうだな」
銀華はもう一度、小さく頷いた。
エントランスの自動ドアが、開いたまま僕たちを待っている。五月の温い風が、ロビーの方から流れてきた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
銀華が建物の中に入っていく。自動ドアが閉まる直前、ちらりとこちらを振り返って——本当に一瞬だけ——口角を、上げた。控えめな笑顔。
坂道を下りきったところで、ふと立ち止まって空を見上げた。五月の空は高くて、まだ明るい。
次の土曜日が、少しだけ不安で、少しだけ楽しみだった。




