第38話:銀華とお揃いのペンダント
銀華が、いない。
正確に言えば、いる。同じ教室の中にはいる。いつもの場所にいない。隣にいない。僕の方を向いていない。
教室の反対側。窓際の列の、名和さんの席。
銀華は今そこに、ぴったりくっついて座っている。
名和さんの椅子の横に自分の椅子を持ってきて——いや、正確には名和さんが「こっちこっち」と手招きしたのだろう——二人で肩をくっつけるようにして何かを見せ合っている。首からぶら下がったペンダントが揺れるたびに、きらきらと銀色が光る。遠足のお土産で買ったらしいお揃いの、銀の鉱石のやつだ。
「ねーこれ見て見て、お揃いなの!」
名和さんの声が教室の向こうから飛んでくる。周りに集まった女子が「え、綺麗」「どこで買ったの?」とわいわい騒いでいる。虹林さんもいて、横からペンダントを覗き込んでいた。
銀華が胸元のペンダントを指でつまんで、少し持ち上げて見せた。
「遠足の売店で買った。澄香が選んでくれた」
遠足。
僕は男子の班で別行動だったから、博物館もキャンプ場でも銀華とは離れていた。時々遠くから様子を窺って、銀華が女子の輪の中にいるのを確認しては安堵して、でもちょっとだけ——うん、ちょっとだけ、落ち着かなかった。
楽しくはあった。慧士が鉱石の展示に詳しくて意外だったし、直也はお土産のお菓子を三つも買っていたし。でも時々、銀華のいる方角をちらちら見てしまう自分がいた。
帰りのバスの中で、銀華が嬉しそうだったのも見た。
あれは、名和さんからのプレゼントだった。
弁当の上で、箸が止まっている。おばあちゃんが作ってくれた卵焼きが、いつもより黄色く見える。
「——ね、これ銀華ちゃんが買ってくれたの。あたしの分」
名和さんの声が、また聞こえた。
銀華が名和さんに買ったのか。お揃いのペンダントを。
知っていた。遠足の帰り、銀華が教えてくれたから。「澄香に同じものを買った」と。あのときの銀華は、何というか——誇らしそうだった。人に物を贈るという行為自体が新鮮で、それをちゃんとやり遂げたことが嬉しかったのだと思う。
僕はそのとき「よかったね」と答えた。実際、よかったと思った。銀華が人間の友達と贈り物をし合うなんて、ちょっと前まで考えられなかったことだ。
それなのに。
今、教室の向こう側でお揃いのペンダントを見せ合っている二人を見ていると――。
僕の隣の席は、空っぽだ。
銀華が座るはずの椅子だけが、きちんとした角度のまま誰もいない机に収まっている。五月の風が窓から入ってきて、銀華の席のあたりを素通りしていく。
なんだろう、この感じ。
特等席、という言葉がふと浮かんで、慌てて打ち消した。何考えてんだ僕は。
視線の先で、銀華が名和さんの肩にもたれかかった。
自然に。何の躊躇いもなく。頭をちょこんと名和さんの肩に乗せて、体重を預けている。いつも僕にやるのと同じだ。肩に頭を乗せて、ぐりぐりと擦りつける——まではいかないけれど、あの距離感。ゼロ距離。パーソナルスペースという概念がそもそも存在しないような、あの無防備な近さ。
名和さんは嫌がるどころか、「銀華ちゃんかわいい!」とキャッキャ言いながら銀華の頭を撫で返している。周りの女子たちも「仲いい!」「尊い!」と盛り上がっていた。
銀華は不思議そうな顔をしていた。
撫でられる、という反応が返ってきたことが新鮮なのだと思う。僕に寄りかかったとき、僕は大体フリーズするか赤くなるか慌てるかなので、名和さんのように「嬉しいから撫で返す」という反応は銀華にとって初めてだったのかもしれない。
銀華が少し首を傾げて、それから名和さんの髪に鼻を近づけた。
「澄香、匂いがする」
「えっ、匂い? 臭かった?」
「いや。透とは違う匂いだ」
比較に僕の名前を出すな。
心の中でツッコんでも届くわけもなく、名和さんが「旭日くんはどんな匂いなの?」とニヤニヤし始めて、銀華が真面目に「どこか山の匂いがする」と答え、女子たちが爆笑している。僕は離れた場所で一人、卵焼きを噛んだ。味がしない。
いつもの距離感だ。銀華がいつも僕に向けている、あの距離感ゼロのスキンシップ。何の悪気もなく、何の意図もなく、ただ「近くにいたいから近くにいる」という、竜の行動原理。
僕だけに向けられていると思っていた。
それが、遠足一日で変わった。
たった一日。一緒にお弁当を食べて、坑道を歩いて、お土産を買い合っただけで銀華の世界が広がった。
良いことだ、間違いなく。銀華にとっても、名和さんにとっても。僕がどうこう言う話じゃない。銀華が新しい友達と仲良くなるのは素晴らしいことで、僕はそれを応援するべきで、実際応援したいと思っている。
名和さんの肩に頭を乗せている銀華が、ふと顔を上げて何か言った。名和さんが銀華の顔を覗き込んで笑い、銀華も——笑った。
あの笑顔。口角がほんの少し上がって、目が細くなる、あの控えめな笑顔。
「透、顔に出てんぞ」
直也が、僕の向かいの席でメロンパンを千切りながら言った。
「……何が?」
「何がじゃねえよ。さっきからずっとあっち見てんじゃん」
慧士が隣の席で黙々とおにぎりを食べている。目線は弁当に落としたまま、一言も喋らない。でも聞いている。こいつが黙っているときは大体、全部聞いている。
「見てないよ。普通に弁当食べてるだけ」
「嘘へたくそ。ずっと箸止まってんだけど」
言われて見ると、確かに僕の弁当はまだ半分以上残っている。
「いや、ちょっと……なんか、こう」
言葉が出てこない。何をどう言えばいいのかわからない。名和さんと仲良くなって嬉しいけど寂しい、なんて言ったら意味がわからない。
「なんか、急に離れていかれたみたいで……」
口から出た言葉は、自分でも情けなかった。
直也がメロンパンの手を止めた。慧士がおにぎりを飲み込んだ。二人が同時にこっちを見た。
沈黙。
三秒。
「嫉妬だな」
慧士が言い切った。感情のない声で。コンビニのレジが「ピッ」と鳴るみたいに。事実確認だけのトーンで。
「は——っ、ち、違うって!」
「嫉妬だろ」
「違う! 別にそういうのじゃなくて、ただちょっと——」
「幼馴染が取られてさびしいんでしゅかー」
直也がメロンパンを指でつつきながら、にやにやと笑った。
「あ、幼馴染じゃなくて彼女か」
彼女じゃない!!
……ギリギリで叫ばずに踏みとどまれた。
「……彼女じゃないし、嫉妬でもないし」
「じゃあ何?」
慧士の問いに、僕は答えられなかった。
嫉妬、という単語が頭の中で反響している。
嫉妬。
嫉妬? 僕が? 銀華に対して? 名和さんに対して?
「あーもう無理」
僕は弁当の蓋を閉じて、机に突っ伏した。額が冷たい机の天板に当たって、少しだけ気持ちいい。
「自覚した?」
「してないです」
「した顔してるけど」
「してない」
直也が笑った。慧士は何も言わなかったけれど、おにぎりを食べる手は止まっていなかった。こいつ、本当に他人事だと容赦がない。
机に突っ伏したまま、腕の隙間から教室の向こう側を見た。銀華と名和さんはまだ一緒にいて、今度は何かスマホの画面を覗き込んでいる。名和さんのスマホだろう。遠足の写真でも見ているのかもしれない。
楽しそうだ。本当に。
それが嬉しくて、同時に、胸が軋む。こういうのを嫉妬と呼ぶのだとしたら、僕はみっともない人間だ。
そんなの、最低だ。
「最低だ……」
「何が?」
「独り言」
直也が「めんどくさいなお前」と笑った。そうですね。
◇
放課後、いつもの帰り道。
校門を出て、商店街を抜けて、マンションへ向かう坂道。五月の夕方は明るくて、空がまだ橙色にもなっていない薄い青のままだった。
銀華が隣を歩いている。
昼休みはずっと名和さんの隣にいた銀華が、放課後になったらごく自然に僕の隣に戻ってきた。「帰ろう」と一言だけ言って、鞄を持って立ち上がった。名和さんに「ばいばい銀華ちゃん!」と手を振られて、「ああ、また明日」と返して。
それだけ。
隣を歩く銀華の横顔を、ちらちらと見てしまう。首にかかった銀鉱石のペンダントが、歩くたびに小さく揺れている。
「……昼休み、楽しそうだったね」
言うつもりはなかった。でも口が勝手に動いた。自分でも、声が少し拗ねているのがわかった。
銀華がこちらを向いた。
「ああ、澄香たちは面白い」
素直な返事。何の含みもない、そのままの感想。
「澄香は、私が何を聞いてもすぐに答えてくれる。しかも楽しそうに答える。今日は由紀と麻里奈にも話しかけられた。二人とも声が高くて早口で、聞き取るのが大変だったが——面白かった」
うん。知ってる。遠くから見てた。
「銀華が楽しそうで、よかった」
嘘じゃない。けれど、声が平坦になっている自覚があった。
数歩、無言で歩いた。
銀華が、小さく息を吐いた。
「……だが、少し不便でもある」
「不便?」
「澄香たちといると、気を張る。私のことを——竜のことを、口にしてはいけない」
足が止まりかけた。
「遠足のとき。坑道で、つい『私の住む場所と似ている』と言いかけた。危なかった」
「え、それ——」
「大丈夫だ。途中で止めた」
銀華は少しだけ眉を下げた。困ったような、申し訳ないような、僅かな表情の変化。
「三か条は守っている。だが、少し息苦しい。澄香が色々聞いてくれるのは楽しいのに、全部は答えられないこともある」
そういうことか。
銀華は足を緩めずに続けた。
「その点——」
ちらりと、こちらを見た。
「透の隣は、良い」
なんでもないような言い方だった。前を向いて、いつもの速さで歩きながら、ぽつりと。
「透の前では何も隠さなくていい。竜のことも、洞窟のことも、三か条のことも。全部知っていて、全部受け取ってくれる」
足が止まった。今度は完全に。
銀華は二歩先で振り返った。「どうした」という顔。
どうもしていない。どうもしていないのに、さっきまで胸を押し潰していた重たい何かが、ふっと抜けていった。息がしやすくなった。五月の風が肺の奥まで入ってきて、体中の曇りを持っていったみたいだった。
僕だけが知っている。
教室の中で名和さんや女子たちと楽しそうにしていても、澄香と笑い合っていても——銀華の全部を知っているのは僕だけだ。竜の姿も、洞窟のことも、銀色の鱗も、咆哮も、パンをがりがり噛み砕く顎の力も。三か条を守って、「内緒だ」と誤魔化しているときの、あの小さな息苦しさも。
それを全部受け取れるのは、僕しかいない。
友達は増えていい。世界は広がっていい。
でも、秘密を共有する場所は、ここだけだ。
「——うん、僕も。銀華の隣が、良い」
銀華はしばらく僕の顔を見つめてから、「ふむ」とだけ言って歩き出した。
満足したのか、よくわからなかったのか。どっちでもよかった。言いたいことは言えた。
坂道を二人で並んで歩く。影が長くなってきて、アスファルトの上に二つの影が伸びている。いつもの帰り道。いつもの距離。銀華の肩と僕の肩の間は、たぶん拳ひとつ分くらい。近いけれど、くっつかない。このくらいがちょうどいい。
——と思った矢先。
銀華が、胸元のペンダントを片手で掴んだ。
きゅっと、大事そうに握りしめて。
「ああ、そういえば」
「ん?」
「由紀と麻里奈も同じアクセサリーを欲しがっていたから、皆で見に行きたいと言っていた」
「へえ……」
「面白いな。同じものを持つと仲良くなれるという感覚。私にはまだよくわからないが、澄香がそう言うのだから間違いないのだろう」
銀華がペンダントをかざした。夕方の光に、銀色の石が鈍く輝く。その目がきらきらと楽しそうに光っていて、表情がいつもより明らかに柔らかい。
「このペンダントではないが別の、きーほるだー? を探すと言っていた」
楽しそうに話す銀華を、横目で見ている。
さっき消えたはずの重さが、じわりと戻ってくる。
ペンダント。お揃い。
僕は銀華にアクセサリーなんて贈ったことは当然ない。パンとか漫画とか駄菓子とか、そういうものは持っていったけど、身に着けるようなものは一度も。
銀華は今、ペンダントを嬉しそうに握っている。
悔しい。
何がだよ。
僕もアクセサリーのプレゼントなんてしたことないのに。
先手を取られて悔しい。
その考えが浮かんだ瞬間、自分の顔が熱くなるのがわかった。何を考えてるんだ。だいたい僕が銀華にアクセサリーを贈ってどうする。友達へのプレゼントだって言い張るのか。幼馴染みだからって言い訳するのか。
無理だ。照れる。
「透? 顔が赤い。体調が悪いのか」
「……大丈夫。なんでもない」
「そうか。ならいいのだが」
銀華はそれ以上聞いてこなかった。ただペンダントを握ったまま、前を向いて歩き続けている。
僕はそれを横目で見ながら、自分の手のひらをぎゅっと握った。
何も持っていない、空っぽの手のひらを。




