第45話:銀華と透の日常
ゴールデンウィークが明けた。
空は薄い青が広がっていて、街路樹の若葉が風に揺れている。いつもの通学路。いつもの時間。いつもの坂道。なのに、足取りがやたらと重い。重いというか、定まらない。右足と左足が交互に出ているかどうかすら怪しい。
マンションのオートロックの前に立つ。
数秒の間があって、エントランスのガラス扉の向こうに、銀華が現れた。
制服姿。いつもと同じブレザーとスカート。
「……おはよう」
声がうわずった。自覚がある。
銀華が扉を開けて出てきた。僕の顔を見て、一瞬だけ目を逸らした。
銀華が、目を逸らした。
いつもまっすぐこっちを見て、「透」と呼びかけてくる銀華が。
「……おはよう」
小さな声だった。いつもの銀華の声より、ほんの少しだけ音量が足りない。
二人とも、相手の顔を見ていない。僕は銀華の肩のあたりを見ていたし、銀華は僕の胸元あたりを見ていた。
歩き始める。並んで歩く。
いつもと同じ距離のはずなのに、空気が違う。甘いのか、重いのか、よくわからないものが二人の間にある。会話がない。普段なら銀華が何か訊いてくるか、僕が何か話しかけるかするのに、今朝はどちらも口を開けない。
薬指の指輪が、朝日を受けてちらりと光った。
「名和さんには、もう話しちゃったんだよね」
沈黙に耐えかねて、僕から切り出した。
「ああ。皆にも言うと言っていた」
「……だよね」
校門が見えてきた。生徒たちがぞろぞろと吸い込まれていく。
昇降口で靴を履き替える。階段を上がる。廊下を歩く。教室の扉が、目の前にある。
深呼吸をした。
銀華がちらっとこっちを見た。
「……行くか」
「うん」
扉を開けた。
教室に一歩入った瞬間、名和さんが椅子から飛び上がった。文字通り、飛び上がった。
「ちょっとちょっと!」
教室の端から端まで届くような声量で、名和さんが駆け寄ってくる。目が爛々と輝いている。朝の教室に、彼女の存在だけがハイビジョンで映し出されているような明度だった。
「旭日くん! 銀華ちゃん!」
僕たちの前に立ちはだかり、両手を腰に当てて、にんまりと笑った。
「何があったの!? ていうか何があったかもう知ってるけど本人の口から聞きたい!」
知ってるならわざわざ聞かないでほしい。
周りを見ると、もう教室中がこっちを見ている。何人かのクラスメイトがにやにやしていて、何人かはスマホを構えていて、何人かは「やっぱりか」みたいな顔をしている。
「……付き合い始めました」
蚊の鳴くような声だった。自分で聞いても情けないくらい小さかった。
でもその瞬間、名和さんが両手を叩いて天を仰いだ。
「やっぱりーーー!! 銀華ちゃん! 旭日くんのどこが良かったの!?」
「どこが、と言われても。透は透だ」
「きゃー! なにそれ!」
名和さんが銀華の両手を握ってぶんぶん振り回している。銀華は握られるがままに、されるがままになっていた。少し戸惑った顔をしているけれど、嫌がってはいない。
虹林さんが自分の席から、穏やかに笑っていた。
「やっぱりね」
それだけ言って、教科書に目を戻した。さも当然、という顔だ。おさげが揺れるくらい小さく首を振って、「知ってたよ」と言わんばかりの微笑を浮かべている。
「透」
後ろから肩を叩かれた。振り返ると、直也が腕を組んで仁王立ちしていた。その隣に、いつものように表情の薄い慧士が立っている。
「お前さあ、そういうことは言えって前も言ったよなあ?」
直也が溜息をつく。大げさに眉間にしわを寄せて、「やれやれ」という顔を作っている。
「いう暇なかったんだよ。ごめん」
「ごめんじゃねえっつうの。そういう大事なことは報告しろって」
「というか、前まで本当に付き合ってなかったの」
慧士が横から、ぼそりと尋ねてきた。
「……え?」
「あんなに四六時中一緒にいたのに」
直也も我が意を得たりと大きく頷く。
「そうそう! 幼馴染なんて元から無理があったんだよ。お前」
直也が呆れ顔のまま、でも——口元は笑っていた。
「まあ、おめでとう」
ばん、と背中を叩かれた。結構痛い。こいつは力加減を知らない。
慧士も片手を上げて、小さく頷いた。
恥ずかしい。照れくさい。穴があったら入りたい。
でも、それ以上に、ありがたかった。
名和さんが銀華の腕を引っ張って女子のグループに連れて行ってしまい、直也と慧士が席に戻っていく。教室は元のざわめきを取り戻し、チャイムが鳴って、一時間目の授業が始まった。
席について、横を見る。銀華がいる。いつもの隣の席。
銀華もこっちを見た。
目が合って——二人して、慌てて前を向いた。
先生の声が教室に響いている。ノートを開く。シャーペンを握る。何も書けない。文字にならない。頭の中が全部、隣の席の彼女のことで埋まっている。
恋人。
この隣に座っている人は、僕の恋人。
その事実は、何度考えてもまだ頭に馴染まない。
◇
放課後。
ホームルームが終わって、名和さんと虹林さんが銀華にバイバイを言い、直也が「じゃあなー」と手を振り、慧士が無言で去っていく。いつもの放課後の風景が流れていって、気づけば僕と銀華だけが残っていた。
「帰ろうか」
「ああ」
鞄を肩にかけて、教室を出る。廊下を歩き、昇降口で靴を履き替え、校門をくぐる。
空が薄い橙色に染まりかけていて、まだ高い位置にある太陽が街路樹の影を長く伸ばしている。吹き抜ける風が心地いい。
二人で並んで歩く。いつもの帰り道。
しばらく無言が続いた。朝のようなぎこちなさは少し薄れていたけど、それでも普段より静かだった。
すると——銀華がそっと、僕の袖を引いた。
指先で、制服の袖口を、ちょん、と摘まむように。
「透」
「うん?」
「恋人なのだから」
銀華が少しだけ顔を伏せた。耳が赤い。
「手を繋いで歩いても、いい?」
銀華の声はいつもの落ち着いた口調だった。でも、ほんの少しだけ語尾が揺れていた。名和さんに教わったのか、漫画で読んだのか。でも、それを口にするときの銀華の表情は——照れていた。間違いなく照れていた。
竜が、照れている。
「うん。いいよ」
僕は笑って、銀華の手を取った。
指と指が絡む。銀華の手は温かかった。昨日、洞窟の中で指輪を交換したときと同じ温度。二人の影が長く伸びて、アスファルトの上で重なっている。
角を一つ曲がった。商店街の外れ、銀華のマンションに続く道。人通りが少し増える。向こうから下校中の他校の生徒が歩いてきて、こっちをちらっと見て通り過ぎていった。やっぱり、銀華は目立つ。手を繋いでいれば尚更だ。
——と、そのとき。
銀華が急に立ち止まった。
繋いだ手に引っ張られて、僕も足が止まる。
「銀華? どうし——」
振り向いた瞬間、視界いっぱいに銀華の顔があった。
近い。
近いというか——もう、ゼロだった。
唇に、柔らかいものが触れた。
一瞬だったのに、世界が止まった。
音が消えた。風が止まった。五月の夕暮れの全部が、小さな一点に凝縮されて、弾けた。
銀華の顔が離れた。
僕は——多分、生まれてから一番赤い顔をしていたと思う。耳の先まで燃えていた。口をぱくぱくさせて、声が出なくて、目が泳いで、頭の中で何かがショートした。
「ぎ、銀華っ——!?」
「したくなった。いいだろう」
悪びれない。まったく悪びれない。銀華はきょとんとした顔で、さも当然のことのように言い放った。ただ、よく見ると彼女の耳も少し赤い。少しだけ。でも表情は涼しい。この温度差がずるい。
「いや、いい、いいのかも、しれないけどさ! ここ道端だよ!? 外だよ!?」
「いけないのか」
「いけなくはない——んっ? いや、いけないだろ!」
混乱していた。
通りの向こうで、すれ違いざまの通行人が二度見していた。歩道の反対側を歩いていた他校の女子生徒たちが、口元を押さえてこっちをガン見していた。自転車で通り過ぎたおじさんが、ペダルを止めてこっちを振り返っていた。
「銀華……」
「何だ」
「目立ってる」
「私たちはいつも目立っている」
身も蓋もない。
顔を両手で覆いたかった。でも、手は銀華に繋がれたままだ。右手が銀華の左手と絡んでいる。片手しか自由じゃない。
空いたほうの手で顔を押さえた。
銀華がこてん、と首を傾げた。
「透、顔が赤い」
「赤いよ! 当たり前でしょ!」
「昨日も赤かった」
「昨日とは違う理由だよ、場所が違うから!」
「そうか。場所で変わるものなのだな」
銀華が小さく頷いた。理解した、という顔をしている。でも絶対に半分も理解していない。
手を繋ぐ。キスをする。恋人としての行動を、この人は「いいだろう」の一言で、平気な顔で、どこでも実行する。竜の常識には「恥ずかしい」とか「人目がある」という概念が存在しないのだ。
正体を隠す三か条のほかに、今度は「恋人の三か条」がいるかも。
銀華が繋いだ手を、ゆっくりと揺らし始めた。子供がブランコを漕ぐみたいに、行ったり来たり。
「透」
「……なに」
「嫌だったか」
銀華の声が、ほんの少しだけ不安そうに聞こえた。
振り返ると、銀華がこっちを見上げていた。赤みの引いた顔に、少しだけ心配の色が滲んでいる。あの涼しい目が、今だけ揺れている。
——ずるい。こんな顔されたら、怒れるわけがない。
「……嫌じゃない」
正直に言った。
「嫌じゃない。全然嫌じゃない。ただ、場所は選ぼう。……頼むから」
「わかった」
銀華が、ふっと笑った。口元だけじゃない。目が笑っている。さっきまでの涼しい顔はどこへやら、照れくささと嬉しさが混じったような、どちらとも言い切れない柔らかい表情。
最近見せるようになった、人間くさい表情。
昔の銀華と今の銀華は、全然違う。学んでいるんだ。人間の感情を、人間の表情を。
学習速度が異常だから、こっちが追いつけなくなりそうだ。
手を繋いだまま、また歩き出した。夕陽が傾いて、二人の影がさらに長くなる。薬指の指輪同士が、歩くたびにかちりと触れ合う。
銀華のマンションが見えてきた。いつもの分かれ道。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
銀華が手を離した。名残惜しそうに、指先が少しだけ僕の手のひらをなぞった。
エントランスの前で銀華が振り返った。
「透」
「うん?」
「良い一日だった」
銀華にとっての、最上級の褒め言葉。
僕は笑った。
「うん。僕もだよ」
ガラス扉が閉まって、銀華の姿が消える。手を振る暇もなかった。でも、それでいい。明日もまた、この場所で会えるのだから。
マンションを背にして、僕は帰り道を歩き出した。
空が暮れていく。橙から紫に、紫から藍色に。一番星が見えた。薄明のてっぺんに、一つだけ。
唇に、まだ感触が残っている気がした。
夕暮れの通学路を振り返る。誰もいない。さっきまで銀華がいた場所に、もう彼女の姿はない。
でも明日になれば、また隣にいる。
僕の町には、竜がいる。
銀色の鱗を持つ、大きくてカッコいい竜。
五千年を生きたという、数学が全くできなくて、固いパンが好きで、動物に囲まれて笑って、相合傘で密着してきて、友達のペンダントを大事に握って、人前でいきなりキスしてくる。
——僕の、恋人。
銀竜が人間の町にやってきて、僕の隣の席に座って、友達を作って、怒ったり笑ったり、恥ずかしがったり、寂しがったりした。
それだけの話。
僕は足を速めた。
帰ったら、恋人の三か条を考えないといけないから。




