第35話:銀華と雨の日の相合傘
朝、カーテンを開けたら窓の外が灰色だった。
昨日までの澄んだ空がどこかに行ってしまって、低い雲が町全体に蓋をしている。細い雨が途切れなく降っていて、窓に小さな水滴がびっしりと貼りついていた。
傘立てから傘を一本引き抜く。青いビニール傘。骨が一本曲がっていて、開くとちょっとだけ歪む。でもまあ、使えないことはない。
いつもの坂道を上ると、銀華のマンションが見えてきた。白い壁の五階建て。最近は部屋まで迎えに行かずとも、エントランスの前で銀華が待っている。
今日もいた。
いたけれど、場所がおかしかった。
銀華はエントランスの屋根の下ではなく、その数歩先にいた。屋根から外れた、雨が降り注ぐ場所に。制服姿のまま、傘も差さず、顔を真上に向けて立っている。
考えるより先に足が動いていた。傘を持ったまま坂道を駆け上がって、マンションの敷地に入って、銀華のそばに辿り着く。
「銀華!」
銀華が顔を下ろした。髪がもう濡れていた。銀色の長い髪が雨を吸って、いつもより暗い色になっている。制服の肩も、スカートの裾も、じっとり湿っていた。
「ああ、透」
不思議そうな顔をしていた。
僕が慌てている理由がわからない、という目。
「何やってるんだよ。濡れてるじゃないか」
「見ていた」
「見てたって——何を」
「雨を」
銀華は濡れた前髪をかき上げもせずに、もう一度空を見上げた。灰色の雲から、絶え間なく水の粒が落ちてくる。銀華の顔に、頬に、まつ毛の上に、小さな雫が次々と降りかかっては伝い落ちていく。
「洞窟では、雨は音だけだった」
銀華が静かに言った。
「遠くから、ざあ、と。ずっと聴いていたから、知っている」
目を細めた。雨粒がまつ毛に引っかかって、光の粒みたいに震えている。
「水が空から落ちてくるのだな。本当に。音だけではなくて、こうして体に触れる」
銀華が両手を広げた。掌を上に向けて、雨を受け止めるように。水滴が白い指先に落ちては砕けていく。銀華はそのひとつひとつを見つめていた。
洞窟の中で何千年も聴いていた音。天井を叩く雨の音。それが今、体で感じられるものとして目の前にある——銀華にとって、この雨はそういうものなのか。
頭ではわかる。わかるけど。
「——やめときなさい」
気がつくと僕は銀華の腕を掴んで、屋根の下まで引き戻していた。銀華をこれ以上雨に打たせておくのが嫌で。
「風邪引くだろ」
「かぜ」
「体が冷えて、くしゃみが出て、頭が痛くなって、寝込むやつ」
「……雨にあたると、そうなるのか」
銀華が首を傾げた。
そういえば竜の体だ、人間とは全然違う。雨に濡れたくらいで体調を崩すかといえば。
それでも。
「ならないかもしれないけど、なるかもしれない。この姿のときは人間に近いんだから」
銀華は僕の顔をじっと見た。数秒。それから小さく息を吐いて、素直に頷いた。
「透がそう言うなら」
たぶん、僕が言うから合わせてくれただけ。
——過保護。
はいはい、わかってます。
「濡れるのは平気なの?」
「平気だ」
銀華が制服の袖を見下ろした。じっとり水を吸った布地のようなものが、肌に張り付いている。
「だが——この靴はよくない」
銀華が右足を上げた。ローファーの中がぐしょぐしょになっているのが、履き口から見える。靴下まで水を吸って、足を一歩動かすたびにくちゅ、と嫌な音がする。
「重い。そして足の裏に張りつく。不快だ」
竜の理屈。
水に濡れること自体は気にしないが、靴が水を吸って重くなるのは実害がある。体の感覚に正直すぎる。
思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのだ」
「いや……銀華らしいなって」
首を傾げる銀華に、僕は持っていた傘を差し出した。
「これ。傘。雨をしのぐ道具」
銀華が傘を受け取った。曲がった柄を握って、ひっくり返したり横にしたりしながら見つめている。閉じた傘の骨組みを、指で一本一本確かめるように触れた。
「どう使うんだ」
「こう——ここのバンドを外して、ここを押し上げると」
僕が手を添えて、ばさっと傘を開かせた。歪んだ骨のぶん少しだけ傾いて、雨が流れ落ちる角度が偏る。銀華は開いた傘を頭上にかざした。雨が傘のビニールを叩く。
「……ふむ」
銀華が傘の内側を見上げた。
「濡れなくなった」
「よかった——って言いたいとこだけど」
僕は屋根の下に立ったまま、自分の手持ちを確認した。
傘は一本。今、銀華が持っている。
「あー……、僕はまあ——走ればなんとか」
「良くない」
即答された。
「透がさっき言っただろう、濡れるとかぜを引くと。なら透もこれを使うべきではないのか」
銀華のまっすぐな目が、僕の理屈をそのまま返してきた。自分で言った言葉で殴られる気持ち。
「……まあ、そうなんだけど、一本しかないし」
「二人で使えばいい。この屋根は二人でも使えそうだ」
銀華が傘を僕の方に傾けた。
——え、相合傘。
いやいやいや。一瞬で耳が熱くなった。
相合傘って。
高校生男女の相合傘って。通学路で。朝の時間帯に。
だけど銀華は当たり前の顔をしていた。きっと合理的な判断をしただけ。傘が一本しかないなら二人で入る。それ以外に何がある? という顔。
仕方なく、――仕方なく、僕は銀華の横に並んだ。
傘の中に入ると、一気に世界が狭くなった。ビニール傘だからそんなに大きくない。二人で入ると、肩と肩がぴったりくっつく。くっつかないと入りきらない。
僕が傘を受け取った。銀華より背が少しだけ高いから、僕が持った方が効率がいい。歪んだ骨が雨を変な方向に流すから、気をつけないと銀華の方に水が垂れる。傘を少し銀華側に傾けた。
「行こう」
歩き出した。
普段の通学路が、全然違う。
銀華が近すぎる。
傘の中に収まるために、銀華が僕の腕にほとんど肩を預けるような形になっている。濡れた髪から、雨と——なんだろう、石みたいな、冷たくて澄んだ匂いがする。洞窟の匂いだと思った。
銀華はそんなこと何一つ気にしていなかった。顔を少しだけ傾けて、傘の縁から見える雨の景色を眺めている。濡れたアスファルト。水たまりに跳ねる波紋。排水溝に流れ込んでいく筋。全部が珍しいらしい。
「雨は好き?」
つい聞いた。何か喋らないと頭がおかしくなりそうだった。
銀華が少し考えた。
「……意識したことがない」
「ない?」
「好きかどうかを考えたことがなかった。洞窟にいたときは、ただそこにある音だった。好きでも嫌いでもなく、あるもの」
銀華が僕の方を見た。距離が近いから、横を向いただけで顔がすぐそこにある。
「靴がいつもと違うのと」
一拍、間があった。
「透が近い」
心臓が一回だけ、強く跳ねた。
銀華に意味はない。事実を述べただけだ。そこに照れとか意識とか、そういうものは入っていない。
入っていないことは、わかっている。わかっているのに。
「——うん」
それしか返せなかった。
顔が熱い。前を向いた。雨の道を見た。足元に集中した。水たまりを避けて、銀華の足も水たまりに踏み込まないように気をつけて、そうやって意識を散らしながら歩いた。
傘を叩く雨音だけが、二人の間を満たしていた。
◇
通学路の途中。商店街を抜けて、学校へ続く坂道にさしかかったあたりだった。
「ちょっと!」
前方から、弾けるような声が飛んできた。
顔を上げると、十メートルほど先に黄色い傘が見えた。傘の下から、明るい髪の毛と、にやにや笑った顔が覗いている。
名和さんだった。
名和さんが振り返って、僕たちを見つけて、黄色い傘ごと跳ねるように駆け寄ってきた。
「やっぱり! やっぱ付き合ってんでしょ、相合傘とか!」
「違う!」
反射で叫んだ。声が裏返った。
「傘が一本しかなくて——!」
「あはは、顔真っ赤じゃん旭日くん!」
名和さんが黄色い傘の下でけらけら笑っている。長い髪が雨で少しうねっていて、それがまた楽しそうに揺れる。目が完全にからかいモードだった。
「だから違うって——別に——これはただ——」
言い訳が全部バラバラに飛んでいく。何を言っても燃料にしかならない気がする。
「傘が一本だけだった」
僕が必死に弁明している横で、銀華が平然と言った。
名和さんの方を向いて、涼しい顔のまま。
「一本しかないのだから、二人で入る。こういうものではないのか?」
「え?」
名和さんが一瞬きょとんとした。銀華は本気でそう思っている目をしている。傘が一本しかなかったから二人で入った。それの何がおかしいのか、本当にわかっていない。
名和さんが数秒、銀華の顔を見つめて——吹き出した。
「あはは! 銀華ちゃんらしい!」
名和さんが目尻を拭った。怒っているわけでもからかいを引っ込めたわけでもなく、ただ純粋に面白かったらしい。銀華の反応が想定外すぎて、からかう気力が笑いに変換されたような感じ。
「あたしだったらぜったい意識するけどなぁ。相合傘」
「意識?」
「心臓がね、ばくばくするの」
「心臓は常にばくばくしているものではないのか」
「そうだけどそうじゃない!」
名和さんが銀華の腕を軽く叩いた。銀華はきょとんとしていたけれど、叩かれた腕を見下ろして、それから名和さんの顔を見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
僕は赤い顔のまま、黙って歩いた。弁明は諦めた。
そのまま三人で並んで坂道を上る。名和さんが僕と銀華の間に割り込むように入ってきて、銀華と肩を並べて歩き出した。黄色い傘と、僕の青い傘が、並んでゆらゆら揺れる。
「そういえばさ」
名和さんが声のトーンを少し変えた。明るいのは変わらないけれど、少し真面目というか、話題を切り替える合図。
「来週の遠足、楽しみだね」
遠足。
「グループのみんなと仲良くなれるチャンスじゃん。由紀ちゃんとまりなちゃん、最初ちょっと緊張してたけど、昨日の放課後にあたしとあおいで色々話したら、二人とも銀華ちゃんのこと気になってたみたいでさ」
「ほう」
「『岩見さんって怖くないんだね』って」
「怖い、私が?」
「ほら、そういうとこ」
僕はそのやり取りを横から聞いていた。名和さんが銀華とグループの子たちの間を取り持とうとしてくれている。ありがたい。
「遠足の日は絶対晴れるよ」
名和さんが突然、力強く宣言した。
「あたし晴れ女だから!」
胸を張っている。自信満々だ。
ぴくり。
銀華が反応した。
歩きながら、まっすぐ名和さんの方を向いた。
「はれおんな」
「うん」
「それは何だ」
「えっ? えっと、あたしがいると晴れるっていうか、大事なイベントのときは絶対晴れるっていう——」
「澄香がいると晴れるのか」
銀華の声が、一段階真剣になった。
「だが今は雨だ」
銀華が空を見上げた。灰色の雲。止む気配のない雨。それから名和さんを見た。まっすぐな検証の目。
「ほへっ」
名和さんが口をぱくぱくさせた。
「いや、それはほら——毎日じゃなくて、大事な日に晴れるっていうか——」
「不思議な能力だ。澄香が願えば晴れるのか」
「ちょ、能力って——」
銀華は真顔だった。
知的好奇心に火がついている。未知の概念に出会ったときの銀華は、いつもこうだ。相手が答えられなくなるまで質問を重ねる。悪気はない。純粋に知りたいだけ。でもそれが余計にたちが悪い。
「ジンクス! ジンクスっていうの! なんか当たるやつ!」
名和さんが両手を振って必死に説明している。黄色い傘がぐらぐら揺れて、雨が横から吹き込んでいた。
「じんくす」
「そう! おまじないみたいなもので——」
「おまじない」
「だからぁ!」
名和さんがたじたじになっていた。いつもは押しが強くてぐいぐい来る名和さんが、完全に防戦一方。銀華の質問が矢のように飛んでくるから、受けるだけで精一杯。
「あたしの経験則だから——!」
「経験。能力じゃないのか」
「能力とかじゃないの! もう——旭日くん助けて!」
名和さんが悲鳴のような声で僕に救援を求めた。
だけど——ごめん。無理。
僕はもう笑いをこらえきれなかった。
口元を手で覆って、でも肩が震えて、目の端に涙が滲んで。名和さんがおろおろして、銀華が首を傾げて「何がおかしいのだ」と不思議そうに聞いてきて、それでまた名和さんが「おかしいのはあんたの質問!」と叫んで。
傘が、雨の坂道でぐちゃぐちゃに揺れていた。
笑いながら、ふと思った。
遠足のこと。
名和さんがいれば大丈夫、かもしれない。
「ねえ銀華ちゃん、もうその話やめない?」
「私はまだよくわかっていない。『晴れ女』とは――」
「だから、あたしがいたら晴れる! それだけ!」
「それだけでは説明に——」
「——っもう!」
名和さんが黄色い傘をぶんぶん振った。雨粒が飛び散って、銀華と僕に降りかかった。銀華が目を瞬いた。僕の制服に水滴が跳ねた。
「あっごめん!」
名和さんが慌てて傘を戻した。
校門が見えてきた。雨の中を、何人もの生徒が傘を差して吸い込まれていく。三人の足音と雨音と笑い声が、湿った朝の空気に溶けていく。
銀華が僕の方を見た。
「透」
「ん?」
「澄香には面白い能力がある」
「うん」
そうだよ。名和さんは面白い人だ。
銀華と意味は違うけど。絶対。
僕はそう答えて、歪んだ傘をたたんだ。校門の屋根の下に入る。銀華が制服についた水滴を手で払って、僕も似たようなことをして。名和さんが「じゃあ教室で!」と手を振って先に走っていった。
銀華と二人、昇降口で靴を履き替える。銀華がまたローファーを見下ろして、渋い顔をしていた。
「やはりこの靴は不快だ」
「長靴っていうのもあるから、傘と一緒に今度買いに行こうか」
「ながぐつ」
「雨の日用の靴。水が入ってこないやつ」
「それは良い」
窓の外では、まだ雨が降り続けていた。灰色の空。傘の花。水たまりに跳ねる波紋。
洞窟では音でしかなかった雨を、今日、銀華は体で知った。
それから、相合傘というものも。
意味は、わかっていないだろうけど。




