第34話:銀華と男女別グループ
朝。チャイムが鳴って、ざわついていた教室が少しずつ静まる。
担任が出席簿を持って教壇に立った。眼鏡の奥の目が教室全体をぐるりと見回して、全員の着席を確認してから口を開く。
「来週末にある遠足の予定を決めます」
遠足。その単語が出た瞬間、教室の空気がぱっと明るくなった。あちこちで小声の「マジ?」「どこ?」が飛び交う。
「行き先は——月銀鉱山博物館です」
博物館。名前を聞いて、教室は微妙な反応になった。「えー博物館?」「もっとこう遊園地とか」「俺5回目とかだわ」。まあ、渋い行き先だ。町の博物館だから行ったことあるやつもいるだろう。僕はないけど。
くい、と袖を引かれた。
隣。銀華が僕の制服の袖口を、指二本で摘んでいた。顔は前を向いたまま。担任の話を聞いているふりをしながら、でも目はまっすぐ僕の方を見ている。
「透」
囁くような声。ほとんど唇だけの音量。
「はくぶつかん」
瞳が光っていた。知らない言葉に出会ったときの銀華の目だ。国語の教科書で面白い表現を見つけたときと同じ——純粋な好奇心で満ちた輝き。
「博物館は……昔の大事なものを集めて、飾ってある場所。鉱山のやつだから、たぶん石とか道具とかが並んでるんだと思う」
「大事なものを……飾る」
銀華が小さく復唱した。洞窟の隅に駄菓子の袋を並べている銀華の姿が、ふと脳裏をよぎった。たぶん、自分のやっていることと重ねたのだろう。目がますます輝いている。
「バスで行くから」と担任が続けた。「所要時間は片道二十分くらいですね」
くいくい。袖がまた引かれた。力が強くなっている。
「ばす、とは」
「でっかい鉄の……車。車わかるよな? 道路を走ってて、神無月先生に乗せてもらった。あれのでっかいので、三十人くらい一気に乗れる」
「三十人」
銀華の目が見開かれた。数の概念は怪しいが、「たくさん」というニュアンスは伝わったらしい。
「私もそれに乗れるのか」
声が少し大きくなった。慌てて「しっ」と制すと、銀華は口を押さえたものの、表情は隠しきれていない。目元がきらきらしている。頬がわずかに紅潮して、口角が持ち上がりかけている。
なんだろう、この——保護者が子どもの遠足にワクワクしてるのを見守る気持ちは。
担任の声が教室の空気を引き締めた。
「行動は班ごとにしてもらいます。男女別の四〜五人グループを、今日のうちに決めてください」
担任の声が教室の空気を引き締めた。
男女別。
四〜五人グループ。
今日のうちに。
三つの単語が、順番に脳に落ちてきた。
……え、男女別?
隣を見た。銀華は「だんじょべつ」と口の中で転がすように呟いている。意味を咀嚼している最中。着地の気配はない。
「男と女で分かれて班を作るってこと」
「ふむ」
「つまり、銀華は女子のグループに入って、僕は男子のグループに入る」
「ふむ」
「遠足の間、別行動になる」
「ふむ——」
三回目の「ふむ」で、銀華が僕の顔を見た。
ぽかん、としていた。
これは理解していないな、全く。
言葉としては聞こえているけれど、それが何を意味するのか、自分の身に何が起こるのか、まだピンときていない。のんきに首を傾げている。小鳥のように。
一方、僕の方は頭の中が忙しかった。
銀華と別行動。僕がついていけない。博物館という未知の場所で、銀華は女子だけのグループで行動する。僕の目が届かないところで。
誰と組むんだ。
銀華はクラスの女子と折り合いが微妙だ。名和さんと虹林さん以外、まともに会話したことすらないんじゃないか。始業式のもみ合い以降、銀華はクラスの女子に遠巻きにされている。この空気のまま、知らない女子とグループを組まされたら——。
何か変なことを聞かれたらどうする。三か条は大丈夫か。「内緒だ」でごまかせる質問ばかりじゃないだろう。また疲労が募ったら。出身地のこととか、突っ込まれたら。昼食はどうするんだ。バスの中で酔ったりしないか。いや銀華の体は人間と違うからたぶん酔わないけど、でも初めてのバスだし——。
「おい透」
後ろから声がかかった。直也が頬杖をついて、呆れた目でこっちを見ている。
「お前、どうした?」
「……何が」
「何がじゃねえよ。顔。すっげえ顔してるぞ今」
直也が人差し指で自分の眉間を指した。しかめっ面の真似。
「そんな嫌なの博物館。でもお前なら確かに山登りのほうがいいよな」
「……は?」
「だからって、そんなに顔しかめるなよ。ただの遠足だろ」
「いや——そ、そうなんだよ。遠足って言ったら山の展望台まで行くほうが楽しいよな」
否定しかけて、口をつぐんだ。直也が変な勘違いしているから乗っかろうと思う。
でも本当は違う。僕が不安なのは、銀華が女子だけのグループに放り込まれることだ。遠足の間、僕の目が届かなくなること。
――親かな。
気持ちが完全に親だった。
初めての遠足に送り出すのが不安で仕方ない、過保護そのものだった。
「まあ、俺と透と慧士で三人、あと二人くらい適当に声かければいいだろ。博物館も回ってりゃそれなりに面白いって」
「……うん」
僕が生返事をしている間に、教室の空気が動き始めた。
グループ分けの時間。
女子たちがわーっと席を立ち始めた。あちこちで「一緒の班にしよう」「何人?」「四人でいい?」と声が飛び交う。さっきまで静かだった教室が、一気に喧噪で包まれる。
銀華は座っていた。
周りの女子が立ち上がって集まっていくのを、自分の席からぼんやり眺めている。何をすればいいのかわからない、という顔。「グループを作れ」と言われても、銀華にはその手順がわからないからなあ。誰かに声をかけるのか、待っていればいいのか、そもそも何のための行動なのか、たぶん半分も飲み込めていない。
僕から頼み込むか。
名和さんのところに行って、銀華をお願いしますって。
——いや、過保護すぎる。いくらなんでもやりすぎだ。でも。でも、あの銀華を一人で放っておけるわけがない。
覚悟を決めかけた、そのときだった。
「銀華ちゃん!」
教室の向こう側から、明るい声がまっすぐ飛んできた。
名和さんだった。後ろに虹林さんと——もう二人。
名和さんが銀華の机の前までつかつかと歩いてきた。長い髪が揺れて、制服の袖を捲った腕が銀華の机にぽんと置かれる。
「ねえ銀華ちゃん、あたしたちと一緒に回ろうよ!」
にかっ、と歯を見せて笑った。虹林さんがその横で小さく頷いている。後ろの二人も、緊張した顔ながらこちらを見ていた。
銀華が目を瞬いた。
「……澄香」
「そ! あたしとあおいと、あと由紀ちゃんとまりなちゃん。五人でちょうどいい感じ!」
名和さんが後ろの二人を手で示した。ショートカットの子が小さく手を振り、ポニーテールの子がぺこりと頭を下げた。
銀華はしばらく四人の顔を順番に見つめてから、ふいに僕の方を向いた。
「透はどうするのだ?」
聞かれると思った。
名和さんが答えた。僕より先に。
「男子は男子で組むんだよ。旭日くんは高坂くんたちと一緒でしょ?」
「そうなのか」
銀華が僕を見た。僕は頷いた。
「うん。男子は男子、女子は女子。それがルール」
「ふむ」
銀華は二秒ほど考えて——あっさり頷いた。
「わかった」
それだけだった。
銀華は振り返って名和さんの方を向き、「よろしく頼む、澄香」と言った。名和さんが「やったあ!」と声を上げた。虹林さんが「じゃあ班長とか決めようか」とメモ帳を取り出した。後ろの二人が少し緊張を解いて、おずおずと銀華の机の周りに集まった。
あっけなかった。
拍子抜けするほど、あっけなく、銀華は女子グループの輪に収まった。
名和さんが何か説明している。虹林さんがメモを書いている。銀華はときどき首を傾げながらも、素直に頷いている。ショートカットの子が銀華に何か話しかけて、銀華が短く答えた。ポニーテールの子が笑った。小さな笑い声が聞こえた。
……よかった。
胸を撫で下ろした。大げさじゃなく、本当に息が楽になった。
「博物館、そんなに嫌だったのかよ」
僕の安堵のため息を聞きつけたのか、後ろから直也が呆れたような声を出した。
「うるさい」
直也がけらけら笑った。慧士が隣で静かにこっちを見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
男子のグループはすんなり決まった。僕と直也と慧士の三人に、近くにいた男子二人が加わって五人組。特にドラマもなく、五分で完了。
ホームルームが終わって、二時間目が始まる。席に戻った銀華は、いつもと変わらない涼しい顔で教科書を開いていた。何事もなかったかのように、外国語の授業に集中している。
名和さんたちとの会話を、もう消化し終えたらしい。切り替えが早い。いや、そもそも銀華にとっては大したことじゃなかったのかもしれない。
僕だけが大騒ぎしていた。
◇
放課後。
今日もまた、いつも通り僕と銀華の二人だけの下校になった。
いきさつは……もう何も言うまい。
四月の空は高くて、薄い雲がゆっくり流れている。商店街を抜けて、住宅街の坂道を下る。昨日のルートとほぼ同じ。昨日はこのあたりで猫が来た。今日は来ない。銀華がちらちらと路地裏を覗いていたけれど、猫の姿は見えなかった。
「猫は気分屋だから。明日はいるかもしれない」
「……うん」
銀華の返事が、少しだけ遅かった。
なんとなく、歩くペースがゆっくりだった。いつもの銀華は僕と同じ歩幅で、ぴったり並んで歩く。それが今日は、半歩ぶん後ろにいる。
振り返ると、銀華は前を見ていなかった。視線がどこか遠い。地面でもなく、空でもなく、何か自分の中にあるものを見つめているような目。
「銀華?」
「……透」
銀華が歩みを緩めた。
立ち止まりはしなかった。でも足取りが重くなった。重いというか、ゆっくりになった。考えながら歩いている、そんな感じ。
「透と一緒に行けないのか」
ぽつりと、こぼれるように。
声が小さかった。朝、袖を引いて「博物館とは何だ」と聞いたときの弾んだ声とは、ぜんぜん違う。
僕は足を止めた。
朝の時点では、銀華はグループ分けの意味をよくわかっていなかった。「男女別」という言葉を聞いても、ぽかんとしていた。名和さんに「男子は男子で組むんだよ」と言われて、「そうなのか」とあっさり頷いた。
今は違うみたいだ。
一日かけて——授業を受けながら、昼を過ごしながら、少しずつ理解が追いついたのだろう。遠足の日、バスに乗って、博物館に行って、班ごとに行動する。その間ずっと、透が隣にいない。
そのことの意味が、今になってようやく銀華の中に落ちてきたらしい。
「ルールなんだ」
声が上擦らないように気をつけた。
「グループ行動ってやつ。男子と女子で分けるのは、まあ、学校ではよくあることで」
「……」
「でも、僕も博物館には行くから。名和さんたちはすごくいい子だし。虹林さんも真面目だし、今日の他の二人も優しそうだったし。絶対に楽しいよ」
必死だった。
自分でもわかるくらい、必死に言葉を並べていた。大丈夫だよ、楽しいよ、心配いらないよ。
「ああ」
銀華が短く答えた。
頷いたように見えた。でも、その表情がよくわからなかった。
不満、ではない気がする。怒っているわけでもない。かといって納得したのかといえば、それも違う。もっとぼんやりした——まだ自分でも何を感じているのか整理できていないような、そういう顔。
銀華はまた歩き出した。僕も隣に並ぶ。
坂道を下る二人の影が、夕方の低い光に長く伸びていた。
胸の奥に、妙なものが渦巻いている。
銀華に泣きつかれたいような気がする自分がいた。「行きたくない」とか「透と一緒がいい」とか、そういうことを言ってほしいと思っている自分。それは僕のエゴだ。わかっている。
同時に、早く同性の友達と仲良くなってほしいとも思っている。名和さんたちと笑い合って、僕がいなくても楽しく過ごせるようになってほしい。それが銀華のためだ。それもわかっている。
二つの気持ちが矛盾しているのも、わかっている。
結局、今回も僕だけが空回りしている気がする。
何かを考えている。何かを感じている。でもそれが何なのか、僕にはわからない。銀華自身にもたぶん、まだわかっていない。
マンションの前に着いた。銀華がオートロックの暗証番号を押す。ぴ、ぴ、ぴ、ぴ。四つの電子音。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
銀華が振り返った。いつもの涼しい顔。でもほんの少しだけ——ほんの少しだけ、目の奥にさっきの色が残っていた。読めない色。名前のつかない何か。
ガラスの扉が閉まった。銀華の銀色の髪が、エントランスの向こうに消えていく。
僕はしばらくその場に立っていた。
過保護。
うるさい。わかってる。
夕焼けが沈みかけた空を見上げて、僕は息を吐いた。長い、長い息。吐き終わっても胸のざわつきは消えなくて、結局そのまま坂道を引き返した。
一人で歩く帰り道が、いつもより長く感じた。




