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山奥の衛星写真に映った『謎の未確認生物』 実は美少女になれる銀竜だと、僕だけが知っている。  作者: 亜麻野


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第33話:銀華とふれあう猫

 昨日の反省を踏まえて、今日こそ適度な距離を保とうと決めていた。


 火曜日の朝。普段通りマンションのエントランスで銀華を拾って、並んで通学路を歩いている。


 昨日、中庭のベンチで肩にもたれかかられた件が脳裏にこびりついている。あれは後から確認したら教室の窓から丸見えだった。今日こそ。今日こそ僕は銀華との距離を──。


 半歩、右に寄った。


 銀華が半歩、左に詰めた。


 何も言わず、何の躊躇もなく、当たり前のように隙間を埋めてくる。僕が開けた分だけ、ちょうどぴったり。


「…………」


 もう一歩寄ったら車道にはみ出る。


 やめた。三秒で諦めた。


 銀華は涼しい顔で前を向いている。制服のスカートが歩くたびに揺れて、銀色の髪が朝の光を弾いている。本人にとっては「いつもの距離」でしかないのだ。悪意も好意もなく、ただこの間隔がちょうどいいと体が勝手に決めている。


 ふと、銀華が急に立ち止まった。


「どうしたの」


 声をかけたけど返事がない。銀華の視線はこっちじゃなくて、道の脇にある細い路地に向いていた。


 その路地の入り口──ブロック塀と古い自販機のあいだに、猫がいた。


 キジトラの猫。片耳の先がちょっと欠けていて、見覚えがある。このあたりでたまに見かける野良猫。僕が近づこうとすると、いつもするっと塀の裏に逃げられる。


 今日も逃げるだろうと思っていた。


 のそりと、猫がこちらに歩いてきた。


「……え」


 僕は思わず足を止めた。


 猫は真っ直ぐに歩いてきた。僕の方ではなく、銀華の方に。尻尾を立てて、ゆったりとした足取りで、迷いのない進路。まるで顔なじみのところに行くみたいに、まっすぐに。


 銀華の足元まで来た猫は、ぐるりと体をくねらせて、彼女のふくらはぎにすりっと体を擦りつけた。


「……あ」


 銀華の声が漏れた。


 小さな声だった。驚きというよりも、何か予期していなかったものに触れてしまったときの音。


 銀華がしゃがみ込んだ。スカートの裾が地面にかすかに触れるのも構わず、膝を折って、猫と同じ高さになる。


 猫はもう一度、銀華の膝にぐりぐりと頭を押し付けた。目を細めている。喉の奥からごろごろという低い振動が聞こえてきた。


「猫」


 銀華が呟いた。


 手を伸ばして、猫の背中にそっと触れた。指が毛並みの上をゆっくり滑っていく。猫はされるがままに、ぐにゃりと体を傾けて銀華の手のひらに重みを預けた。


「……動画の中とは、違うのだな」


 その声が、妙に静かだった。


 春休み、洞窟で見せた猫の動画。銀華はあのとき画面越しの猫に釘付けになって、何度も繰り返し見ていた。動画の中で丸まる猫をまじまじと。


 でも今は、銀華の手のひらの下で猫が伸びをしている。体温が、毛の柔らかさが、呼吸するたびに膨らむ肋骨の感触が、画面の向こうにはなかったもの。


「温かくて、動くのだな。当たり前のことだが──画面の中では、わからなかった」


 銀華が猫の耳の後ろを指でかいた。猫が首をぐいっと伸ばして、もっとそこをやれと言わんばかりに頭を押しつける。銀華の口の端が、ほんの少しだけ上がった。


 あの銀華が。動物に触れて、笑っている。


「銀華、学校」


「──うん」


 返事はしたけど、銀華の手は猫の上から離れなかった。指先が名残惜しそうに毛並みをなぞっている。


「遅刻するよ」


「……もう少し」


 こういうとき銀華は動かない。


 猫は銀華の膝の上に前足を乗せて、ごろごろと喉を鳴らし続けている。尻尾がゆらゆら揺れて、銀華のスカートに触れるたび、ぱたぱたと布が跳ねた。


 ちょっと羨ましくなって、僕も横にしゃがんだ。猫の方に手を伸ばしてみる。


 猫がちらりとこっちを見て──そのまま銀華の膝に顔を戻した。


 無視された。


「……」


「透は好かれなかったな」


「うるさい」


 銀華がわずかに目を細めた。笑っていやがる。ちくしょう。


 結局、僕が二回目の「遅刻する」を言ったところで、銀華はようやく立ち上がった。猫が名残惜しそうに一声鳴いて、でも追いかけてはこなかった。ブロック塀の上にぴょんと跳び乗って、丸くなる。


 銀華は歩き出してから、一度だけ振り返った。


  ◇


 授業は、つつがなく過ぎた。


 銀華はいつも通り。国語の時間は教科書を熱心に読み、数学の時間は虚空を見つめていた。昼休みは名和さん達含めて、六人でいつもの机を囲んで食べた。銀華が今日買ったのはカンパーニュとカレーパンで、カレーパンの油っぽさに驚いた銀華が「パンの中に煮物を入れてさらに手間があるのか。執念だ」と評して、名和さんが吹き出していた。


 こうやって他の人と当たり前に昼を過ごしている銀華を見ると、少し慣れてきたのかもしれないと思う。虹林さんが数学の小テストの話を振ったときだけは顔が曇ったけど、それもまた人間っぽくて悪くない。


 放課後になった。


 直也が「今日は旅館の手伝い」と帰り、慧士は「猫に飯やる」と帰り、名和さんは虹林さんと帰った。


 残ったのは僕と銀華だけ。


 ……また二人にされているのでは。


 いや、今回はたぶん偶然だ。みんなそれぞれ用事がある。疑いすぎるのもよくない。


 けど結果は同じだった。


 昇降口を出て、校門をくぐって、二人で並んで歩き始める。四月の夕方はまだ明るくて、空が白っぽいオレンジ色に染まりかけている。風が吹くと、もう散ってしまった桜の代わりに、植え込みの新緑の匂いがした。


「銀華、朝の猫のこと、まだ考えてる?」


「……なぜわかるのだ」


 図星だったらしい。銀華が少し目を見開いた。


「顔に出てた。授業中もちらちら、窓の外見てたし」


「猫がいないか確認したかった」


「校舎の二階から路地裏は見えないよ」


「…………」


 銀華が口を閉じた。反論を探しているようだったけど、見つからなかったらしくそのまま歩き続ける。


 坂道を下って、商店街の手前の交差点を曲がったところだった。


 にゃあ。


 声がした。


 路地の角から、キジトラの猫が駆け寄ってきた。朝の猫だ。片耳の先が欠けている。間違いない。


「──お前」


 銀華が立ち止まった。猫はためらいもなく駆け寄ってきて、銀華の足元でごろんと転がった。腹を見せている。


「また来たのか」


 しゃがみ込んだ銀華の手が、猫の腹に触れた。猫が目を閉じて、四本の足をだらりと伸ばす。完全に無防備。野良猫が初対面に近い相手にここまで気を許すなんて。羨ましい。


 でも銀華は気にしていなかった。指先で猫の腹をそっと撫でながら、穏やかな目をしている。


 猫はひとしきり甘えると、やがてむくりと起き上がって、来たときと同じように軽い足取りで路地の奥に消えていった。尻尾がぴんと立って、満足そうだった。


 銀華が立ち上がって、歩き始める。


 次に来たのは、スズメだった。


 電線に並んでいた五、六羽のスズメが、ばさばさと一斉に降りてきた。路上に降りたスズメは銀華の足元をちょんちょんと跳ね回って、何かを啄むふりをしながら離れない。


「……銀華」


「なんだ、透」


「スズメが来てる」


「スズメというのか、この小さな者は」


 銀華は歩みを緩めた。スズメたちは銀華が動くと散って、止まるとまた近づいてくる。小さな茶色の塊がぴょんぴょんと跳ねる様子を、銀華は足元を見下ろしてじっと観察していた。


「小さいな」


「スズメだからね」


「猫より、もっと小さい。壊れそうだ」


 銀華が指を伸ばしかけて──スズメたちがばさっと飛んだ。電線に戻って、ちゅんちゅんと鳴いている。銀華が少し残念そうに手を引いた。


「逃げたな」


「スズメは猫より警戒心が強いから」


「さっきまでは近くにいたのだが」


 それもそうだ。普通、スズメは人間のこの距離までは来ない。


 スズメが去ると、今度は散歩中の飼い犬だった。


 向こう側の歩道を歩いていた柴犬が、飼い主のリードをぐいぐい引っ張って、横断歩道もないのにこちら側に渡ってきた。飼い主が「おい、こら」と慌てている。


 柴犬は銀華の前で座り込んで、尻尾をぶんぶん振った。舌を出して、はあはあと息をしながら銀華を見上げている。


「すみません、急にこっちに来ちゃって」


 追いついた飼い主が申し訳なさそうに頭を下げた。銀華はしゃがんで柴犬の頭を撫でた。柴犬が嬉しそうに体をくねらせて、銀華の手のひらにぐいぐいと頭を押しつけた。


「いい子だ」


 銀華が呟いた。飼い主が「珍しいな、この子人見知りなのに」と苦笑しながらリードを引いた。柴犬は名残惜しそうに振り返りながら、飼い主に引かれて去っていった。


 猫、スズメ、犬。


 全部、銀華のところに来た。


 偶然と言うには、ちょっと出来すぎている。


 僕は隣を歩く銀華の横顔を見た。銀華は動物が去ったあとも、自分の手のひらを見つめていた。猫の毛の感触がまだ残っているのかもしれない。


「銀華」


「うん」


「動物、銀華のとこに来すぎじゃない?」


 銀華が少し考え込んだ。視線が宙を彷徨って、何かを辿るように遠くを見る。


「……そういえば」


 ぽつりと、銀華が言った。


「小さなころ──ずっと昔のことだ。森で寝ていたら、周りに皆が集まっていたことがあった」


 初めて聞く話だった。


 銀華が自分から「昔」のことを語るのは珍しい。過去の記憶はほとんど覚えてないと言っていたのに、それでも断片的に残っているものがあるのだろう。


「獣たち。みんな眠っていた。私の周りで、丸くなって」


「銀華の周りで?」


「うん。今思えば不思議だ。あの頃は何も知らなかったから、不思議とも思わなかったけれど」


 銀華が足を止めた。


「あの感じと、似ている」


 僕は考えた。


 精霊。銀華は精霊だ。洞窟に流れる力を糧にして、数千年を生きてきた存在。


 神無月先生は、精霊とは人にはわからない力を蓄えていると言っていた。精霊には人間には見えない何かがあるのだと、僕はぼんやりと理解している。


 もしかすると──精霊の機嫌が良いと、周りの動物は引き寄せられるのかもしれない。


 穏やかで、力が満ちている存在。そういうものの傍にいると、動物は安心する。人間みたいに頭で考えるんじゃなくて、もっと本能的な部分で。


 怖い、とは思わなかった。


 むしろ面白くて──少し温かくて──なんだか銀華らしいと思った。


 竜なのに、周りに動物が集まる。戦ったり威嚇したりするんじゃなくて、ただそこにいるだけで、小さな命が寄ってくる。

 

「いい性質だな、それ」


「性質?」


「銀華といると動物が安心するってことでしょ。すごいじゃん」


 銀華がきょとんとした顔をした。褒められると思っていなかったらしい。


「……そうか。良いことなのか」


「良いことだよ」


 坂を下りきって、住宅街に入った。西の空が茜色に染まっている。


 並んで歩きながら、銀華が不意に口を開いた。


「動画の時と違って、実物はもっと温かいのだな」


 静かな声だった。


「動画の猫は何度見ても同じだった。でも今日の猫は、私が触ったら目を閉じた。お腹を見せた。それは──画面の中にはなかったものだ」


 銀華の横顔が、夕日の光を受けていた。


 銀色の髪がオレンジ色に透けて、睫毛の先に小さな光が宿っている。いつもは涼しげな瞳が少し伏せられて、手のひらの記憶を反芻しているような表情。


 何だろう、これ。


 ただ、目が離せなかった。


「透?」


 銀華がこちらを向いた。夕日を背負った顔が、不思議そうに僕を見ている。


「どうしたのだ。顔が変だぞ」


「変じゃない」


「変だ。目がぼうっとしていた」


「してない」


 前を向いた。早足になった。銀華が隣で合わせるように歩調を上げる。


 自分の顔が見えなくてよかった。


 銀華は機嫌がいい。朝から──いや、猫に触れてからずっとだ。今日の銀華は終始穏やかで、授業中の虚無顔すらどこか柔らかかった。動物に触れて、温もりを知って、昔のことを思い出して。それで満たされているのだ、きっと。


 その機嫌の良さが動物を引き寄せて、動物がまた銀華を笑わせて、その循環が回っている。


「明日もあの猫、いるかな」


 銀華がぽつりと言った。


 こちらを見ていなかった。前を向いて、いつもより少しだけ歩幅が小さくて、ゆっくり歩いている。急いで帰る気がないのだと、その足取りでわかった。


「もしかしたら、銀華を待ってるかも」


「そうか」


 銀華の声が、かすかに弾んだ。


 僕はそれに気づいて、何も言わなかった。


 距離が近い。肩がたまに触れる。今日は注意しなかった。昨日あれだけ「距離を開けて」と言ったのに、今日は何も言えなかった。


 別にいいか、と思ってしまった。


 夕焼けの道を、二人で歩いた。

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