第32話:銀華と遠巻きのクラスメイト
お弁当の蓋を開けたら、今日のおかずは卵焼きとウインナーとミニトマトだった。引っ越し前からずっと変わらないラインナップ。お母さんの手抜きと言えば手抜きだけど、彩りだけは地味にいいから文句は言えない。
「澄香ちゃん、それ美味しそー」
隣に座った女の子がお弁当を覗き込んできた。今日の体育で隣だった子。
月曜の昼休み。教室の窓際で四つの机を寄せ合って、お弁当を広げている。今まではいつも透くんたちのグループに混ざっていたけど、今日は体育のあとに「一緒に食べよう」と誘ってもらったので、こっちに来た。あおいちゃんもいっしょだ。おさげを揺らしながら、きちんと蓋を裏返して並べている。几帳面。
和やかだった。みんな他愛ない話をしていた。体育が意外ときつかった話、次の時間の古典は毎回小テストがあるらしい話。先週は銀華ちゃんの近くに寄ってばかりで、周りの女子とは若干の距離を感じていたから、こういう輪に入れてもらえるのは素直に嬉しい。
「ねえ、名和さん」
斜め前の女の子が、卵焼きを箸で摘まんだまま目を向けてきた。
「名和さんって、岩見さんと仲いいんでしょ? 実際どうなの、あの子」
空気がほんの少し変わった。急に変わったわけじゃない。話題が切り替わるときに生まれる、あの小さな間。好奇心と、ちょっとの遠慮がある目があたしに集中している。
「どうって?」
「いや、すごいじゃん。いろいろ」
「ちょっと綺麗すぎて話しかけるの、普通に勇気いるよね」
「あとなんか、喋り方ちょっと怖くない? 怖いっていうか固い? なんかこう……」
「武士みたいな」
「それ! 武士!」
ぶわっと話が広がった。お弁当をつつきながら、でも箸の動きは鈍くなっている。みんな、この話がしたかったんだと思う。
「話したい気持ちはあるんだけど、いつもあの──旭日くんがべったりじゃん。やっぱり彼氏?」
「違うっぽいけど」
「いやいや、絶対そうだって。教室で抱きついてたし」
うーん、あの日のことはあたしも見てるけど、解釈がちょっと違った。たぶん銀華ちゃんが疲弊して、透くんを頼ったのだと思う。でも本当のところは当人にしかわからないわけで。
「幼馴染らしいよ、一応。旭日くんがそう言ってた」
フォローしてみたものの、反応はいまいちだった。
「ええー、あれで?」
「ねえ」
「あおいちゃんはどう思う?」
話を振られたあおいちゃんが、ぱちりと瞬きした。おさげの先を指でくるくる巻きながら、少し考える素振りを見せてから口を開いた。
「うーん……確かに幼馴染っぽくはないかな」
「ぽくない?」
「そもそも私たち、小中高全部同じで保育園からずっと一緒なんて子も多いから、距離が近いといえば近いけど、あの二人みたいな──なんていうか、お互いだけを見てるみたいな空気は普通出ない、かなあ」
ほへー、そういうものなんだ。
あたしには、「保育園からずっと一緒」という交友感覚がよくわからない。学校が変わるたび、クラスが変わるたびに人もがらりと変わるから。
幼馴染って聞くとドラマチックなものを想像してしまう。少女漫画みたいなやつ。
「てかそれ以前に」
別の女の子が口を挟んだ。
「正面で見たら綺麗すぎて無理だった。隣に立ったら自分がおまけみたいになりそう」
「わかるー……」
「一緒の教室にいると、なんか自分の肌荒れとかが三割増しに気になる」
笑い混じりの自虐が飛び交う。あぁ、こういうことか、と思った。
嫌っているわけじゃなくて興味はある。だけど近づけない。「固い喋り方」と「彼氏っぽいのが常にセット」が加わって、とっかかりが消えてる。
結果として、一歩目を踏み出せないまま、遠巻きになる。
もったいないな、と思った。
「ちょっと──だいぶ変わってるけど、面白い子だよ」
私がそう言うと、全員の箸が止まった。
「面白い?」
「うん。数学が壊滅的にできないのに、難しい漢字は一瞬で覚えたりとか。ドヤ顔で『わからないものはわからない』って宣言したりとか。話してみると、すごく真っ直ぐで」
銀華ちゃんのことを言葉にするのは難しい。綺麗で、不思議で、謎に隙だらけで、硬い喋り方なのに何故かかわいい。
「変わってるけど、なんだろう──天然? じゃなくてもっとこう……根本から違う感じ」
「根本から」
「うまく言えないけど」
あおいちゃんが小さく頷いた。勉強会のときの銀華ちゃんを思い出しているのかもしれない。
「悪い子じゃなさそうだけど」
「でもなぁ」
「きっかけがね」
まだ躊躇の色が残っている。でも、さっきまでの「そもそも話題に出していいのかどうか」みたいな空気よりはだいぶ柔らかくなった。小さな一歩。
「機会があったら、誘ってみよっか。お昼とか」
あたしがそう提案すると、何人かがちらっと顔を見合わせて──「名和さんがいるなら」と、一人がぼそっと言った。
それでいい。最初の一回さえあれば、あとは銀華ちゃんの人柄が勝手に伝わると思う。少なくとも、あたしはそう信じている。
ほっとして、お弁当に手を伸ばしたときだった。
ふと、窓の外に目がいった。
中庭。植え込みの向こうに木製のベンチが二つ並んでいて、その片方に二人分の影が見えた。
旭日くんと、銀華ちゃん。
二人きりで、ベンチに座っている。
──うわー、ちっか。
近いなんてもんじゃない。銀華ちゃんが透くんの肩にほとんどくっつくようにして座っていて、透くんの方に体を預けるように傾いている。
透くんは横を向いて何か言っているけど、銀華ちゃんは微動だにしない。あの凛とした横顔のまま、当然のように密着していた。
幼馴染。
さっき自分でフォローした言葉が、脳の中でどこかへ飛んでいった。
「あー……」
思わず声が出た。隣の子も窓の外を見て、同じタイミングで固まっている。
「……あれはあたしでも入れないな」
さっきの「誘ってみよっか」が、煙みたいに薄くなった気がした。
◇
なんだか意図的に二人にされた気がするのは、気のせいだろうか。
月曜日の昼休み。外のベンチに座って弁当の包みを開けながら、僕は周りを見渡した。
名和さんが今日は違うグループの女子たちと教室で食べているらしく、虹林さんもそっちにいる。で、「慧士ぃー、購買行くかー」と直也が言い出して、慧士も「行くかー」と続いて、二人は足早にどこかへ消えた。
残されたのは僕と銀華だけ。
気のせいじゃないな、これ。
といういきさつがあって、教室で食べるのもアレなので外に出た。
外は気持ちよかった。桜はもうほとんど散っていて、地面に薄桃色の花びらが張り付いている。どこかの教室から吹奏楽部の昼練が聞こえる。曲は分からないけど、金管楽器の音が青空に合う。
「弁当」
銀華がこちらの弁当を覗き込んできた。
「おばあちゃんの筑前煮と、鮭の塩焼き」
銀華の手元には、見慣れた袋に入ったパンが二つ。白くてもちもち白銀パンの派生と、明太フランス。たぶん固い。
パンを一口食べた銀華が、ふうっと息をついた。何の変哲もない顔だけど、どこかくつろいだ様子が漂っている。土曜日に洞窟でストレスを発散したこともあるのだろう。今日の銀華は朝から機嫌がよかった。
その銀華が、不意にすっと体を寄せてきた。
肩と肩がくっついた。
──いや、肩どころじゃない。腕全体が密着している。マンションのソファに座ったときの距離感そのままで、学校の中庭のベンチにその距離をそのまま持ち込んできている。
「……銀華」
「なんだ」
「近い」
「そうか?」
近い。どう考えても近い。
銀華は僕の方をちらりとも見ない。密着していることに対して何の疑問もないという態度。まるで「こうするもの」と決めているみたいだった。
周りに人がいないとはいえ、中庭に面した教室の窓からは丸見えだ。さっき名和さんたちがいた教室の窓がちょうど──あ、見える。窓際の方がこっちを見ている気がする。
「銀華、ひっつきすぎ。学校ではもうちょっと距離開けて」
声を落として言った。銀華はおにぎりを飲み込んで、こちらを見上げた。近い。顔が近い。
「なぜだ」
「なぜって……」
「前と同じだ。マンションでは何も言わなかったのに」
そりゃそうだろ。
マンションで何も言わないのは。
二人きりの室内だから。
「ここは学校だから」
「学校だとくっついてはいけないのか」
「いけない……というか、見られるでしょ。周りの目がある」
「人に見られると、何が問題なのだ」
堂々としすぎている。銀華の顔にはからかいの色なんて欠片もなくて、本気で理由がわからないという目をしている。
「恋人に見られるんだよ」
言ってから、自分の耳が熱くなるのがわかった。何を言ってるんだ僕は。
「恋人」
「うん」
「それはいけないのか」
涼しい顔で返された。
肩にかかる銀色の髪が、風に揺れている。長いまつげが伏せられて、手の中のパンに視線が戻る。何でもないことを聞いたみたいな空気。
いけないのか、と返されると──何と答えたらいいのか分からなくなる。
銀華はもう一個のパンを食べだした。明太フランスにがりっと歯を立てる。その横顔は落ち着いていて、僕の焦りが馬鹿みたいに思える。
「……銀華」
「うん」
「それ本気で言ってる?」
「何がだ」
「恋人に見られてもいいって」
銀華がパンを握ったまま、こちらを見た。まっすぐな瞳。
「私はいい」
──え。
手が止まった。箸を持ったまま、銀華の横顔を見た。
銀華はこちらを見ていなかった。パンをかじりながら、中庭の花壇に目を向けている。
いい、って。
恋人に見られても、いい?
心臓が変な跳ね方をした。耳の奥で血が巡る音がする。
「──いいの、銀華」
「うん?」
銀華がようやくこちらを向いた。あれ、不思議そうな顔してる。何をそんなに慌てているのだ、と言いたげな。
「恋人というのは、仲の良い男女のことだろう。構わない」
あ。
あぁ、なるほど。
力が抜けた。力が抜けて、同時にどっと恥ずかしさが押し寄せてきた。
銀華の「恋人」の定義が、根本からズレているんだ。少女漫画か国語辞典か、銀華の中では「恋人=仲が良い男女の呼称」くらいの解像度でしかない。だから「恋人に見られるよ」と言われても、「仲良しだと思われるのか。事実だから問題ない」くらいの受け取り方になる。
銀華は食べ終わったパンの袋を丁寧に畳みながら、不意に体を傾けた。
頭が僕の肩にちょこんと乗った。
「な──」
「今日はぽかぽかだ」
日差しの話をしている。銀華にとってはそれだけのことで、肩に頭を乗せたのは「近くにいて居心地がいいから」以上の理由がたぶんない。
マンションのソファと、学校の中庭のベンチの区別がついていない。
今まさに、教室の窓からこっちを見ている視線があるかもしれないのに。先週の抱き着き事件がまだ記憶に新しいのに。
「…………」
僕は銀華の頭を押し返す気力がなかった。
ていうか、できなかった。
銀華の髪がさらりと肩を流れる。匂いはほぼない。うっすらと金属みたいな匂いがして、人でも動物でもないことを知らせてくる。
学校生活の常識。距離感。恋人という言葉の重み。
教えなきゃいけないことが山ほどある。
今教えたら、銀華はたぶん「わかった」と言って素直に離れる。そしたら僕は──正直に言えば、ちょっとだけ、寂しい。
いやいやいや。
何を考えてるんだ。
弁当のおかずを口に詰め込んで、筑前煮の味が全然しなかった。
「……銀華」
「なんだ」
「次からは、もうちょっと離れて座ろう」
「なぜだ」
前途多難だった。
竜に「距離感」を教える方法を、僕はまだ知らない。




