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山奥の衛星写真に映った『謎の未確認生物』 実は美少女になれる銀竜だと、僕だけが知っている。  作者: 亜麻野


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第29話:銀華と情熱

 日が暮れた部屋の中で、スマホの画面が白く光っていた。


 ソファに二人で並んで座っている。銀華は膝を揃えて僕の隣に収まっていて、肩と肩のあいだは拳ひとつ分もない。スマホを二人の膝のあたりに横向きで置くと、小さな画面の中に、コートを走り回る選手たちの姿が映った。


 ホイッスルの音。歓声。動画のスピーカーから漏れる、圧縮されたざわめき。


「これがバスケ」


 僕は画面を指差した。


「あのリングにボールを入れるんだ。高いところにあるやつ。あれがゴール」


 銀華の目が画面に吸い寄せられた。選手がドリブルでディフェンスを抜いて、レイアップシュートを決めた。観客がどっと沸く。


「入った」


「うん。入った。あれで得点になる」


「得点」


「点数。入れた回数が多いほうの集団──チームが勝つ」


 銀華は画面を注視していた。選手の動きを追う目が、真剣だった。瞬きの回数が減っている。集中するとこうなるのだ。洞窟で漫画を読むときも同じだった。


「これは、スポーツだと言ったな」


「うん」


「スポーツというのが、まず、よくわからない」


「ああ、まあ……銀華には『遊び』って言ったほうが伝わるかな」


 遊び。


 その言葉を口の中で転がすように反復した。


「あそび」


「うん、遊び。勝ったら楽しい、負けたら悔しいけど次は勝ちたいって思う。そういう──娯楽っていうのかな」


 娯楽という言葉なら前も使ったから、わかるはずだ。銀華は少し首を傾げてから、「ごらく」と呟いた。


「だが」


 銀華が画面に目を戻した。ちょうどスリーポイントシュートの場面だった。選手が長い距離からボールを放つ。きれいな放物線。ネットを揺らす音。会場が爆発したような歓声に包まれる。


「これは遊びではないのではないか」


「え?」


「皆、本気でやっているように見える」


 透き通った目がこちらに向いた。


「表情を見ればわかる。体の使い方も無駄がない。全力だ。今日、校庭で見た動きとはすべてが違う」


 今日。校庭で、スポーツテストをしていた生徒たちのことだろう。退屈の中、銀華はちゃんと観察していたのか。


「……鋭いな」


「遊びと言ったが、この者たちは遊んでいない」


 僕は少し考えた。


 確かに銀華の言うとおりだ。プロの試合は遊びとは違う。生活がかかっているし、勝敗が人生を左右することもある。でも──。


「本気で遊ぶんだ」


「本気で、遊ぶ」


「うん。その方が──情熱、っていうのかな。とにかく楽しいから」


 その根っこにあるのは、やっぱり「楽しい」なんじゃないか、と。僕は説明した。


 語彙が足りない自覚はあった。でも銀華に伝える言葉に、難しい理屈は要らない。


「好きだから全力でやる。全力でやるから楽しい。楽しいからもっと好きになる。……そうやって、続いていくんだと思う」


 銀華は黙って聞いていた。画面の中ではまだ試合が続いている。選手が転んで、すぐに起き上がって、ボールを追いかけ直す。それを見つめる銀華の横顔に、わずかに何かが揺れた。理解なのか、困惑なのか、あるいはその両方なのか、僕にはわからなかった。


「不思議だ」


 ぽつりと銀華が言った。


「必要ないことに全力を注いでいる」


「……まあ、否定はできない」


「だが、それが楽しいのだろう」


「うん」


「情熱」


 銀華はその単語を噛みしめるように、もう一度繰り返した。


「情熱」


 動画が終わった。


 最後のブザーが鳴って、勝ったチームの選手たちが抱き合う映像が流れて、画面が暗くなった。次の動画のサムネイルがずらりと並ぶ。


 僕は再生ボタンを押さなかった。銀華も何も言わなかった。


 リビングに静寂が降りた。


 さっきまで画面の中に詰まっていた歓声と熱気がすっと消えて、部屋にあるのはエアコンの低い唸りと、窓の外をときおり通り過ぎる車のエンジン音だけになった。


 さっきの神無月先生の言葉が頭をよぎった。


 銀華がソファで一度目を覚ましてから、バスケの動画を見せるまでのわずかな間。神無月先生はもう帰り支度を済ませていた。


 「銀華を守りたいんです」


 僕がそう言ったとき、神無月先生は少しだけ目を細めた。


 回答は。


 「君は今のままでいい」


 拍子抜けした。


 「それが、彼女を守ることになる」


 振り返らずにそう言って、ドアを閉めて、鍵を回す音がした。


 あの人の言葉は短い。短いくせに重い。年月の重さだろうか、それがたった一文に詰まっている。


 ──今のままでいい。


 その意味を、動画を見ているあいだ、ずっと考えていた。


 何か特別なことをしなくていい。何かに立ち向かわなくていい。そうじゃなくて、今こうしてここにいること。銀華の隣にいて、彼女が聞いてくる「これは何だ」「あれはどういう意味だ」という問いに、一つずつ自分の言葉で答えていくこと。バスケが何なのかを教えるとか、ハンバーガーを一緒に食べるとか、数学がわからなくても大丈夫だと言うとか──そういう等身大の関わりの積み重ね。


 それ自体が、銀華と外の世界を繋ぐ回路になる。僕がその回路の一部であるかぎり、銀華は一人じゃない。知らないことに押し潰される前に、僕の言葉を手がかりにできる。


 「今のままでいい」は、「何も変えるな」じゃない。「今やっていることを続けろ」だ。


 たぶん、そういうことだ。


 銀華は暗くなった画面をじっと見つめていた。


 画面の反射で、銀華自身の顔がガラスの奥にぼんやり映っている。それに気づいているのかいないのか、長い沈黙があった。


「透」


「──うん」


「外に出れば、良いことばかりだと思っていた」


 声が、静かだった。


 いつもの銀華の声だ。落ち着いていて、どこか古風で、感情の波を大きく見せない淡々とした声。でも今日は、その声の奥のほうが薄く震えている。


「実際そうだった。透の友達と話した。澄香とあおいに数学を教えてもらった。パンも、ハンバーガーも食べた。ベッドの弾力を知った。冷蔵庫から冷たい水を出した。全部──全部、良かった」


 銀華の膝を抱える腕に、わずかに力がこもった。


「だが、今日は違った」


 声が、落ちた。


「朝から、わからない言葉を浴びた。知らない人間がたくさん来て、私の名前を呼んで、答える前に次の声が被さった。体を動かすことを強いられて、なぜ動くのか理由もわからないまま周りに合わせて走った。数字はまだわからなかった。教室では──答えがなかった」


 最後のほうは、ほとんど吐息のようだった。


「これが退屈、苛立ち。そういう感情が自分に生じたのが、よくわからなかった」


 銀華がこちらを見た。


 その目を見て、息が止まった。


 いつもの銀華ではなかった。


 達観して、静かで、受け止めるような深い目。五千年を生きた精霊。


 その器の大きさ。そういうものが、今は影を潜めていた。


 代わりにあったのは、困惑だった。小さくて、脆くて、どう対処していいかわからないものを前にしたときの、戸惑い。


 年相応の女の子だった。


 今日一日のあらゆる疲労と混乱が、この静かな部屋の中でようやく顔を出したのだろう。校庭で、教室で、車の中で──ずっと表面に出さずに抱え込んでいたものが、安全な場所に帰ってきて初めてこぼれ落ちた。


「洞窟にいたころは、こういうものはなかった。──嫌だと思うことはあったが、こうじゃなかった」


 銀華にとって、負の感情は未知の領域だ。五千年の命の中で、嵐もなく、争いもなく、洞窟の静寂に包まれて過ごしてきた。退屈を感じるほど外の世界に触れたことがなかったし、苛立つほど他者に囲まれたこともなかった。


 それが、高校生活のたった数日で、初めて生じた。


 嬉しいことや楽しいことと一緒に、嫌なことも同じ速度で銀華の中に流れ込んでいる。僕はそのことに、今さら気づいた。


 何か言おうとして、口を開いた。でも適切な言葉が見つからなかった。「大丈夫」と言うのは嘘だし、「慣れるよ」と言うのは無責任だ。


 黙った僕の横で、銀華がゆっくりと顔を上げた。


「──だが」


 声が変わった。


「これもまた、外の世界なのだな」


 銀華の目が、真っ直ぐ前を向いた。


「楽しいことだけが外ではない。わからないことも、嫌なことも、全部外だ」


 膝を抱えていた腕がゆっくりと緩んだ。


「私はそれを知った。──今、知った」


 その言葉に、背筋を打たれた。


 逃げてない。


 退屈や苛立ちに蓋をしない。「やっぱり洞窟がいい」とも言わない。良くない感情が自分の中に生じたことを、嫌だと感じたことすらも、銀華はまっすぐ見つめて、自分の経験として飲み込もうとしている。


 目を逸らさない。


 それは銀華の中にある、根っこに近いもの──生物としての純粋な強さだと思った。知らないものに対して手を伸ばして、たとえそれが痛くても、掴んで自分のものにしようとする力。


 すごいな、と思った。声に出したかった。でも出したら、たぶんこの空気が壊れる。


「嫌なときは」


 代わりに出てきた言葉は。


「僕が隣にいるから」


 大したことは言えなかった。気の利いたことも、経験に裏打ちされた助言も、僕には持ち合わせがない。十五年しか生きていない男子高校生が差し出せるものなんて、これくらいだ。


 銀華は僕の顔を見た。数秒、何かを確かめるようにこちらの目を見つめてから──微かに、笑った。


 唇の端がほんの少しだけ持ち上がる、いつもより小さな笑み。

 

「……ああ」


 それだけ呟いて。


 銀華の体が、ゆっくりと傾いた。


 僕のほうへ。


 肩に、軽い重みがかかった。銀華の頭が僕の肩に触れて、銀色の髪がさらりとこぼれた。人間より少しだけ低い体温が、制服越しに伝わってくる。


 心臓がうるさかった。

 

 銀華の呼吸がゆっくりと深くなっていく。


 目を閉じている。まつげの影が頬に落ちて、室内の薄い光に照らされた横顔が、さっきまでの疲労をまだ残しながら、けれど少しだけ穏やかになっていた。


 窓の外で、遠くを走る車のエンジン音が通り過ぎた。エアコンの低い音が続いている。それ以外は何もない。


 僕は身動きを取らなかった。肩にかかった重みを崩したくなかった。


 スマホの画面には次の動画のサムネイルが並んでいるけど、もう再生する気にはならなかった。


 今のままでいい。


 今の、まま。


 銀華の寝息は、洞窟で丸まっていたころと同じ音だった。すう、はあ。すう、はあ。静かで、深くて、とても規則的な呼吸。


 僕はそっと息を吐いた。


 目を閉じて、頭の中を空にした。


 今は隣に銀華がいるから。

 

 銀華が、安心して眠っているから。

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