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山奥の衛星写真に映った『謎の未確認生物』 実は美少女になれる銀竜だと、僕だけが知っている。  作者: 亜麻野


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第28話:銀華と休息

 教室を出るとき、誰も何も言わなかった。


 銀華は僕の袖を持った。僕が歩き出すと、銀華がそのすぐ後ろについてきた。階段を降りて靴箱の前まで来ると、銀華はようやく僕の制服の袖を離した。掴まれていた箇所がくしゃりと皺になっている。


 上履きを脱ぐ。外履きに替える。それだけの動作に時間がかかった。銀華の動きはひどく緩慢だった。昨日は僕よりも手際がよかったのに、今日は上履きを靴箱の段に戻すだけで二度ほど手が滑っていた。


「銀華」


「……ん」


 名前を呼んだだけで返事をしたのが、痛々しかった。


 校舎の外に出て校門が見えてきたとき、僕は足を止めた。


 門の横に、黒い車が一台停まっていた。見覚えはない。だがフロントガラス越しに見えた運転席の人影に、僕の背筋がわずかに跳ねた。


 ドアが開いた。


「お疲れさま、二人とも」


 神無月迅。


 紺のスーツに落ち着いたネクタイ。教頭先生としての見た目は完璧なのに、その立ち姿には校舎の中で感じるものとは違う、もっと深いところから滲むような存在感がある。穏やかに笑っているし、声も柔らかい。なのに、その余裕のある佇まいの奥のほうに、あの青黒い獣の影がちらつく。


 居た。


 まるで、こうなることを知っていたかのように。


「マンションまで送るよ。乗って」


 僕は銀華を見た。銀華は神無月先生の顔を見て、一瞬だけまぶたが緩んだ。力が抜けた、というような、かすかな変化。神無月のことを信用しているのだろう。同族同士の何かが通じるのか、あるいはもっと単純に、この大人の存在が安心できるのか。


 でも僕は素直にはなれなかった。


「あの、どうしてここに」


「勘だよ」


 勘。


 この人の獣形態を見たとき、僕は恐怖に近い感覚を味わった。そして今はもっと静かな形で、同じものが喉の奥に引っかかっている。


 神無月先生の、底が見えない。

 

「……ありがとうございます」


 それだけ言って、僕は後部座席のドアを開けた。銀華を先に乗らせる。僕も続いた。


 シートに座った瞬間、銀華の体が傾いた。


 僕のほうにではなく、反対側のドアに寄りかかるように。窓ガラスに額を当てて、その姿勢のまま目を閉じた。まだ車は動いてもいないのに。


 本来なら──。


 銀華は車に乗ったことがない。初めて乗る車だ。興味深々でエンジン音に耳を傾け、意味もなく窓を開け閉めして、外の世界をずっと眺めているのだろう。


 それが今、窓に額を押し当てたまま動こうともしない。


 エンジンがかかった。低い振動がシートの下から伝わってきて、車がゆっくりと動き出す。街灯が窓の外を流れていく。銀華は目すら開けなかった。


 ラジオもなく、会話もなく、車内は静かだった。エンジン音と路面のわずかな振動だけが続く。窓の外を夕暮れの商店街が通り過ぎる。白銀ベーカリーの看板が見えて、すぐに消えた。銀華の好きなパン屋を通り過ぎても、反応しなかった。


 五分ほどで、マンションに着いた。


「銀華」


 名前を呼んだ。返事はなかった。


「銀華、着いたよ」


 肩に軽く手を置いた。銀華のまぶたが薄く開いて、焦点の合わない目がこちらを見た。寝てはいない。ただ、外界を遮断していただけだ。洞窟の沈黙の中で過ごしてきた生き物が、うるさい一日の後に選んだ逃避。


「──着いた?」


「うん。着いた。歩ける?」


「……歩く」


 言ったわりに、車を降りる動作はひどく覚束なかった。靴がアスファルトに着くまで三拍もかかって、僕は手を差し出しかけたけど、銀華は自力で立ち上がった。意地なのか、それとも「自分一人で歩くこと」への執着なのか。


 マンションのエントランス。エレベーター。三階。305号室。


 無言のまま部屋に入った。神無月先生が鍵を開けてくれた。


 玄関の灯りが点いた。一人暮らし用のワンルーム。きれいに片付いている。銀華がここに住み始めてまだ全然だからか、生活感はほとんどなかった。


 リビングのソファに向かって、銀華が歩いた。


 ──座った。


 瞬間、糸が切れた。


 座ったというより、崩れた。ソファのクッションに体が沈み込んで、そのまま横に倒れるように銀華は目を閉じた。脚がソファの上に持ち上がり、制服のスカートの裾がくしゃりと折れ曲がる。


 五秒もかからなかった。呼吸がすとんと深くなって、銀華は完全に眠りに落ちた。


 僕は立ったまま、しばらくその姿を見下ろしていた。


 銀色の髪がソファの上に広がっている。長いまつげの影が頬に落ちて、無防備な横顔がリビングの灯りに照らされている。普段の銀華は、穏やかであってもどこかに凛とした張りがあった。竜の気配、とでもいうのか。今はそれが完全に消えていて、ただの人間の女の子に見えた。


「今日は、疲れたんだろうね」


 神無月先生の低い声が、静かに落ちてきた。


 キッチンのほうへ歩いていった先生が、戸棚からグラスを二つ取り出す。冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を注いで、一つを僕の前に置いた。


「ありがとうございます」


「座りなさい。きっと、話したいことがあるんじゃないかい」


 ダイニングテーブルの椅子に座った。ソファとの距離は三メートルほどで、銀華の寝息が微かに聞こえる位置だった。神無月先生は向かいに腰を下ろし、水を一口飲んで、グラスをテーブルに置いた。


 沈黙が数秒あった。銀華の呼吸音だけが部屋に響いている。すう、はあ、とゆっくりした周期。


「──神無月先生」


 僕は先に口を開いた。開かなければ永遠にこの沈黙が続きそうだったし、何より、ずっと聞きたかったことが喉に詰まっていた。


「どうして銀華を入学させたんですか」


 言ってしまってから、思ったより声が硬いことに気づいた。責めるような響きになった。


 神無月先生は表情を変えなかった。


「彼女が望んだんだよ、と。入学式の日に伝えたよね」


「でも──」


 言葉を探す。グラスの水面が、僕の指の震えを映していた。


「銀華を守りたいのなら、洞窟にずっといたほうが安全でしょう。外に出さなければ、バレることも危険なこともない」


 ソファのほうに目を向ける。小さく丸まって眠っている銀華。教室で限界を迎えて、車の中でも耐えて、ソファに座った瞬間に崩れ落ちた銀華。


「こんなふうに、疲れたりもしなかった」


 神無月先生は水を一口だけ飲んで、グラスを置いた。


「何事にも、絶対はないよ」


 静かな声だった。感情が読めなかった。


「現に、君は洞窟を探り当てた。そして銀竜と交流を交わしている。その事実は、安全性を否定している」


 いきなり、返す言葉がなかった。


 確かにそうだ。僕が洞窟を見つけたのは偶然で、誰にも教えることはないけれど、別の人が新たにあの洞窟を発見しない保証は──銀華の存在が漏れないという保証は、最初からどこにもなかった。


「外の世界を知らないまま、人間に押し入られるほうが──私たちにとってはよっぽど危険なんだよ」


 私たち。


 その言葉をごく自然に使った。自分と銀華を同じ括りに入れる、当たり前の口調。


「旭日くん。私と銀華さんは、精霊のようなものだ」


「……精霊?」


 竜と獣。種族としては全く違うのに同族なのは少し変だとは思っていたけど、精霊って何だ。


「精霊――私たちは、人間の知らない力を糧に生きている。私はその力を嵐の夜に蓄えて『雷獣』に。銀華さんは洞窟の銀脈の中で、ゆっくりと蓄え『銀竜』になった」


 神無月先生の目がソファの銀華に向かった。


「私は、おそらく三万年を生きた」


 三万年。


 数字が、頭の中で処理を拒んだ。


「三、万」


「そう。正確には覚えていないけど、この島がまだ大陸と繋がっているころだったから、三万年以上」


 僕はテーブルの上の水を見下ろした。


 三万年。歴史の教科書の一番最初のページよりもっと前。その時間をこの人は生きてきたのか。教頭の椅子に座って、スーツを着て、生徒の名前を覚えて、車を運転している人が──三万年前から。


「銀華さんは、まだ若い」


 先生が続けた。


「出でから五千年程度。精霊の中では──君たちと同じくらいの年かな」


 五千年。


 三万年を生きた存在が「まだ若い」と評する時間。ここが国として成り立つよりもずっと前に生まれた存在が、今、ソファの上で高校の制服を着たまま丸くなって寝ている。


 途方もなさに、顎の奥が軋んだ。


「私たちは数が少ない。生まれも知らない。さらに一度失われれば、それきりだ」


 神無月先生の声に、初めて感情のようなものが混ざった。微かに──ほんの微かに、痛みに似た揺れ。


「過去に、私たちと同じ存在が人間に追い詰められて消えた。あるいは、自分の住処を奪われ、衰弱して消えた。私はそれを──何度か見た」


 きっと、近年の間に。


「もう見たくなくてね」


 穏やかに、笑った。穏やかなのに、その笑みの奥が暗かった。


「だから銀華さんがせめて人間社会の仕組みを把握しておくことは、彼女自身の防衛になる。何も知らないで洞窟に取り残されるほうが、ずっと脆い。わかってくれるかな、旭日くん」


「……はい」


 否定はできなかった。


 銀華が洞窟から出ることはリスクが大きいのも事実だ。でもそれよりもっと大きなスケールで、この人は危機を見ている。何も知らずに洞窟に閉じこもっている精霊が、ある日突然人間と遭遇したときの──取り返しのつかなさ。


 グラスの水を一口飲んだ。冷たさが喉を伝って、少しだけ頭が冴えた。


 でも──。


「でも、銀華はこんなに──」


「それに、旭日くん」


 僕の言葉を遮るように、神無月先生が静かに言った。


 目が、まっすぐこちらを向いていた。


「君には、外に出たがるものを止める権利はあるのかい」


 空気が、止まった。


 権利。


 銀華を洞窟に戻すべきだ、と思っていたわけではない。でも「外に出さなければこうはならなかった」と言ったのは、結局のところ同じことだ。銀華が外に出たいと思ったこと、人間の世界を見たいと思ったこと、透が行く高校に自分も行きたいと思ったこと──それを僕は「危ないから」「疲れるから」という理由で「やめたほうがいい」と思った。


 銀華の意志を、勝手に天秤にかけていた。


 守りたいという気持ちは本物だ。銀華に傷ついてほしくないという思いも嘘じゃない。


 でも、その気持ちの裏側は――。


 僕の、勝手な願望があった。


 体の芯を貫かれたような衝撃があって、僕は反射的に視線を落とした。テーブルの木目が滲んで見えた。


「……ないです」


 声が掠れた。


「僕には、ない。銀華がどこに行くか、何をしたいか、決める権利は」


 先生は何も言わなかった。ただ静かにこちらを見ていた。その沈黙が、肯定だった。


 グラスの結露が指を濡らしていた。


 しばらく、部屋には銀華の寝息だけが流れていた。すう、はあ。すう、はあ。リビングの灯りに照らされた銀華の横顔は、さっきと変わらず無防備だった。


 どのくらい経っただろう。五分か、十分か。


 ソファの上で、銀華が動いた。


 小さく身じろぎして、くしゃりと顔を歪めて、それからゆっくりとまぶたが持ち上がった。銀色の虹彩がぼんやりと天井を映して、しばらくそのまま焦点が合わないまま宙を見つめていた。


「……ん」


 寝ぼけている。完全に寝ぼけている。普段の銀華の──あの達観した目も、静かな佇まいも、どこにもなくて、ただまぶたが半分しか開いていない少女がソファの上でもぞもぞと体を起こそうとしている。


「透」


 名前を呼ばれた。かすれた声。ほとんど寝言のような音量だった。


「ばすけとは、何なのだ」


 ──。


 バスケ。


 今日、何度も聞かされた単語。朝の部活勧誘でも、教室でも。意味を聞いたら空気が凍って、それでも答えをもらえなかったまま今日が終わった「バスケ」。


 銀華はそれを、眠りから覚めた直後にこぼした。


 ぽつりと。子どもが寝入る前に思い出した疑問を口にするみたいに、無防備に、何の警戒もなく。


 純粋だった。あまりにも。


 僕は椅子から立ち上がった。


 ソファの前にしゃがみ込んで、銀華の目を見た。まだ寝ぼけている。焦点がゆらゆらと揺れている。


「バスケはね。ボールを、高い位置にあるゴールに投げ入れるスポーツだよ」


「……すぽーつ」


「うん。動画も交えて、ゆっくり教えるから」


 銀華のまぶたがまた落ちかけて、ふわりと持ち直した。寝るか起きるかの境目で揺れている。その表情が、洞窟の中で丸まって眠る竜の寝顔に重なって、喉の奥がぐっと詰まった。


 僕は立ち上がり、振り返った。


 神無月先生が、テーブルの向こうからこちらを見ていた。穏やかな目。教頭先生の顔。でもその奥に、三万年を生きた存在の深い、深い静けさがある。


「神無月先生」


「何だい」


「銀華を守りたいんです」


 声が震えなかったのは、たぶん運が良かっただけだ。


「守るには──どうしたらいいですか」


 止める権利はない。洞窟に閉じ込める権利もない。銀華の意志を歪める権利もない。


 でも、一緒に居たい。


 外の世界に出ることを選んだ彼女が、押し潰されないように。知らないことだらけの場所で、一つずつ学んでいける時間を、安全に確保できるように。


 そのために何が必要なのか、僕にはわからない。だから聞いた。三万年を生きて、何度も失って、それでもまだ何かを守ろうとしているこの人に。


 先生は、少しだけ目を細めた。

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