第27話:銀華とイライラ
スポーツテストが終わった。
シャトルランの最終組が走り終えて、グラウンドにホイッスルの長い一吹きが響いた。「お疲れさまでした」という体育教師の声が砂埃と一緒に流れてきて、各クラスが更衣室に向かって散り始める。西日が傾きかけていて、グラウンドの影がずいぶん長くなっていた。
着替え。
男子更衣室で制服に着替えながら、僕は隣にいた直也と適当な会話を交わした。
「反復横跳びってあれ、何の意味あんだろうな」
「敏捷性の測定だろ」
「敏捷性って日常で使う場面ある? 上から植木鉢降ってくるとか?」
「知らないよ」
どうでもいい会話だった。頭の半分はずっと銀華のことを考えている。
着替えルーティン、上手くやれてるかな。
更衣室を出て、上履きに履き替えながら教室に向かう。廊下に出ると、女子側もちらほらと教室に戻ってきていた。スポーツテストで疲れたのか、廊下の空気が全体的にだるい。
制服の銀華は、教室のドアの前に立っていた。
遠目にでもすぐにわかる。銀色がかった長い髪と、周囲より少し高い視線の位置。制服に着替え終わっているから、変身自体は問題なかったのだろう。
ただ。
雰囲気が、普段と違う。
うまく言えない。たとえば冬の朝に洞窟の奥に入ったとき、空気が急に冷たく張り詰めるような感覚。銀華の周りにだけそれがあった。表情そのものは平坦で、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えない。竜形態のときの穏やかさとは違う──感情の全部に蓋をしたような顔。でも傍目には、普通そうに見える顔。
銀華が不機嫌なのを、僕は数えるほどしか見たことがない。
不機嫌、という概念自体が銀華にはあまりなかった。嫌なことがあれば退ければいい、近づかなければいい。洞窟の彼女はずっとそういうものだった。
今は違う。
教室。クラスメイト。時間割。名前を呼ばれて、座って、指示されたとおりに動く。嫌なことがあっても避けられない。銀華はその窮屈さの中にいる。
慧士が先に教室に入っていった。直也も向かう。僕は少し速度を落として、教室に入る直前に銀華の横を通り過ぎた。
近くで見ると、やっぱり険しい。目が据わっている。竜の瞳に似た銀色の虹彩が、いつもより鋭く光っている気がした。
「──銀華」
小さく声をかけたら、銀華の目がこちらを向いた。冷たくはない。ただ、焦点が合うまでに一瞬の間があった。考え事をしていたのか、それとも──。
「透」
声も平坦だった。いつもの落ち着いた声色だけど、そこに含まれる穏やかさが、ごっそり削ぎ落とされている。
「……疲れた?」
「疲れかは、わからない。だが──」
銀華が言葉を切った。自分の胸のあたりに手を置いて、眉をわずかに寄せた。
「何かが、ずっと重い」
重い。
銀華がそんなことを言ったのは、初めてだった。
僕は何か返そうとしたけれど、すぐに先生が入ってきて「HRするから、座ってー」と号令をかけるので、皆が自分の席に座った。
僕は座りながら、銀華のことを考える。
朝からずっと一緒にいられなかった。スポーツテストは男女別行動で、朝の部活勧誘で引き離されたのもあって、今日はあまり顔を合わせていない。それまでの三日間は、教室でも通学路でもだいたい隣にいたのに、今日は完全に離れ離れだった。けど、予想することはできる。
朝の部活動の勧誘。退屈なスポーツテスト。数字を測るだけの種目。
銀華の胸の重さは、そのことと繋がっている。
HRが終わった。たぶん銀華は精神的に疲れている。今日は早く学校を出て、マンションまで送ろう。
そう考えたとき。
「銀華ちゃん、スポーツテスト疲れたねー!」
明るい声が隣から聞こえた。
瀬田廉人。二つ隣の列から歩いてきて、銀華の席の横に立っている。両手をポケットに突っ込み、首を傾けて、親しげに笑っている。
タイミング悪いな。
待ち構えていたのか。いや、そうなんだろう。さっきグラウンドで「紹介してくれ」と言った舌の根も乾かないうちに、自分から行動に出たわけだ。
銀華は瀬田を見上げた。視線は平坦だった。
「ああ。疲れたかどうかはわからないが、退屈だった」
「あはは、だよね。スポーツテストとかまじだるいよねー」
瀬田は銀華の言葉の不自然さを気にする素振りもなく、自然に会話を繋いだ。この手のコミュニケーション能力は素直にすごいと思う。僕にはとても真似できない。
──迎えに行くべきか。
頭にその考えが浮かんだ瞬間、久我の目がフラッシュバックした。
『今度はでしゃばるなよ』
グラウンドでの、あの冷えた声と目。客観的に見れば久我の指摘は間違っていない。ここで僕が割り込んだら、「旭日が邪魔してる」となるのは明白だった。
自分の行動がクラスの中でどう見えるか、今後の銀華がどう見られるか、という尺度が、足に鎖をつないでくる。
「迎えに行かなくていいの? 旭日くん」
すぐ隣から声がした。いつの間にか名和さんが僕の席に頬杖をついて、こちらを見ていた。なんでもないような目。だけど、ぴたりと的を射るような目。
「え」
「銀華ちゃん、ご機嫌斜めっぽいよ? 朝からずっと」
名和さんにも、そう見えていたのか。
「……幼馴染みだからって、全部口出しするのは変だろ」
苦しい強がりだった。名和さんは「ふーん」と相槌を打って、特に追及はしない。そのぶん余計に刺さった。
横では瀬田が銀華の前の席の椅子を回して、そこに腰掛けていた。距離をさらに詰めている。
「俺、瀬田廉人っていうんだけど。銀華ちゃんとはちゃんと自己紹介してなかったなと思って」
「自己紹介」
「そうそう。で、俺さ──」
瀬田が前髪をかき上げた。さわやかな仕草。計算された動作。
「銀華ちゃんともっと仲良くなりたいんだよね」
仲良くなりたい。
銀華の目が、わずかに動いた。
平坦だった視線に、何かが引っかかったような変化が走る。銀華は瀬田の顔をじっと見つめて、それから少しだけ首を傾けた。
考えている。
嫌な予感がした。
「仲良くなりたい、か」
銀華が静かに繰り返した。
「廉人は、私と仲良くなりたいのか」
──あ。
ハンバーガー屋のこと。名和さんは「きっと仲良くなりたいだけ」と言って、教室の皆をフォローした。その言葉が、銀華の中で「人間社会のルール」として定着しているとしたら。
話しかけられたら、自分と仲良くなりたいのだと。
銀華の目が、まっすぐに瀬田を捉えた。
疑いのない目。透明な目。相手の意図がどうであろうと、言葉を額面どおりに受け取る竜の目。
瀬田の表情が一瞬、面食らったように止まった。ああいう真っ直ぐな反応は想定していなかったのだろう。だが、瀬田は恐ろしく立ちあがりが早かった。
「え──うん、そうそう! 俺、銀華ちゃんのこと入学初日から気になっててさ」
笑顔が輝いている。調子に乗った、と直感した。銀華が肯定的に反応したと受け取っている。
「そうだ。バスケ部、興味ない?」
バスケ。
また、その単語。
僕は銀華の顔を見た。
表情が、消えた。
月曜日に瀬田の口から初めて聞いた「バスケ」。今朝も聞いて、勝ち負けの意味がわからないと言ったら空気が凍った「バスケ」。
「……バスケ」
銀華の声が、低かった。囁くような音量だった。
「そうそう、バスケ部の練習! うちの部活けっこう強くてさー。インターハイ予選──」
「それは、何のためにするのだ」
温度が低いように感じたのは、気のせいじゃない。銀華の声には今朝の穏やかな困惑すらなかった。ただ冷えている。
瀬田がわずかにたじろいだ。
僕は立ち上がっていた。
もう理屈じゃなかった。久我の警告も、クラスの視線も、「でしゃばるな」という圧力も、全部頭にあった。頭にあった上で、体が動いた。
銀華は限界だ。
瀬田と銀華の間に、僕は体を滑り込ませた。
「ごめん瀬田くん、銀華は僕と用事があるから」
瀬田の笑顔が固まった。
「え──用事?」
「うん、ちょっと、その、放課後にやらなきゃいけないことがあって」
嘘だ。びっくりするほど中身のない嘘。でも他に言葉が出てこなかった。
教室の空気が変わったのがわかった。数人の視線がこちらに集まっている。「またかよ」という空気。「出しゃばんなよ」という無言の圧力。月曜のことを覚えている生徒は多い。
瀬田の後ろにいた数人のクラスメイトが、何か囁き合っている。銀華との会話を遮られた瀬田の目から愛想の良さが消えて、その下にある苛立ちがちらりと覗いた。
「旭日くんさ、毎回それやるの?」
瀬田の声は笑っていたけど、目は笑っていなかった。
「毎回って──」
「銀華ちゃんと話してるだけだろ、俺」
正論だった。瀬田は銀華を傷つけているわけではないし、無理やり押しかけているわけでもない。ただ話しかけているだけだ。それを阻止しようとする僕のほうが、客観的に見ればおかしい。
言い返す言葉を探している僕の肩に、後ろから手が伸びてきた。
久我陽司。大きな手が僕の肩を掴んで、自然な動作で引き戻そうとする。
「旭日。お前さ、もうすっこんでろよ」
力が強い。がっしりした指が制服越しに食い込んできて、僕の体がわずかに後ろに傾いた。瀬田が少し離れて、久我が前に出る。二対一の構図。教室中の視線が集中していた。
一触即発、という空気だった。
その瞬間。
銀華が、立ち上がった。
椅子が引きずる短い音がして、教室の騒めきがふいに途切れた。
無言だった。何も言わずに、銀華は席を離れ、瀬田と久我の横をすり抜けるようにして──僕に、真っ直ぐ向かってきた。
そして。
抱きついた。
────。
教室が凍った。
銀華の腕が僕の胴に回されて、銀色の髪が僕の肩に広がった。制服の生地越しに銀華の低めの体温があって、頭が追いつかなかった。
それだけじゃなかった。
ぐり、と。
銀華が頭を僕の肩にこすりつけてきた。
ぐりぐり、と。
額を押し当てて、肩と首の付け根あたりを行ったり来たりする。猫が甘えるときのような、でも少し力が強くて、ぐいぐいと押してくる動作。
──ああ。
僕は、これを知っている。
竜のときに見た。
洞窟の中で、銀華が竜のときによくやる、僕に額をこすりつける動作。巨大な銀色の頭を僕の体に擦り付けてきて、鼻先でぐりぐりと押してくるやつ。竜でやると少し痛いくらい力が強いけど、きっと意味は同じだ。
そっか。
ごめんな。
教室は完全にフリーズしていた。
三十人近い生徒の視線が僕たちに突き刺さっていた。その重さを背中で感じながら、僕は息を吸った。
「──ごめん、全部分かった。ごめんな」
右手を、銀華の背中に置いた。ゆっくりと、撫でるように。
「大丈夫だから。もう終わったから」
銀華の指が、僕の制服の背中を掴む力を強めた。返事はなかった。でも、ぐりぐりの力が少しだけ弱まった。
瀬田がいた。久我がいた。クラスの全員がいた。その全部が視界のずっと外側にあって、僕が見ているのは銀華の銀色の髪の分け目だけだった。
「帰ろう。もう帰ろう」
優しく言った。銀華の肩がわずかに揺れて、それが頷きだと理解するまで、二秒くらいかかった。




