第26話:銀華と体操着
白銀ベーカリーでパンを買って、校門まで来て、足を止めた。
校門前が異様な光景になっていた。
新入生の通学路を塞ぐように、上級生たちが道の両側にずらりと並んでいる。手にはメガホン、横断幕、ポスター、ビラの束。体育会系は揃いのジャージ、文化系は手作りの看板を掲げていて、校門前の通路が完全に「関所」と化していた。
部活勧誘。
そういえば昨日、掲示板に貼り紙があった気がする。「今週は新入生勧誘週間」とかなんとか。月曜と火曜はなかったが、水曜から実地での勧誘が解禁されたらしい。
「透、あれは何だ」
「部活動の勧誘。上級生が新入生を自分の部活に入れたくて声をかけてくるんだ」
「部活動か、あの」
「うん。放課後にやるスポーツとか文化的なこと。朝練したり、合宿したりのね」
「ふむ、これが」
銀華は興味津々に相槌を打った。だが、問題はそこじゃなかった。
問題は、銀華の外見だ。
月銀高校の新入生で、入学初日からあらゆるクラスメイトの視線を独占した圧倒的な美少女。その存在は三日間で学年を超えて知れ渡っているはずで、部活の勧誘に血眼になっている先輩たちが、この「ターゲット」を見逃すわけがない。
案の定だった。
僕たちが校門をくぐった瞬間、大きな声が飛んできた。
「一年生! バスケ部、見学来ない!?」
「陸上部! 女子マネ募集中!」
「テニス部ー! 初心者大歓迎!」
メガホンを構えた先輩たちの声が交差して、あっという間に通路が人でいっぱいになった。制服の裾が擦れて、ビラが風に舞って、誰かの声と誰かの笑い声が重なる。
そして銀華の前に、三人の上級生が立ちはだかった。全員がジャージ姿で背が高く、ひとりはバスケットボールを片手で持っていた。
「きみ、岩見さんだよね? 一年の。身長高いし、バスケ向いてると思うんだけどさ」
片や僕にまで別の集団が迫っていた。
「ね、そっちの男子。サッカー部に興味ない? 体格いいじゃん」
腕を掴まれた。強引だ。足を止めざるを得ない。
「あ、いや、僕は──」
「見学だけでいいからさ! 今日の放課後空いてる?」
振り返ると、銀華が別の方向に三歩ほど押し流されていた。人の波に揉まれて、僕との距離が開いていく。銀華の銀髪が人垣の隙間にちらちらと見えて、すぐに見えなくなった。
分断された。
「ちょっ──銀華!」
声が届いているかどうかもわからない。サッカー部の先輩がまだ腕を掴んでいて、僕は身動きが取れなかった。
◇
サッカー部の先輩にビラを四枚ほど握らされて、ようやく解放されたとき、銀華は校門を入ったすぐの花壇の横にいた。
三人の上級生に囲まれたまま、微動だにせず立っている。
「──だからさ、バスケっていうのは五人対五人でボールをゴールに入れるスポーツなんだよ」
ジャージの先輩が身振り手振りで説明している。銀華は首を傾げたまま聞いていた。
「ゴールに入れると、どうなるのだ」
「点が入る」
「点」
「うん、点数。たくさん入れたほうが勝ち」
銀華が眉をひそめた。
「勝つとは、何だ」
「え?」
「勝つとは何だ。勝ったから何なのだ」
先輩が少し面食らった顔になった。「だからね、何なのっていうか……勝ったら嬉しいし、大会だとトロフィーとかもらえるけど」
「嬉しい、か。負けたら?」
「くやしい……かな」
「意義がわからない」
先輩の顔が曇った。
僕は内心で頭を抱えた。
銀華は質問をしているだけだ。悪意はかけらもない。
ただ純粋に、勝敗を競うという行為の意義が理解できていない。
竜にとって「勝ち負け」は、おそらく存在しない概念なのだ。洞窟でもそうだった。中学生の頃に銀華と遊ぼうと思ってオセロを持ち込んだら、ルールは理解するものの「今何をしている」「これも負けたら命をとられるのか」とか聞かれて困り果てたことがある。山の中で生きてきた存在に、制限時間の中で点を取り合うスポーツの意味が素直に飲み込めないのは当然だった。
「いや、そういうもんなんだよ。スポーツっていうのは勝つために頑張って、仲間と一緒に成長していく──」
「成長」
「上手くなること。昨日できなかったことが今日できるようになる、みたいな」
「ふむ」
銀華が腕を組んだ。考え込むポーズだ。
「それは──理解した。だが、なぜそれを勝ち負けとやらで測るのだ。自分が成長したならば、それで十分ではないか」
先輩が完全に言葉に詰まった。
もうひとりの先輩が小声で「この子ちょっとヤバくない?」と耳打ちしているのが聞こえて、僕は急いで割り込んだ。
「銀華! ごめんなさい先輩、この子あんまり運動には興味なくて──」
「あ、そうなの?」
「はい、あの、すみません」
先輩たちは少し引き気味の笑顔を残して去っていった。銀華はまだ腕を組んだまま、何かを考えている表情だった。
「透。やはりばすけが、よくわからなかった」
「……ごめん、まあ、学校が終わったら説明するよ」
ここで話すべき内容じゃない。僕は銀華の袖をそっと引いて、校舎の中に進んだ。
◇
今日は全学年共通のスポーツテストと身体測定が行われる日だった。
朝のHRで担任がタイムテーブルを配り、午前は身体測定、午後はグラウンドと体育館でスポーツテストと説明された。男女別行動だから、銀華とは基本的に別々に動くことになる。
それ自体はいい。問題はひとつだけ。
着替えだ。
この問題は前から浮かんでいた。体操着への着替え。女子更衣室で着替えること。銀華の着替えは必然的に変身を伴うから、どうにか隠さなければ。
今朝、通学路のベーカリーに入る前のこと。
「今日は体操着に着替える日なんだけど」
「体操着?」
「運動するときの服。制服とは別の」
「別の服か」
「うん。女子更衣室っていう部屋で着替えるんだけど──」
「脱ぐといわれてもな。この姿はそもそも変身だ」
そりゃそうだ。
「女子更衣室で変身するのはまずい。人間は変身なんてできないから一瞬で正体がバレる」
「三か条その一だな……ふむ」
銀華がしばらく考え込んだ。
「では、どうする」
「女子トイレの個室に入って、そこで変身して。他の子は見えないから、変身しても大丈夫。出てくるときだけ、少し時間を置いてから出ればいい」
「時間を置くのはなぜだ」
「すぐに出てきたら『なんで一秒で着替え終わったの?』ってなるだろ」
「……なるのか?」
「なる。絶対なる。六十秒くらい待とう」
「ルールか、わかった」
こうして朝の着替え問題は事前に解決した──はず。が、いざ午前の身体測定が始まって銀華と別れてみると、不安がじわじわと湧いてきた。
本当にうまくやれただろうか。六十秒ちゃんと待てただろうか。そもそも個室のドアの鍵の使い方は知っていたのか。昨日までの教室では鍵のない引き戸しか経験していない気がする。
考え出すときりがない。
男子の身体測定は体育館横の通路で順番に行われていて、身長と体重を測って視力検査をして、それだけで午前の前半が終わった。待ち時間が長い。直也と慧士と壁にもたれてぼんやりしている時間のほうが圧倒的に長かった。
「透、今日のグラウンド、日差し強そうだな」
「そうだね」
「日焼け止め塗るか悩むわ」
「直也が日焼け止め?」
「ママがうるさいんだよ。過保護すぎて困るぜ」
平和な会話をしながらも、僕の意識は半分、別のところにあった。
◇
午後。グラウンドに出て、スポーツテストが始まった。
五十メートル走、ハンドボール投げ、立ち幅跳び。種目ごとにクラスと学年がごちゃ混ぜでローテーションする形式だった。男女は場所が分かれていて、男子はグラウンドの東側、女子は西側とトラックを使う。
ハンドボール投げの待ち時間に、僕はさりげなく女子側に目をやった。
銀華がいた。
体操着姿の銀華は──うん、無難にやっている。五十メートル走のスタートラインに並んでいるのが見えた。隣の女子と何か話している。笛が鳴って、走り出す。
速くはなかった。
遅くもなかった、普通。周囲の女子と大差ない、ごく平均的なタイム。
銀華の人間体は「人間並みの身体能力」でしかない。竜形態とは根本的に違う。変身して構成された肉体は、あくまで人間のスペックらしい。漫画みたいに突出した記録は出ない。
ボール投げも同じだった。フォームは少しぎこちなかったが、距離は中の下くらい。目立つような数字は出ていない。
ただ、ひとつだけ。
銀華の表情、めっちゃ退屈そう。
退屈というか──虚無。
何かを考えることすら放棄したような、ひきつった無表情。授業中のあの真剣な目とは正反対の、完全に興味を失った顔。走っても投げても跳んでも、銀華の表情はぴくりとも動かない。
まあ、そうだよな。
変身した体で運動をさせられても、銀華にとっては何の意味もない。数学がわからなかったときはまだ「わからないことがわかった」という発見があった。でもスポーツテストには発見もない。ただ指示されたとおりに体を動かして数字を測るだけ。そりゃ退屈かあ。
「旭日、次お前だぞ」
「あ、うん」
ハンドボールを受け取って、投球レーンに向かった。
ボール投げを終えて、次の種目までの空き時間。グラウンドの隅のベンチに座って水を飲んでいると、聞き覚えのある声が横から降ってきた。
「旭日くん」
瀬田だった。瀬田廉人。ジャージ姿でさわやかな笑みを浮かべている。その後ろに久我陽司がいた。腕を組んで、あまり表情のない顔をしている。
「お疲れ。ハンドボール投げ、けっこう飛んでたな」
「あ、うん。ありがとう」
瀬田が親しげに隣に腰を下ろしてきた。距離が近い。僕と今まで交わした言葉なんて、精々が「おはよう」くらいだったはずだ。この急な距離の詰め方に、背中にかすかな警戒心が走った。
「なあ旭日くんさ」
瀬田が薄ら笑いを浮かべながら切り出した。
「ぶっちゃけ、銀華ちゃんと付き合ってるの?」
直球だった。
「え、いや──付き合ってないよ。ただの幼馴染み」
「まじで? でも毎朝一緒に登校してるし、初日からずっと隣いるじゃん」
「幼馴染みだから、なんていうか──自然とそうなってるだけで」
「へー、良かったー!」
瀬田の目が細くなった。品定めをするような視線。信じているのか信じていないのか判断がつかない。
「ただの幼馴染みか。じゃあさ、紹介してよ」
瀬田が体ごとこちらに向き直った。
「……え?」
「銀華ちゃん。俺、ちゃんと話してみたいんだよね。初日からずっと気になってたし」
待ってましたと言わんばかりの前のめりだった。
僕は言葉に詰まった。
紹介って、何を。
「付き合ってないなら、今日はいいよな」
久我の声だった。
低くて、平坦で、冷たい声。瀬田の後ろに立ったまま、腕を組んだまま、こちらを見下ろしていた。
「月曜日のお前ら、無理やり彼女を連れ出したんだから」
月曜日。
教室で質問攻めにされてパンクしそうになった銀華を、直也と慧士が咄嗟に連れ出した。
「──別に、無理やりってわけじゃ」
「みんな話したがってたのに、お前らが連れ出して、そのままどっかに行っただろ」
久我の声に感情はなかった。怒っているのでもない。ただ事実を述べているだけの口調。
「で、次の日はずっと自分たちだけで固まってる。放課後に勉強会とか言って、六人で残って。周りは近づけないよな、あれ」
僕の口が開いて、閉じた。何か言おうとして、何も出てこなかった。
客観的に見れば、僕たちは銀華を独占していたように映る。月曜に連れ出して、火曜に勉強会で囲んで。本人たちにそんなつもりはなくても、外から見ればそう見える。
久我の言葉は間違っていない。
だけど、それよりも、久我の目は。
「今度はでしゃばるなよ」とでも言いたげだった。
久我が瀬田の肩を叩いた。「じゃあ、またな」と軽く手を上げて立ち上がる。二人はグラウンドの向こう側に歩いていった。僕の反論を待つ気配は最初からなかった。
ベンチに座ったまま、僕は二人の背中を見送った。
紹介してよと言われて、はいどうぞなんて、とても言えない。
瀬田くんの目は打算的だった。あの目で銀華に近づかれたら、――でも、僕のそういう態度が銀華をクラスから孤立させる可能性もあるのか。
ぬるくなった水を一口飲んだ。グラウンドの風が、砂埃を巻き上げて通り過ぎた。
なんとかしなきゃ。でも、何をどうすればいいのかがわからない。
月銀高校の三日目は、まだ午後の半ば。シャトルランのホイッスルが、遠くで鳴っていた。




