第25話:銀華と数字
五時間目。数学。
先生が板書を始めた瞬間、銀華の空気が変わった。
板書にチョークの白い文字が並んでいく。数式。xとyと、等号と不等号。括弧の中に数字が詰め込まれて、イコールの先にまた数字が出てくる。方程式の導入、と先生が言った。
銀華の首が、かくん、と傾いた。
小さく。ほんの数度。右に。
板書が進む。「両辺に同じ数を足しても等式は成り立つ」という説明が加わった。
銀華の首が、今度は左に傾いた。
先生がチョークを持ち替えて、例題を書き始める。2x+3=11、xを求めよ。
銀華の首が、また右に戻った。
くるり。
いや待て。今、完全に一回転しなかったか。
僕は目をこすった。こすって、もう一度見た。銀華は背筋を伸ばしたまま座っている。姿勢はいい。教科書を見ている。ペンも持っている。完璧な「授業を受けている生徒」の形をしている。
ただし、首だけが、小刻みにくるくると回っていた。
小鳥だ。
国語のときには微動だにしなかった銀華が、数学の板書を前にして鳥みたいに首を回している。
午前中の「覚えるだけだ」という余裕はどこに行ったのか。記憶力の天才は、xの値を求める段階で機能を停止していた。
考えてみれば当然だった。
国語は、文字を読む。意味を覚える。物語を頭に入れる。英語も、別の国の文字体系と法則を「言葉」として覚えればいい。理科の知識も、事実を暗記する要素が大きい。要するに、午前中の四教科は全部「情報を記憶する」という銀華の得意分野の範囲内だったのだ。
でも、数学は違う。
数学は覚えるだけじゃどうにもならない。法則を理解して、「数」という概念を頭の中で操作しなければいけない。鱗が三枚あるとか、お釣りがいくらとか、そういう具体的な話じゃない。「x」は何にでもなれるし、何でもない。存在しない数字を頭の中で動かして、答えにたどり着く。
銀竜の思考回路に、そんな機能はなかった。
銀華の首が、またくるりと回った。
隣の席でそれを見ている僕の胸に、深い同情が湧いた。
◇
五時間目が終わった。六時間目の社会を挟んで、放課後。
社会は暗記科目だったので銀華は平常運転に戻っていたが、五時間目の数学の傷跡は深かった。教科書は開いたまま、ノートには何も書かれていない。真っ白だ。僕のノートが白紙なのは怠惰のせいだが、銀華のそれは理解が追いつかなかった結果だから、意味が全然違う。
放課後のチャイムが鳴って、周囲がざわつき始める。
「銀華ちゃん」
名和さんが自分の鞄を持ったまま、銀華の席のそばに来た。
「さっきの数学の時間、ずっと首傾けてたよね?」
やっぱり気づいていたか。あの動きは目立つ。
「もしかして、数学は苦手?」
名和さんが屈託なく聞いた。悪気はなさそう。純粋な心配と好奇心が半々の顔だ。
銀華はペンを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……数字が、わからない」
正直な告白だった。
「わからないというか──数字というものが、頭の中でうまく動かない。文字なら意味がある。絵なら形がある。でも数字は、なぜかつかめない」
「あー、数学アレルギーってやつだ」
直也が鞄を片手に近寄ってきた。
「文系脳なんだろ? 透もそのクチだし」
「僕のはアレルギーじゃなくて努力不足です」
「それはそれでダメだろ」
正論やめて。
「あの」
控えめな声が横から入った。虹林さんだった。二股おさげを揺らしながら、少しだけ前に出てきて──。
「私、数学は得意なほうだから。よかったら教えようか?」
銀華がぱちりと瞬きをした。
「教える? 私に?」
「うん。そういえば、まだちゃんと自己紹介もしてなかったね」
虹林さんが姿勢を正した。少しだけ緊張しているのか、おさげの先を片手でいじっている。
「虹林あおいです。中学は地元。数学は好きだから、力になれるかも」
銀華が椅子ごと体を向けて、虹林さんを真正面から見た。
「虹林あおい。覚えた。ありがとう、あおい」
虹林さんがほっとしたように笑った。
「あ、そういえば」
慧士が鞄を机に置いたまま、こちらに歩いてきた。いつもより少しだけ声が大きい。
「俺たちもちゃんとした自己紹介、してないよな。いや──してないだろ、岩見さんに」
確かに。昨日は質問攻めから救出して、ハンバーガー屋でなんとなく一緒に食べて、流れで名前を知った。改まった自己紹介なんてしていない。慧士はそのことが──たぶん、銀華に名前で呼ばれたときから──引っかかっていたんだろう。
「雨宮慧士です。よろしく、岩見さん」
慧士が軽く頭を下げた。
「えー、ちゃんとやるの? じゃあ俺も。高坂直也。よろしくな、岩見さん」
直也が片手を上げて、ニッと笑った。
銀華はふたりを交互に見て、それからゆっくりと頭を下げ返した。
「岩見銀華だ。よろしく」
丁寧で、まっすぐで、ちょっとだけ堅い。銀華らしい自己紹介だった。
「うーん、入学三日目の自己紹介って遅すぎない?」
名和さんが腕を組んで首を傾げた。
「順番おかしいね」
慧士が真顔で同意した。
「いいだろ。昨日ハンバーガー一緒に食った仲ってことで」
直也の雑な結論に、僕は少しだけ笑った。
「じゃあ、勉強会やる?」
名和さんが手を叩いた。
「銀華ちゃんに数学教える会。あおいちゃんが先生で」
「えっ、先生?」
「適任でしょ」
「まあ、教えるのは嫌いじゃないけど」
虹林さんが照れくさそうに頬を掻いた。
「面白そう。俺も残るよ」
慧士が鞄から数学の教科書を取り出した。
「えっ、慧士も?」
「岩見さんが国語を一瞬で覚えるのに数学はダメってのが気になる。思考回路がどうなってるのか見てみたい」
それは勉強会というより観察だろ、慧士。
「じゃあ俺も」
直也が自分の席を引きずってきた。
「直也は数学ができるのか?」銀華が尋ねる。
「できねーよ? でも眺めてるだけでも面白そうじゃん」
こいつは戦力じゃない。
こうして銀華を中心にした六人の机が再び合体して、放課後の突発的な数学勉強会が始まった。
◇
「じゃあまず、ここから」
虹林さんが教科書を開いて、五時間目にやった方程式のページを指さした。
「2x+3=11。このxに何が入るか、わかる?」
銀華が教科書を覗き込んだ。じっと数式を見つめている。三秒、五秒、十秒。
「……xというのは英語でも出てきた。文字か」
「うん。文字だけど、数字の代わり」
「数字の代わりの文字」
「そう。何かの数がxに入るの。それを見つけるのが方程式」
銀華の目が泳いだ。泳いで、戻って、また泳いだ。
「待って。数字の代わりに、なぜ文字を使うのだ。数字を使えばいいだろう」
「えっ」
「わからないなら、数えればいいのではないか」
虹林さんが固まった。名和さんも固まった。慧士だけがメモを取り始めた。
「いや、数えるって……日常のものは数えられるけど、抽象的な数は数えられないから記号で置くんだよ」
「抽象的」
「目に見えない数のこと。たとえば──この教室に机がいくつあるかは数えられるけど、『あるクラスの生徒の人数がxで、隣のクラスがx+5人だったら合計は何人か』みたいな問題は、xを使わないと解けないでしょう」
銀華は虹林さんの説明を聞きながら、もう一度教科書に目を落とした。
十秒。二十秒。
首が傾いた。くるり。
「ここまで行くか」と慧士がペンを置いた。
「じゃあ別のアプローチで。岩見さん、英語のさ──『I have three apples.』って文、訳せる?」
「『私はリンゴを三つ持っている』」
即答だった。一秒もかからなかった。
「じゃあ、『She has more apples than I do.』は?」
「『彼女は私より多くのリンゴを持っている』」
これも即答。
「オッケー。じゃあ──『She has x apples.』は?」
「……彼女はxのリンゴを持っている?」
「そう。ここでxは数字。いくつかわからないけど、何個か持ってるってこと」
銀華の額にうっすらと皺が寄った。
「文として理解はできる。だが、xが何なのかわからないまま文を作ることに、意味があるのか?」
「ある。めちゃくちゃある」
首が回った。
「わからないからこそ、式を立てて解くんだよ。答えにたどり着くための道筋が方程式なの」
虹林さんが力を込めて説明した。熱心だ。教えるのが好きだというのは嘘じゃないらしい。
銀華は教科書のページを凝視した。その目は真剣だった。真剣なのに、真剣であればあるほど、眉間の皺が深くなっていく。
横から名和さんが口を挟んだ。
「ねえ銀華ちゃん。じゃあ逆に、これ読める?」
名和さんが自分の国語の教科書を開いて、そこに書かれた難読漢字を指さした。
「『薔薇』」
「バラ」
「じゃあこれは」
「『憂鬱』」
「ゆううつ」
「……これは?」
「『齟齬』。そご、だ」
名和さんが天を仰いだ。
「なんでそんな漢字読めるのに方程式に負けてるの……」
「文字には形がある。形には意味がある。だから覚えられる」
銀華が真顔で答えた。
「数字には形がない」
「天才なの? アホなの?」
直也が素朴な疑問を口にした。全員が同じことを思っていたと思う。
「両方だろ」
「言語処理が異常に高くて、数値処理が異常に低い。そんな脳の構造なのかな」
慧士がノートにメモを書きながら、淡々と言った。
虹林さんはめげなかった。
「じゃあ、もっと簡単なところからやろう。分数。これわかる?」
教科書の前のページに戻って、分数の説明を指さした。
「リンゴ一個を二つに分けたら、二分の一。それはわかる?」
「リンゴを二つに割ったら、半分になるだろう」
「そう! そこ! その半分を数字で書くと──」
虹林さんが1/2とノートに書いた。
「二分の一」
銀華がそれを見た。見て、首を傾げた。
「なぜややこしく書くのだ。半分なら、半分と書けばいい」
「数学だと数字で表すルールだから……」
「ルールか」
「うん、ルール」
「ルールならば、覚える。だがよくわかっていない」
「正直ー!」
名和さんが笑った。
僕はその光景を、少し離れた位置から見守っていた。
自然だった。
誰も銀華を特別扱いしていない。変わった子だな、とは思っているだろう。でも、それを面白がって、自分たちのペースで接している。虹林さんは教えることに真剣で、慧士は知的好奇心で動いていて、名和さんは全員の潤滑油で、直也はいるだけ。
銀華のことを「数学ができない子」として笑うんじゃなくて、「薔薇は読めるのに分数は分からない不思議な子」として、本気で向き合っている。
その空気が、なんだかすごく──嬉しかった。
竜だということを知っているのは僕だけだ。みんなは「ちょっと変わった転入生」としか思っていない。でも、それでいい。それがいい。銀華が銀華のまま、人間の中にいられる場所があるということ。それだけで、僕の胸の中の何かがほどけていくのを感じた。
◇
勉強会は大体一時間ほど続いた。
銀華の数学の理解は、ほとんど進まなかった。
分数は「半分に割る」という物理的なイメージまでは理解できたが、それを数式として操作する段階で止まる。方程式に至っては、xという記号の存在理由を受け入れること自体が壁だった。
虹林さんは最後まで粘り強く教え続けてくれたが、明らかに疲労の色が見えた。慧士のメモはノート三ページ分に達していた。直也は途中から自分のスマホでなにかのゲームを始めていたが、要所要所では「おっ」とか「あー」とか的確なリアクションを入れていたので、一応聞いてはいたらしい。
名和さんが時計を見て「そろそろ帰らないとまずいかも」と言ったとき、全員がふぅ、と息をついた。
「銀華ちゃん、どう? ちょっとはわかった?」
名和さんが期待と諦めの中間みたいな顔で聞いた。
銀華は教科書を閉じて、ペンを置いた。背筋を伸ばして、全員の顔を順番に見た。
それから、晴れやかな顔で言った。
「ふむ。わからないものは、わからないな!」
清々しかった。
仕方ない。
銀竜だもの。
「「「「ドヤ顔で言うな!」」」」
全員で、ツッコミが入った。
長い時を生きてきた存在に、数学の概念が通じなくても、種族の違いとしか言えない。彼女の脳は「言語」なら理解できても「数字の操作」は回路にないのだ。ないものはない。
「岩見さんのメンタル、ちょっとすごいな」
慧士がぽつりと言った。
「普通、一時間教えてもらってできなかったら何かあるだろ」
「なぜだ。わからないことがわかったのだから、それは発見だ」
「……確かにそうだ。その発想はなかった、すごいな」
名和さんが吹き出した。虹林さんも、こらえきれずに笑い始めた。
「銀華ちゃん、ほんとブレないね」
「ブレる?」
「ブレないってのは褒め言葉だから。ね、あおいちゃん」
「うん、たぶん」
虹林さんが笑いながらうなずいた。「でも、また教えるよ。次はもうちょっと工夫してくるから」
「頼む。私は覚えるのは得意だが、理解が必要なものには時間がかかるようだ」
「大丈夫。ゆっくりやろう」
虹林さんが穏やかに笑って、おさげを揺らした。
机を元に戻して、鞄を持って、ばらばらと帰り支度が始まる。
「じゃあまたねー、銀華ちゃん!」
名和さんが手を振って、虹林さんと一緒に教室を出ていった。慧士と直也も「じゃあな」「またなー」と軽く手を上げて廊下に消えた。
教室に残ったのは、僕と銀華だけだった。
夕方の光が窓から差し込んで、机の上を淡いオレンジに染めている。銀華は鞄にゆっくりと教科書を片付けていた。
「銀華」
「なんだ」
「数学、わかんなかった?」
「わからなかった」
「堂々と認めたね」
三か条と矛盾しているような気もするが、数学がわからないことは秘密でもなんでもないから、まあいいか。
「でも、みんな楽しそうだったな」
僕がそう言うと、銀華が手を止めた。
「楽しかった」
短く、だけどはっきりと、銀華が言った。
「数字はわからない。だが、教えてもらう時間は嫌ではなかった。なぜだろう」
僕は答えなかった。答える代わりに、鞄を肩にかけた。
教えてもらって、笑われて、笑い返して。
形は歪だけど、それは紛れもなく「普通の放課後」だった。
たぶん銀華はまだ気づいていない。今日のこの時間に名前をつけるとしたら、それは勉強会じゃなくて──ただの、友達と過ごす放課後だということに。
「帰ろう、銀華」
「ああ」
教室を出る。廊下はもうほとんど人がいなくて、僕たちの足音だけが反響していた。
靴箱でローファーに履き替えながら、今日一日を振り返った。
午前中の圧倒的な暗記力。午後の数学での大敗北。放課後の勉強会。遅すぎる自己紹介。虹林さんの根気強さ。慧士の観察メモ。直也のムードメーカーっぷり。名和さんの笑い声。そして、「わからないものはわからない」と言い切った銀華の晴れやかな顔。
全部まとめて、面白い一日だった。
僕の勉強が1ミリも進んでいないことには、目をそらすことにする。




