第24話:銀華と授業
教室に入った瞬間、身構えた。
昨日はすごかったから。銀華の周りに人が殺到して、質問攻めで銀華がパンクして、直也と慧士に救出してもらった。あの光景が頭にこびりついているせいで、扉を開けるだけで胃がきゅっと縮む。
が、教室はわりと静かだった。
朝のホームルーム前。まだ半分くらいしか席が埋まっていない時間帯だけど、昨日のような人だかりは起きなかった。何人かが顔を上げてこっちを見て、すぐに目をそらした。あの人だ、みたいな視線はある。でも、わざわざ席を立って近寄ってくる生徒はいない。
遠巻きにされている空気だった。
誰も近づいてこない。無視じゃなくて、意識はされている。けれど、距離を取っている。
なんだろう、この感じ。
銀華は無言で自分の席に着いた。鞄を机の横にあるフックに丁寧にかけた。
僕も自分の席に座って、鞄から教科書を引っぱり出した。胸の奥がざわつく。昨日みたいな騒ぎにならなかったのは助かった。助かったけど、この微妙な距離感は距離感で、別の不安を呼ぶ。孤立、という単語が頭の隅をかすめた。
「よっ」
声のしたほうを振り向くと、直也が片手を上げて近づいてきた。慧士もその後ろにいて、軽く頷いている。
「おはよう。今日も岩見さんと?」
「うん、まあ。幼馴染だし」
「いいなー。俺も都会に幼馴染とかほしかったわー」
直也がニヤニヤと笑いながらからかってくる。この人は朝からテンションの振れ幅がない。
慧士は銀華のほうにちらっと目を向けた。
「岩見さん、おはよう」
「おはよう、慧士」
銀華が座ったまま、丁寧に頭を下げた。下の名前呼びなのは僕や直也を見ていたからだろうか。そうなんだろうな。慧士が若干、面食らっている。
「銀華ちゃん、旭日くん、おはよう!」
今度は教室の入り口から明るい声が飛んできた。名和さんが、手をぶんぶん振りながら歩いてくる。その半歩後ろに、二股おさげの虹林さんが控えめについてきていた。
「あおいちゃんも、ほら」
名和さんがにこにこしながら虹林さんの背中を押した。虹林さんは少しだけたじろいだけど、すぐに笑顔を作って小さく「おはよう」と手を振った。
「おはよう、名和さん。虹林さんも」
「おはよう、澄香」
銀華がまた丁寧に頭を下げる。
名和さんが「きゃっ」と声を上げて両手で口を押さえた。何がそんなに嬉しいのかよくわからないけど、彼女のこのリアクション芸はそういうものなんだろう。
「名前呼び! 嬉しい! ねえあおいちゃん聞いた?」
「聞いてるよ、うん」
虹林さんが苦笑しながら名和さんをなだめている。
僕はこのやり取りを眺めながら、じわりと安堵していた。
遠巻きのクラスメイトの中で、この三人──直也、慧士、名和さんは、昨日の放課後と何も変わらない距離感で接してくれている。それだけのことが、今の僕にはものすごく大きかった。
教室の端から端まで、空気が二層に分かれている。遠くから見ている人たちと、普通に話しかけてくれる人たち。銀華の席の周りだけ、小さな島ができている。
居場所はある。
そう思ったら、朝からずっと縮こまっていた胃が、少しだけゆるんだ。
◇
一時間目、国語。
チャイムが鳴って、年配の男性教師が教壇に立った。教科書を開いて、最初の単元を読み上げ始める。
僕は銀華の様子が気になって仕方がなかった。
席は隣同士だ。横目でちらちら盗み見る。銀華は机の上に教科書とノートを開いて、背筋をぴんと伸ばして座っていた。姿勢がいい。教科書のページは合っている。一応ちゃんと追えてはいるらしい。
でも、内容を理解できているかは別の話だ。
国語の教科書には現代文の小説が載っている。初回は導入ということで、短い文章を読んで、その内容について先生が解説するという流れだった。文学作品の読解。登場人物の心情を読み取ろう、というやつ。
銀華にそれがわかるのか。文字は読める──漫画と辞書で覚えたから。でも、行間を読むとか、比喩を解釈するとか、そういうのは別次元の技術だ。
銀華は微動だにしない。教科書を見つめている。ページを指でなぞっている様子もなく、ただじっと文面に目を落としている。
二時間目、外国語。
外国語の教師が「はい、十三ページ」と言うと同時に、クラスの半分くらいが面倒そうな顔をした。僕もその一人だ。
銀華はページを開いた。外国語のアルファベットが並んでいる。この国の言葉とはまったく違う文字体系。これはきついんじゃないか。銀華が学んだ言語は国語辞典のこの国の言葉だけだ。
先生が音読を始める。「How are you」みたいな初歩的な例文から入ってくれたのは幸いだった。銀華は教科書の文と訳を交互に見ていた。眉が微妙に動いている。なにか考えている顔だ。
三時間目、化学。
物質の三態、固体・液体・気体。先生が板書しながら説明する。水が氷になり、蒸気になる。温度によって姿が変わる。
銀華がほんの一瞬、自分の手を見た。
変身──形態の変化。物質が温度で姿を変えるというのは、銀華にとっては教科書で学ぶより前に、自分の肉体で経験していることだ。もちろんそれは化学的な変化とは全然違うものだけど、「形が変わる」という現象への親和性は高いのかもしれない。
四時間目、家庭科。
栄養素の分類。炭水化物、たんぱく質、脂質。人間の身体がそれらを必要とする理由。家庭科を学ぶ意味。
銀華は食事が不要な存在だ。でも食べることの楽しさは知っている。人間が食べなければ死ぬという事実を「知識」として理解する時間。
とか考えていたら、気づいたら僕のほうが授業の内容を全然聞いていなかった。
銀華の心配ばかりしていて、自分のノートが真っ白だ。
四時間の授業が終わった。
銀華の様子は普通だった。質問に当てられることもなく、特に目立つこともなく、淡々と授業を受けていた。背筋を伸ばしたまま、ノートも取らず──いや、ノートを取っていないのは少しまずいけど──教科書をぺらぺらと静かに眺めていた。
正直、拍子抜けした。
◇
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、直也が自分の机をがたっと動かした。
「はい、合体」
直也が自分の席を僕の隣にくっつける。
「あ、名和さんたちも呼ぶ?」
直也が視線を巡らせると、名和さんはすでに虹林さんの机を押して移動を開始していた。行動が早い。
「もう来てる」
「銀華ちゃん、お昼一緒に食べよー」
名和さんが銀華の隣に陣取った。六つの机がガタガタとくっつけられて、即席の昼食テーブルが完成した。周りの生徒たちが少しだけ目を向けたけど、すぐに自分たちの昼食の準備に戻っていった。
銀華がフックからパンの紙袋を取り、中身を出した。バゲットのハーフと、白銀パン。僕もカレーパンとメロンパンを出す。
「おー白銀ベーカリーだ。朝買ったの?」
直也が目ざとく包装を見つけた。
「うん、行きで寄った」
「いいなー。俺はママの手作り弁当」
「旅館女将の弁当って豪華そうだけど」
「普通だよ。味はうまいけど」
慧士は購買で買ったと思われるサンドイッチを静かに広げていた。名和さんはお弁当箱。中身はカラフルで、女子力が高い。虹林さんもお弁当派で、こちらはシンプルなおにぎりが三つ。
食べ始める。銀華はバゲットを手に取り、一口齧った。ばりっと音がした。
「うわ、硬そっ」
直也が目を丸くした。
「フランスパン? よくそんなの齧れるね」
「問題ない。この硬さが良い」
銀華がばりばりとバゲットを齧っている。人間の顎で噛み切れるギリギリの硬さだと思うんだけど、銀華はまったく苦にしていない。竜の顎の名残、と言いたいところだが、人間形態でも顎の力がおかしいのは前からだ。
「銀華ちゃん顎つよ……」
名和さんがぽかんと口を開けている。隣の虹林さんもおにぎりの手を止めて見入っていた。
僕はカレーパンを食べながら、ずっと聞きたかったことを切り出した。
「ねえ、銀華」
「なんだ」
「授業、大丈夫だった?」
できるだけさりげなく、でも真剣に聞いた。周りにも聞こえるけれど、銀華が授業についていけるか心配するのは幼馴染として自然だろう。
銀華はバゲットをもう一口齧って、咀嚼して、飲み込んでから答えた。
「本の内容を覚えればいいのだろう」
平然としていた。
「え──覚えるって、何を?」
「教科書に書かれていることだ。先生が話していたことも、要するに本の中身の説明だった。なら、本を覚えればいい」
「いや、まあ、理屈としてはそうだけど──」
「私は覚えるのは得意だ」
銀華がこちらを見た。まっすぐな銀色の瞳。自慢しているわけでもなく、当たり前のことを述べている顔だ。
直也が口を挟んだ。
「え、岩見さんって記憶力いいの?」
「書いてあることは覚えられる」
「教科書の内容を一回読んで覚えるってこと?」
慧士が控えめに聞いた。
「一回ではない。四回読んだ」
「四回?」
「四回の授業があっただろう。先生の話を聞きながら、同時に教科書を繰り返し読んでいた」
「えっ、読むって、もしかして全部?」
「ああ。文字も大きかったから、すぐに読めた」
場が沈黙した。
四時間で教科書を四周。それは、記憶力がいいとかいう次元の話ではない気がする。銀竜の情報処理能力が、高校の教科書の文字量に対して全力を出した結果、余裕で回りきっているということだ。
直也が「すげー……」と呻いた。
「特に」
銀華が白銀パンに手を伸ばしながら、声の色が変わった。少しだけ、温度が上がった。
「『国語』というものが面白かった」
「国語?」
僕が聞き返すと、銀華はうなずいた。
「文字しかないのに、頭の中に絵が浮かんでくる」
白銀パンをちぎりながら、銀華は続けた。
「外国語の授業では知らない国の文字の並びでも、教科書の内容を使えば私の知った言葉になることに驚いた。理科の授業では、水が形を変える話が興味深かった。どれも事実なのだろう」
バゲットのかけらを指先でつまんで。
「国語は違った。書かれている文章は、起こっていないことを描いている。頭がそれを勝手に『景色』に変えてしまう。文字しかないのに、色が見える。匂いがする。知らない場所にいるような気持ちになる」
銀華が僕を見た。
「不思議だ……面白い」
その目が、きらきらしていた。
洞窟で初めてバゲットを食べたときの歓喜とは違う。少女漫画を貪るように読んでいたときとも違う。もっと静かで、もっと深いところで、何かに触れた目だった。
物語というものの力に、銀華は初めて正面からぶつかったのだ。
「やばくない? 銀華ちゃん、文系の才能あるんじゃ」
名和さんが興奮気味に身を乗り出した。
「最初の授業で教科書暗記って、どういうこと……」
「いやほんとに」と直也が同意する。「俺なんか国語の時間、五分で意識飛ぶのに」
「私だって内容がわかっているわけではない。まだ覚えただけだ」
「覚えてるだけで充分すごいよ……」
虹林さんが小さくつぶやいた。
僕はメロンパンを齧りながら、複雑な気持ちになっていた。
安堵はある。銀華が授業でパニックを起こす心配は、どうやら杞憂だったらしい。それは純粋に嬉しい。
でも、同時に。
僕の成績は、良くない。
良くないどころか、赤点ギリギリの科目がいくつかある。中学時代は山と洞窟に通い詰めていたせいで、テスト勉強をまともにやった記憶がほとんどない。そのツケが高校に来て、きっちり回ってくるだろう。
銀華は四時間で教科書を四周して「覚えるのは難しくない」と言った。
僕は四時間、銀華のことばかり気にして、自分のノートは白紙だった。
……ヤバいのは、銀華じゃない。
僕のほうだ。
圧倒的に。
「透、体調が悪いのか」
「なんでもない。メロンパンおいしい」
「嘘が下手だな」
「うるさいな」
銀華がふっと口元をゆるめた。
「旭日くん、もしかして成績やばい系?」
名和さんが遠慮なく聞いてきた。
「……ノーコメントで」
「あはは、やっぱり!」
ひどい。
昼食が進む。銀華は白銀パンを一口食べて、「柔らかい。これはこれで、悪くないが」という感想を述べた。もちもちした食感が新鮮だったらしい。しかしバゲットのほうが優位であることは揺るがないようで、残りのバゲットをばりばりと完食していた。
名和さんと虹林さんが銀華の好みについて質問を始めて、「硬い食べ物が好き」「柔らかいものも嫌いではないが物足りない」という銀華独自の食事哲学が展開された。
その合間に、僕は自分のメロンパンの最後のひとかけらを口に放り込みながら考えていた。
授業は大丈夫だった。
銀華は問題なくやっていける。むしろ、あっさりこなしてしまう側だった。言葉を知らない状態で、国語辞典をすらすらと読める知能と記憶力が、高校の授業程度に負けるはずがなかったのだ。どうして気づかなかったのか。
ともあれ、懸念していた難関のひとつがクリアされた。
あとは午後の授業を乗り切れば、二日目は無事に終わる。
五時間目。
そういえば、これは──。
僕はゆっくりと銀華を見た。バゲットの残骸を丁寧に紙袋にしまっている銀華の横顔は、どこまでも穏やかだった。
言うべきか。言わないべきか。言ったところで何が変わるわけでもない。
でも、午後に待ち受けている『あの科目』は、どうなんだろう。
嫌な予感がした。
嫌な予感は、だいたい当たる。




