第23話:銀華と一万円
火曜日の朝は、昨日より三十分早く家を出た。
おばあちゃんが「あら、今日は早いね」と言ったけど、「ちょっと寄るとこある」とだけ返した。細かい説明をする余裕がなかったというか、説明するとぼろが出そうだったから。
銀華のマンションは、学校と僕の家のちょうど中間くらいにある。築年数は浅くて、全体的にきれいなワンルーム。エントランスの前で立ち止まった。
305号室のインターホンを押す。数秒の沈黙のあと、がちゃ、と鍵の開く音。
扉が開いた。
「おはよう、透」
銀華が立っていた。インターフォンを教えておいてよかった。制服はちゃんと着ている。リボンの結び方は昨日より少し丁寧で、たぶん鏡を見ながら何度かやり直したのだと思う。銀色の髪は背中にまっすぐ流れていて、朝の光を受けて鈍く輝いている。
──やっぱり、とんでもなく綺麗だ。
「おはよう。準備できてる?」
「できている。今日も学校に行くのだな」
「行くよ。ていうか、しばらく毎日行くやつだからね、学校って」
「知っている。毎日だろう」
靴を履き替えて、銀華が外に出てきた。自動ドアが開いて朝の風が吹き込む。今朝は少しだけひんやりしていて、深呼吸すると肺の奥まで冷たかった。
並んで歩き始める。
昨日は、銀華と距離を取るべきかどうか迷っていた。隣を歩いているだけで注目を集めるのはわかっていたし、変に近いと余計な噂を呼ぶ。でも結局、「幼馴染」という看板をぶら下げることにしたのだから、不自然に避けるほうがまずい。
幼馴染なんだから、並んで歩くのは当たり前だ。朝一緒に登校するのも普通だ。何もおかしいことはない。
──と、頭ではわかっている。
わかっているけれど、すれ違う人たちの視線が痛い。
通学路に差しかかったあたりから、月銀高校の制服を着た生徒がちらほら見え始める。そのほぼ全員が、やっぱり銀華に目を奪われる。
胃がきりきりと痛んだ。
見られている。見られまくっている。僕単体では絶対にありえない視線の量だ。穴があったら入りたいし、できれば透明人間になりたいし、なんなら名前の通り透明になる能力に目覚めたい。
でも、逃げない。
隣にいるのは銀華で、銀華の正体を知っているのは僕だけで、僕が逃げたら銀華を守れる人間は誰もいないのだから。
「透」
「ん?」
「今日も顔色が悪い。大丈夫か」
「気にしないで」
銀華は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。助かった。
歩きながら、僕は今日のことを話し始めた。
「今日から授業が始まるんだけど」
「じゅぎょう」
「先生が前に立って、いろんなことを教えてくれる時間。国語とか、数学とか、科目ごとに分かれてる」
「教わるのか。透が私に色々教えてくれたように」
「まあ、そんな感じ。ただ、いくつかルールがあって」
銀華がまっすぐな目でこちらを見た。相変わらず聞く姿勢が真面目すぎる。
「まず、先生が話してるあいだは静かに座ってること。途中で立ち歩いたりしない」
「座っているだけで良いのか?」
「うん。あとは黒板に書かれたことをノートに写したり、先生に指されたら答えたり」
「指されたら?」
「名前を呼ばれて、質問されること。わからなかったら『わかりません』って言えば大丈夫」
「なるほど」
銀華は腕を組んで、数歩ぶん黙って歩いた。それから、しみじみとした声で言った。
「つまり授業とは、静かに我慢する時間なのだな」
「……まあ、間違ってはいない」
間違ってはいないけど、先生に聞かれたら怒られそうな要約だ。
「あと、今日はお昼ごはんの時間がある」
「昼食? 私は食べなくても問題ないが」
小声で返した。周りに生徒がいるので、あまり大きな声では言えない台詞だ。聞こえても銀華なら「小食な女の子」で通せそうだけど。
「だからこそ食べるんだよ。周りに合わせるのも大事だって話」
「三か条の延長か」
「そう。食べないと逆に目立つ。それに──」
少し考えて、付け加えた。
「せっかくだし、おいしいもの食べよう」
銀華の足が止まった。
振り向くと、銀華は瞳を少しだけ大きくして、こちらを見ていた。
「ちょっと寄り道するよ」
◇
白銀ベーカリーは、商店街のメインストリートから一本裏に入った場所にある。
観光客向けの派手な看板が並ぶ通りとは違って、このあたりは地元民の生活圏だ。古い住宅の合間に、白い壁と木目の扉が覗いている。小さな黒板に「本日のおすすめ」がチョークで手書きされていて、開店時間は朝七時。今はちょうど七時半くらいだから、開いているはずだ。
扉を押し開け、ベルが鳴った。
その瞬間、焼きたてのパンの匂いが押し寄せてきた。小麦とバターが溶け合った、ぶわっとした熱気。オーブンの余韻がまだ漂っている店内に、木のトレイとトングが整然と並んでいる。
棚には、パンがぎっしり詰まっていた。
丸いの、四角いの、ねじれたの、こんがりしたの、白くてもちもちしたの。上にチーズが乗っているやつ、中にクリームが入っているやつ、ソーセージが突き刺さっているやつ。見た目も形も色も、ぜんぶ違う。
隣で、銀華が息を呑んだ。
比喩じゃなくて、本当に呼吸が止まっていた。
銀色の瞳が棚の端から端まで移動して、それからもう一度最初に戻って、三往復くらいした。口が半開きになっている。
「透」
「うん」
「これは、すべてパンなのか」
「うん。ぜんぶパン。種類が違うだけ」
「すべて違う顔をしている」
銀華の声が、かすかに上ずっていた。
奥の工房からは、こわもてだけど陽気な店主──黒岩さんの太い腕がちらりと見える。仕込みの真っ最中らしく、生地をこねる音がリズミカルに響いている。レジのところには女性の店員、たぶん黒岩さんの奥さんが立っていた。僕とは面識があまりないけれど、おっとりした雰囲気の人だ。店員さんは僕たちに気づいて、ぺこりとお辞儀した。
僕はトレイとトングを一つずつ取って、銀華に渡した。
「好きなの、いくつか選ぶんだ。トングでつかんで、このトレイに乗せる」
銀華はトングを受け取って、まじまじと見つめた。開いたり閉じたりを二回繰り返してから、武器でも扱うみたいに慎重に構えた。
「では……あのパンは何だ」
「え? どれ」
「あの、茶色くて、硬そうなやつ」
「フランスパン……のハーフかな。けっこう硬いよ」
銀華の目がきらりと光った。
「硬いのか」
銀華はフランスパンの前に立って、しばらくじっと観察した。それから慎重にトングを伸ばし、紙袋に入ったハーフサイズのバゲットをつかんだ。トレイに乗せると、小さくうなずいた。
「では、次を選ぶ」
「お、はりきってるね」
「あの白いのは何だ」
「白銀パン。この店の看板商品。もちもちしてる」
「もちもち」
「柔らかくて、歯ごたえが独特で──」
「私は硬いほうが好みだ」
「持って行っても食べなかったやつね。でも一回食べてみなよ。おいしいから」
銀華は白銀パンとバゲットを見比べた。何か深遠なことを考えているような真剣な顔をしている。パンの選択にここまでの思慮を費やす人間は、僕は見たことがない。
「……両方にしよう」
「いいね」
白銀パンがトレイに加わった。
「あの、中に赤いものが見えるのは?」
「あんパン。中にあんこっていう甘い豆のペーストが入ってる」
「豆なのに甘いのか」
「この国のパンは自由なんだよ」
「自由……」
銀華はあんパンの前でまた立ち止まり、トングを構えたまま動かなくなった。僕は時計をちらっと見た。このペースだと遅刻する。
「銀華、そろそろ決めないと授業に間に合わないから」
「わかった」
あんパンはやめたらしい。合計ふたつ。バゲットと、白銀パン。
「じゃあ僕のぶんも選んで、お会計しよう」
僕はカレーパンとメロンパンを手早くトレイに載せた。銀華の分と合わせて五つ。
レジに向かう。店員さんが「おまとめでよろしいですか?」ときいた。
「あ、はい──」
「私が出す」
銀華が一歩前に出た。
制服のポケットから、財布を取り出した。マンションに置いてあったものだろう、シンプルな革の長財布だ。銀華は財布を開いた。中には神無月先生からもらったお小遣いが入っていて、紙幣が数枚見える。
その中から、銀華は一万円札を一枚、ゆっくりと抜き取った。
両手で──ほんとうに、両手で一万円を持って、めぐみさんに差し出した。
指先がほんの少しだけ、震えていた。
「これで、頼む」
店員さんはきょとんとした顔を一瞬だけ見せたけれど、すぐにふわりと笑った。
「かしこまりました。えーと、四点で……八百八十円になります」
レジが打たれて、一万円札が吸い込まれた。お釣りが出てくる。
お釣りを丁寧に渡してくれた。銀華は両手でそれを受け取って、千円札を一枚ずつ確かめるように見つめた。
「ありがとうございます。いってらっしゃい」
手まで振ってくれた。僕は頭を下げて、パンの袋を受け取った。
店を出た。ベルがちりんと鳴って、扉が閉まる。町の通りに、焼きたてパンの匂いを連れたまま歩き出した。
「銀華」
「なんだ」
「さっきのふたつで、大体五百円くらいだよ」
「五百円」
「うん。一万円のうちの、五百円」
銀華は足を止めた。
手の中のお釣り──九枚の千円札と、小銭を見つめた。それから、もう片方の手に提げたパンの紙袋を見た。お釣りと紙袋を、交互に見比べた。
「これで……」
声が、静かだった。
「この紙一枚で、パンが何十個ももらえるのか」
「まあ、ざっくり計算すると四十個以上は買えるかな」
「四十個……」
銀華は信じられないという顔で千円札を一枚持ち上げた。朝日に透かすみたいに、光に当てて見ている。
「すごいな」
ぽつりと呟いた。
「この、薄い紙切れが」
「紙切れって言うと身も蓋もないけど……まあ、そうだね」
「私は知らなかった。お金とは、こういうものだったのか」
銀華の声には、昨日のハンバーガーのときとも、洞窟でバゲットを食べたときとも違う、しんとした重みがあった。驚きや感動の前に、まず理解しようとしている。この薄い紙に宿っている力の正体を、自分の中で組み立てようとしている。
「透が前に教えてくれたな。『お金は信用だ』と」
「うん、言った」
「紙切れ自体に価値があるのではなく、人間の全員が『これに価値がある』と信じているから成り立つ仕組みだと」
「よく覚えてるね」
銀華はお釣りを丁寧に財布に戻した。千円札を一枚一枚、向きを揃えて、皺がよらないように。小銭も、手のひらで転がさないように、指先でつまんで小銭入れに落とした。
それから、財布をぎゅっと握りしめた。
胸の前で、大事そうに。
「大事に使わないとな」
その横顔に、僕は少しだけ見とれてしまった。
洞窟にいたころの銀華なら、たぶんお金の概念は理解しても、こういう顔はしなかった。
銀華はたった今、人間社会の「買い物」を自分の手でやり遂げた。
「透」
「ん?」
「パン、少し匂いをかいでもいいか」
「どうぞ」
銀華が紙袋の口を開いて、鼻を近づけた。ふんわりと立ち上る小麦の匂い。銀華の表情が、すっとほどけた。
「……いい匂いだ」
「でしょ。昼が楽しみだね」
「ああ。楽しみだ」
銀華が紙袋を閉じて、大事に抱え直した。財布はポケットにしまった。
歩き出す。学校まであと十分ちょっと。空は青くて、雲は薄くて、パンの匂いがする。
視線は相変わらず突き刺さっていたけれど、銀華がパンの袋を嬉しそうに抱えているのを見ていたら、胃の痛みがちょっとだけましになった気がした。
「透」
「なに?」
「パンは何十個も買えるが、私はふたつで十分だ」
「うん。普通はそうだよ」
「だが、ぜんぶを食べてみたいとも思った」
「それは──まあ、何日かに分ければいいんじゃない」
「そうか。明日も来ていいのか」
「いいよ。僕もここのパン好きだし」
銀華の唇が、ほんのわずかに持ち上がった。あの穏やかな微笑みだ。
「では、明日はあの、中に豆が入っていたやつを試す」
「あんパン?」
「ああ。面白い名前だ」
メモでも取りたそうな目をしている。パンの名前がそんなに面白いのか。
朝の通学路を、パンのいい匂いと一緒に歩いていく。
昨日と同じ道なのに、少しだけ軽い。隣に銀華がいて、銀華がパンの袋を大事に抱えていて、財布をぎゅっと握りしめていたときの真剣な横顔がまだ目に残っている。
幼馴染、という嘘。見られることへの居心地の悪さ。それは全部消えたわけじゃないけど。
今の僕を支えているのは、銀華が今日もちょっとだけ人間に近づいたという、それだけの事実だった。




