第21話:銀華とハンバーガー
一歩を踏み出した、はずだった。
背中を押すように足を動かしたのに、横から肩をぐいっと押されて、僕は半歩よろけた。
「ほらほら、どいたどいたー」
直也だった。
かばんを肩に引っ掛けたまま、あの適当な調子でクラスメイトの輪にずかずかと割り込んでいく。待ち合わせに遅刻してきた友達を迎えに行くみたいな、雑で気楽で、何の気負いもない足取り。
「わ、高坂くん?」
「なに、邪魔しないでよ」
女子たちが困惑して道をあけた。その隙間から慧士がすっと手を伸ばし、銀華の腕を軽く引いた。
「岩見さん、行こう」
慧士の声は落ち着いていた。銀華は一瞬きょとんとしたけれど、抵抗なく席を立った。
「岩見さんは俺らが連れてくわー。じゃあなー」
直也がひらひらと手を振りながら、銀華と慧士を促して教室の出口に向かう。振り返りもしない。まるで最初からこうするつもりだったみたいに。
教室に残されたクラスメイトたちが、数秒間、ぽかんとしていた。瀬田くんが何か言いかけて口を閉じたのが見えた。
僕は、呆然と立ち尽くしていた。
足が動かない。さっき踏み出したはずの一歩が、結局は直也の背中に追い越された。
「透! 何してんの、行くよ!」
廊下から直也の声が飛んできて、我に返った。慌ててかばんを掴み、教室を飛び出す。
空気が一気に軽くなった。
銀華は慧士の隣に立って、まだ少しぼんやりしていた。さっきまでの質問の嵐から解放されて、感覚が追いついていないのかもしれない。
「はー……」
直也が壁にもたれかかって、大きく息を吐いた。
「すっげえ疲れた」
「疲れたって、三十秒くらいの出来事だったろ」
「三十秒が限界だったんだよ。あの人数の前でよくわかんねえこと言って突っ込んでいくの、俺でも流石に気つかうんだわ」
直也がかばんの紐を握りしめている。指先が少し白い。
「あ……」
慧士がぽつりと呟いた。
「足、まだ震えてる」
自分の膝を見下ろしている。確かにわずかに揺れていた。慧士が自分の身体症状を人に見せるのは珍しい。
「あはは。俺もだわ」
直也がそう言って、にかっと笑った。ぜんぜん笑い事じゃないのに、こいつはこういうとき笑う。
「あ……あの、二人とも」
声が上擦った。言いたいことは山ほどあるのに、口から出てきたのはそれだけだった。
「ぜんっぜん納得してないからな」
直也がびしっと指を突きつけてきた。
「お前と岩見さんがどういう関係かとか、なんで名前呼びなのかとか、説明してもらうことは山ほどある。山ほどだからな」
「うん……」
「でもまあ、友達なんだろ? お前」
噛みつくような口調なのに、目は真っ直ぐだった。
「……うん」
「二人とも困ってたし」慧士が静かに付け足した。「見てられなかった」
胸の奥がじわっと熱くなった。
こいつらも、本当はびびってたんだ。それでも僕より先に動いた。僕が一歩を踏み出すより前に、この二人はもう走り出していた。
「……ありがとう」
「おう」
直也が軽く言って、かばんを肩に担ぎ直した。
「よし、このまま帰んのもなんだし。腹減った。岩見さんも一緒にメシ食いに行くか」
「行こうよ」
話がまとまったのかまとまってないのかわからないまま、直也が歩き出す。慧士がその後ろに続き、銀華が僕の横に並んだ。
銀華は、少し不思議そうな顔をしていた。
昇降口を出て、校門を抜けた。
四月の夕暮れは空の色が妙に鮮やかで、薄い雲の端が茜色に燃えている。直也が「駅前のとこ行くか」と言い、慧士が「あそこは混む」と返し、「じゃあちょっと先のハンバーガー屋」と軌道修正された。
四人並んで歩いていると、不意に銀華が足を止めた。
すん、と鼻先を持ち上げるように後ろを振り返っている。
「……後ろに、人がいる」
「え?」
僕も振り返った。直也と慧士も足を止める。
電柱の陰に、隠れきれていない人影が一つ。長い髪。見覚えのあるシルエット。
銀華が一歩、そちらに近づいた。
「……澄香だ」
「っ──」
名和澄香は、電柱から半分だけ顔を出して固まった。
「えっ、わ、見つかった……」
「銀華、知り合いだったの?」
僕が聞き返すと、銀華がこちらを向いた。
「入学式の朝だ。学校に向かう途中、桜の木の前で声をかけてくれた。……写真を一緒に撮った」
初耳だった。入学式の日、銀華が朝の時点で誰かと会っていたなんて。だから名和さん、銀華が気になって生活指導室まで来てたのかもな。
「写真?」
「ああ。ツーショットとやらを、澄香が教えてくれた」
澄香はおずおずと電柱の陰から出てきて、かばんを両手で握りしめながら早口で言った。
「あのね、別にストーカーとかじゃなくて。私も銀華ちゃんと帰りたかったの。でもあのとき教室のあの、人だかりの中にはさすがに入れなくて。それで出てくるの待ってたら、君たちがぱーっと連れて行っちゃったから、えっと、ついてきちゃった、みたいな……」
一息で喋り切って、ぷはっと息を吐く。
慧士が僕のほうを見た。どうする、という目。
「……一緒に行く?」
名和さんも転校生のはずだし、銀華と面識もあるなら大丈夫だろう。
「いいの!? やったー!」
澄香がぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。銀華の隣に並んで、嬉しそうに息を弾ませている。
こうして四人は五人になった。
◇
ハンバーガーショップは、駅前通りから一本入った場所にある小さな店。赤と黄色の看板が夕日に光っている。月銀町にチェーン店はあまりないから、ここは数少ないファストフードの一つだ。
カウンターで注文する段になって、銀華が固まった。
「透。この……目の前の板に書かれているものは、何だ」
「メニュー。食べたいものを選ぶんだよ」
「食べたいもの……」
銀華がメニューの写真を一枚一枚、目を細めて見つめている。ハンバーガー、チーズバーガー、テリヤキバーガー、チキンナゲット、フライドポテト、シェイク。
「どれがいいかわからないなら、とりあえず一番上の」
「一番上」
「はんば……はんばーがー」
「そう。あとポテトとドリンクのセットで」
澄香が「私チーズバーガー!」と元気よく叫び、直也がテリヤキを選び、慧士がチキンナゲットを頼んだ。僕はチーズバーガーにした。
番号札を受け取って、窓際のボックス席に五人で詰め込まれるように座った。直也と慧士と澄香が片側、僕と銀華がもう片側。少し窮屈だけど、この距離感が妙に心地よかった。
「ねえ銀華ちゃん、さっきの教室、大丈夫だった?」
澄香が身を乗り出して聞いた。
銀華は少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「……嵐のようだった」
「嵐」
「大勢の人間が一斉に話しかけてくるのは、初めてだった。一つ一つ答えようとして、次の質問が来るのが速すぎて、何を聞かれているのかわからなくなった」
静かな声だった。困っていたのではなく、本当に理解が追いつかなかったのだ。洞窟で暮らしていたころは、話す相手は僕一人だけだった。それが一気に十何人になれば、そうなるのは当然だ。
「でもみんな悪気があったわけじゃないと思うよ」澄香がフォローした。「銀華ちゃんと、みんな仲良くなりたかっただけで」
「仲良く」
その単語を噛みしめるように繰り返した。
「みんな、仲良くなりたかった、のか」
「そうそう」
「……そうか」
銀華の表情が少しだけ柔らかくなった。
そのとき、トレイが運ばれてきた。
紙に包まれたハンバーガーと、赤い容器に山盛りのフライドポテト。コーラのカップに細いストローが刺さっている。ハンバーガーショップの匂い──肉が焼ける油のにおいと、ほんのり甘いケチャップの香りが一気にテーブルに広がった。
銀華が目を見開いた。
「これは……」
「ハンバーガー。さっき頼んだやつ」
「包みを開けるのか」
「うん。こうやって」
僕が自分のチーズバーガーの紙をめくって見せると、銀華も見よう見まねで包装を開いた。中から現れたのは、レタスと肉とパンが重なった丸い塊。
銀華はそれをじっと見つめてから、両手で持ち上げて、大きく口を開けてかぶりついた。
がぶり。
咀嚼が始まった。ゆっくり、丁寧に、口の中で味を確かめるように。
五秒ほどの沈黙があった。
それから、銀華の瞳がぱっと輝いた。
「──良い」
声が跳ねていた。洞窟でバゲットを食べたときの反応に似ているけど、もっとストレートだった。
「おいしい、透。これは、おいしい」
「よかった」
「肉の……この、じゅわっとした汁と、甘いのと、それから葉の歯ざわりが同時に来る。こんな食べ物があるのか」
「フライドポテトもいけるよ」
僕がポテトを指さすと、銀華は一本つまんで口に入れた。
ぱりっ、と小気味のいい音が聞こえた。
「……これも、良い。塩が、いい」
「わかるー! ポテトの塩って最高だよね!」
澄香が声を上げて、自分のポテトを頬張った。
「コーラも飲む?」
銀華がストローに口をつけて、一口吸った。
途端に目を丸くして、口元を押さえた。
「っ……泡が、口の中で弾ける」
「炭酸だよ。大丈夫?」
「大丈夫だ。……不思議な水だ。しゅわしゅわする」
二口目を吸って、今度はゆっくり口の中で転がすように味わっている。
「甘い。……甘くて、泡が弾ける」
銀華がポテトとハンバーガーを交互に食べ始めた。その手つきは最初のぎこちなさが嘘のように滑らかで、夢中になっているのが目に見えてわかった。
直也が僕の肩を肘でつついた。
「すげー食うな、岩見さん」
「うん。食べるの好きなんだよ、あいつ」
あいつ、と口にしてから、ちょっと馴れ馴れしかったかと思った。でも直也は特に突っ込まなかった。別のことが気になっていたらしい。
「つーか、ハンバーガー食べたことなかったの? 岩見さん」
向かいの席で銀華がポテトに夢中になっているのを見ながら、直也がこちらに小声で聞いてきた。
「炭酸も知らないってさ、どういう育ちなの。お嬢様?」
慧士が自分のナゲットをつまみながら、静かに付け加えた。名和さんも聞き耳を立ててる。
「……まあ、そんなとこかも」
「えー、マジ?」
「ちょっと特殊な環境で育ったんだよ。ジャンクフードとかコンビニとか、そういうのに縁がなかったっていうか」
嘘じゃない。洞窟暮らしにファストフードの文化があるわけがない。
「確かに、なんか品があるもん」名和さんが小さな声で関心している。
「顎の力はすごいけどね」
「え、何それ」
「ううん、何でもない」
銀華がハンバーガーの最後の一口を飲み込んで、満足そうに息をつく。
「ごちそうさま」
この言葉はいつ覚えたのかは知らない。でもちゃんと使えている。
肩の力が、ようやく抜けた。
教室でのあの緊張が、銀華のSOSが、自分の情けなさが、全部まとめて遠くなった気がして。ここの雑な空気が、今はただ温かかった。
「さて」
直也がズズッとコーラを吸いきって、カップを置いた。
腕を組んで、にやっと笑った。
「それじゃ透。お前らの関係、教えろよ」
隣で慧士が静かに頷いている。
甘かった。そりゃそうだ。
このまま見逃してくれるわけ、ないじゃん。




