第2話:スマホのサイズは銀竜の鱗とだいたい同じ
スマートフォン。
卒業祝い、という名目で今朝買ってもらった。
シルバーの筐体。小型だが画面が大きくて薄い、最新とは言えないが僕にとっては初めての一台だった。父さんが「高校生になるんだから」と言い、母さんが「壊さないでね」と念を押し、電器屋のカウンターで店員さんが丁寧に初期設定をしてくれた。
真っ先に見せたい相手は決まっていた。
春休み初日。昼過ぎの山道を登りながら、僕はポケットのスマホを何度も確認した。ちゃんと入ってる。充電は58パーセント。
岩と灌木の隙間をくぐり、暗い通路を進み、銀の鉱脈がぼんやりと光る空間を抜ける。もう体が覚えている道だ。祠の奥、さらに先へ。
広間に出ると、銀華はいつもの岩に腰掛けていた。膝の上に開かれた漫画はなく、代わりに国語辞典を抱えている。ぱらぱらとページをめくる指先が止まり、銀色の瞳がこちらを向いた。
「透」
「よう。今日は辞書?」
「『ふ』の項目を読んでいた。『不可解』、『不条理』、『不思議』。否定の接頭辞がつくと、意味が反転するのに響きが柔らかくなる。面白いな」
何を言っているのか、半分くらいしかわからない。でも楽しそうなのでいいか。
「今日さ、見せたいものがあるんだけど」
僕は銀華に近づきながら、リュックのサイドポケットからスマホを取り出した。シルバーの背面が洞窟の光を反射して、ちらりと白く光る。
我ながら、いい演出だった。
「これ。スマートフォン。スマホっていうやつ」
銀華は辞書を脇に置いて、身を乗り出すように僕の手元を覗き込んだ。銀色の髪がさらりと揺れる。
「……板」
「板じゃないって。すごいんだよ、これ。電話ができて、写真が撮れて、世界中の情報にアクセスできて――」
「銀色の板」
力説を遮られた。銀華は僕の手のスマホをまじまじと眺め回した。
しゃがみこんで、背面を見だした。画面側には興味を示さず、背面のシルバーの質感ばかり確認している。
ふと、銀華が立ち上がった。広間の隅、岩壁の窪みに歩み寄り、そこに溜められたものを一枚つまみ上げる。
銀竜の鱗。
竜のときに自然と剥がれ落ちた鱗を、銀華はなぜか律儀に集めて窪みに貯めている。純銀かもしれない薄い板状の鱗は、洞窟の光を受けて鈍く輝いていた。
銀華はその鱗と、僕のスマホを並べた。
横幅。ほぼ同じ。
縦の長さ。だいたい同じ。
厚み。鱗のほうがやや薄いが、まあ似たようなもの。
「一緒だ」
「いや、全然違うよ。これはカガクの結晶で、鱗とは――」
「形は違うが、色が似ている」
確かに似ているかも。シルバーのスマホと銀の鱗。僕がこの色を選んだのは、そりゃあ、意識したけど。
銀華は鱗を窪みに戻す。興味を失ったわけではないらしく、まだ視線はスマホに注がれている。ただ、その目は「珍しい鱗だ」と言いたげだった。
出鼻をくじかれた気分。
でも、ここからだ。スマホの本領は外側じゃない。
「いいか、銀華。このスマホの本当にすごいところを見せてやる」
「見せて」
素直な返答で目を丸くする銀華。それに気を良くして、僕は画面のロックを解除した。買ってすぐに撮った写真を見せようと、カメラロールを開こうとして――
どこだろ。
指が止まった。
買って1日も経っていない。アプリの配置もろくに覚えていない。ホーム画面をスワイプして、それらしいアイコンを探す。これか。変なの出てきた。戻る。えっと。
「……何をしているの」
「ちょっと待って。写真を出そうとしてるんだけど」
銀華が首を傾げてこちらを見ている。長い時を生きた存在の前で、スマホの操作に手間取る十五歳。
ようやく写真アプリを見つけてタップした。サムネイルが並ぶ。
「よし。これ見て」
僕は最初の写真を開いて、銀華に画面を向けた。
銀華はしばらく画面を見つめた。
「景色か」
「そう。外の風景」
今朝、試し撮りの一枚。うちの家の門と、奥に見える柿の木と空……のはずだけど。
「漫画の背景と似ているが……違う」
「え、違う?」
「揺れている。すべてが少しだけ歪んで――今の木は、こういう形をしているのか」
していない。柿の木は一本だし、こんなにぶれていない。
ただの手振れです、と言いたかった。言いたかったが、銀華は真剣な顔で画面を分析している。漫画の風景画と現実の写真を比較して、その差異を理解しようとしている。そこに「僕の撮り方が下手なだけです」という真実を告げるのは、なかなかに気まずい。
「……まあ、ちょっと特殊な撮り方をしたから」
苦しい言い訳をしながら、次の写真にスワイプした。
商店街の通り。やはり手振れ。人の顔は判別できず、のぼりの文字も読めない。
次。道端の猫。猫は画面の端にかろうじて写っていて、メインは僕の指。
次。飛んでいる鳥。これは比較的マシだったが、電線が主役になっている。
「透」
「何」
「よくわからない」
銀華の目が、静かに僕を見ていた。責めているわけではない。純粋な疑問。それが余計にこたえる。
「……本当は、もっとすごい機能があるんだよ」
僕は写真アプリを閉じて、ブラウザを開いた。インターネット。これを見せれば一発で理解してもらえるはずだ。世界中の情報が、この小さな板の中に――
画面の上部に表示された文字を見て、僕は固まった。
圏外。
「繋がりません、と書いているぞ。ここから何が起こるんだ」
「……何も」
「何も?」
当たり前だ。ここは山の中の洞窟の、さらに奥深く。電波なんか届くわけがない。買ったときの興奮で、そんな基本的なことを完全に失念していた。
「インターネットっていう……世界中の情報を見られる機能が。ここだと電波が届かなくて」
銀華は僕の顔と、画面に表示された「圏外」の二文字を交互に見た。
「つまり、ここではできないということか」
「……はい」
敬語になった。
銀華は特に落胆した様子もなく、岩に腰を下ろし直した。元の姿勢に戻ると、脇に置いた国語辞典の表紙を指先でなぞる。
「鱗は鱗だな」
とどめを刺された。
僕は無言でスマホを膝の上に置いた。シルバーの筐体が洞窟の光をぼんやり映している。
このままでは本当にただのポンコツ板で終わってしまう。何かないか。電波がなくても使える機能。この場で、銀華に「すごい」と思わせるもの。
カメラだ。
写真を撮るだけなら、電波は関係ない。さっきの手振れ写真は僕の腕の問題であって、カメラの性能は関係ない。落ち着いて撮れば、ちゃんと写るはずだ。
「銀華」
「何だ」
「ひとつだけ、試させて。竜になってくれないか」
銀華は少し首を傾げた。
「なぜ」
「この板がただの鱗じゃないってことを、証明する」
理由としては弱い。でも銀華は数秒だけ考えて、それから小さく頷いた。
少女の輪郭が揺らぐ。光が膨張し、岩の上の小さな体が巨大な銀色の体躯へと変わっていく。鱗が次々と連なり、長い首が天井へ伸びる。羽のないほっそりとした竜が、広間の半分を占めるように横たわった。
銀の鱗がゆるやかに明滅する。洞窟に沈殿した光が、竜の体表で反射と屈折を繰り返して、空間全体を淡く照らしていた。
僕は息を整えて、スマホを構えた。
今度は落ち着いて。両手でしっかり持つ。脇を締める。ぶれないように。
銀華の竜形態の全身は収まらない。だから、顔を中心に。銀色の瞳がまっすぐにレンズを見つめている。鱗の一枚一枚に洞窟の光が映り込んで、鏡のように揺れている。
シャッターを切った。
小さな電子音が広間に響いた。銀華の首がぴくりと動く。
撮れた写真を確認する。
――きれいに写っている。
手振れなし。銀竜の顔が画面の中央にある。瞳の中に光が差し込み、鱗のきめ細かい質感が一枚一枚判別できる。口元の牙がわずかに覗いて、ほっそりした顎のラインから首へ、そして体へと銀色が続いている。洞窟の背景のぼんやりした光が、竜の輪郭を際立たせていた。
僕はスマホの画面を、銀華の目の前に掲げた。
竜の巨大な瞳が、小さな画面に焦点を合わせる。
数秒、沈黙が降りた。
銀華の首がゆっくりと画面に近づいた。鼻先が触れそうな距離。吐息で僕の髪が揺れる。
尾が床を叩いた。一度、ゆっくりと。
それから銀華は人間の形に戻った。光が収束し、銀色の少女が岩の上に降り立つ。表情がいつもより柔らかい。
「もう一度、見せてくれ」
僕が画面を差し出すと、銀華は両手でスマホを受け取った。さっきとは違う。慎重に、壊れ物を扱うように。画面の中の竜の写真を、食い入るように見つめている。
「これは」
言葉を探しているようだった。鱗だと笑ったときの軽い声とは違う。
「……これは、良い」
銀華の声に、はっきりとした感情が乗っていた。画面を指先でそっとなぞる。写真の中の自分の鱗を、確かめるように。
「私はこう見えているのか」
「うん。僕にはこう見えてる」
銀華はしばらく黙って写真を見つめ、それから僕に視線を移した。
「この板は、今のこの瞬間を、閉じ込めることができるのか」
「まあ、そういうことも出来る」
「漫画は絵が集まったものだろう。でもこれは、今ここで撮ったものだ。この場所の、この光の、今の私を」
僕は頷いた。銀華がスマホの価値を理解した瞬間が、わかった気がした。インターネットでも写真ギャラリーでもなく、「今この瞬間を記録できる」という一点。ずっと変わらない洞窟で過ごしてきた銀華にとって、「今を切り取る」ということは、僕が思っていたよりずっと鮮烈だったのかもしれない。
銀華はスマホを返しながら、画面をもう一度ちらりと見た。名残惜しそうに。
「ここではそのインターネットというのは使えないのだったな」
「うん。でも、外で準備してくれば、ここでも見せられると思うから。次はちゃんと準備してくる」
「待つ」
短い返事。
僕はスマホをポケットにしまい、代わりにリュックから菓子パンを取り出した。今日はふたつ買ってきた。ひとつを銀華に投げる。銀華は片手でそれを受け取ると、慣れた手つきで袋を開いた。
「この板」
「ん?」
「また見せてくれ」
菓子パンをかじりながら、銀華がぽつりと言った。視線は手元のパンに落ちている。
「いいよ」
当たり前だろ、と思ったけれど、口には出さなかった。銀華にとってはきっと、当たり前じゃない。
シルバーのスマホと銀竜の鱗は、だいたい同じサイズ。
でも片方には、今日の銀華が収まっている。




