第15話:銀竜と入学式
桜が、本気だった。
通学路の両脇に並ぶソメイヨシノが一斉に咲き切っていて、花びらが風に煽られるたびに視界が淡いピンクで埋まる。真新しいブレザーの肩にも、鞄にも、容赦なく花びらが落ちてくる。払っても払ってもキリがないから途中で諦めた。
「いやさ、聞いてくれよ」
隣を歩く直也が、今朝三回目くらいの前置きをした。
「うちのジオ坊なんだけどさ」
「また?」
「いいからいいから。昨日さ、手の上に乗せてたらさ、丸くなってそのまま寝ちゃったんだよ。俺の手の上で。指の付け根のあたりにちょこんと頭乗っけてさ、スースーって」
直也の顔が、完全にだらしなく緩んでいる。ジオ坊というのは春休みの終わりに直也が庭で拾った謎の生き物で、直也はペットとしてえらく可愛がっている。エイプリルフールに送ってきた「ツチノコ見つけた」という写真の、あの生き物だ。
……そもそも生き物だったのか、あれ。
「お前さ、そんなに毎日報告するほど?」
反対側を歩く慧士が呆れ混じりに言った。慧士は今日も身だしなみが整っている。真新しい制服なのに、着慣れた私服みたいに馴染んでいるのはさすがだった。
「毎日じゃねえよ。今日が二日目だ」
「昨日も聞いた」
「昨日はまた別の話だろ。昨日は餌食べたって話で、今日は寝たって話」
直也が胸を張る。慧士が小さく息をついた。
僕は二人の会話を聞きながら、困ったことに脳の片隅が勝手に別のことを考えていた。
手の上で丸くなって寝る。
それだけの話なのに、昨日の感触が蘇ってきてしまう。岩の上で隣に座っていた銀華の体温。こつん、と肩に触れた重さ。スー、スーという、静かな寝息。
「透? 顔赤くね?」
「いや、暑いだけ」
「四月だぞ」
「日差しが強い」
直也が怪しげな目を向けてきたけど、それ以上は追及しなかった。
月銀高校の校門が見えてきた。中学と同じ方向なのに景色が違って見えるのは、制服が変わったせいか、それとも気持ちの問題か。門の前で立ち止まって新入生のクラス掲示を確認する人だかりができている。
「あ、同じクラスだ」
直也が指で掲示を追いながら言った。僕の名前と直也の名前、それから慧士の名前が同じ列に並んでいるのが見えた。
「三人とも一緒か」
慧士がほっとしたように息をついた。表情はほとんど変わっていないけど、声に安堵が混じっている。
「よかった。知らない人ばっかりだったらどうしようかと思った」
「こんなちっさい町でそれはねーだろ」と直也が笑った。
体育館は人でいっぱいだった。
新入生が前方のパイプ椅子に座り、後方に保護者がずらりと並んでいる。ステージの上には「入学式」の横断幕。金文字だけど、飾りっ気はない。
校長の挨拶が始まった。
長い。
入学を祝う言葉、学校の歴史、教育方針。大事なことを言っているのはわかるけど、声のトーンが一定すぎて内容が頭に入ってこない。隣で直也が小さくあくびを噛み殺している。慧士は姿勢よく前を向いていたけど、たぶん何も聞いていない。頭の中で猫の動画でも再生しているだろう。
校長挨拶が終わり、「続きまして、今年度より新任教頭として着任されました、神無月迅先生よりご挨拶をいただきます」とアナウンスが流れた。
ステージの袖から一人の男性が現れた。
三十代くらいの、落ち着いた雰囲気の人だった。スーツの着こなしに隙がなく、歩き方が妙に静かだ。足音がほとんどしない。マイクの前に立ち、会場をゆっくりと見渡した。
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。教頭の神無月です」
静かで低い声だった。短い言葉なのに、体育館の空気がすっと引き締まる。さっきまで退屈で弛緩していた空間が、この人の声ひとつで変わった。
「皆さんの高校生活が、実り多いものになることを願っています。以上です」
短かった。校長の十分の一くらいの長さだった。拍手が起こる中、神無月教頭はステージの袖に戻っていく。
「短っ」と直也が小声で言った。「でもなんか、すげえ存在感あったな」
「うん」
同感だった。あの人がマイクの前に立っただけで、何か見えない圧があった。うまく言えないけど、教師というよりもっと別の何かのような──いや、考えすぎか。
「なあ、聞いた?」
前の列から声が届いた。知らない男子が、隣の男子と耳打ちしている。
「うちの学年に、めっちゃ美人が入学してるらしいぞ」
「マジ? どのクラス?」
「わかんねえけど、さっき女子の間で話題になってた。やばいくらい綺麗だって」
僕は直也と顔を見合わせた。
「聞いた?」
「聞いた聞いた。美人がいるって噂」
「入学式初日からそういう話出るか?」
「適当な噂だろ」と直也が肩をすくめた。「こんな田舎の高校に、そんなのいるわけねーし」
「まあ、そうだよな」
慧士も特に興味なさげに頷いた。
三人で「まあないだろう」と片づけて、それきり忘れた。
入学式が終わって、教室に移動した。
「高校でもいつものメンツか」
直也が席に着きながら笑った。
「安心した」と慧士が言って、筆箱を出した。
「なんかさ、もっと緊張するのかと思ってた」
鞄を机の横のフックにかけながら言った。確かに昨日の夜は眠れなくて、朝は胃がきゅっとしたけど、こうして見覚えのある顔が近くにあると落ち着く。中学の延長みたいな錯覚さえ覚える。
担任が来た。三十代半ばくらいの女性。配布物が配られ、時間割の説明、ロッカーの使い方、提出物の締切。初日の光景だった。
ホームルームが終わりかけた。担任が「何か質問がある人は──」と言いかけたところで、教室の入り口にノックの音がした。
扉が開いて、入ってきたのは新任教頭の神無月だった。
担任が驚いた顔で「教頭先生?」と立ち上がる。教室中の視線が一斉にそちらを向いた。教頭がわざわざ教室に来るなんて、初日にしたって変だろう。
神無月は教室の中をゆっくりと見渡した。一瞬、僕の方を見た。体育館で感じたのと同じ、見透かされるような視線だった。
「失礼します。今日、事情があって入学式に出席できなかった生徒が一名います」
声は落ち着いていた。
「このクラスに配属になりますので、紹介します」
教室がざわついた。初日から欠席する新入生なんて珍しい。直也が「転入生?」と首を傾げ、慧士も視線を入り口に向けた。
神無月が扉の方に目配せをした。
廊下から、足音が近づいてくる。静かで、軽い足音。
一人の少女が、教室に入ってきた。
月銀高校の制服。紺色のブレザーに、チェック柄のスカート。白いブラウスの襟がきちんと整えられている。周りの女子と大差ない体格。背は僕より少し低いくらいで、特別に大きくも小さくもない。
でも。
教室の空気が、変わった。
シンと静まったのではなく、逆だった。ざわめきが膨れ上がった。前の席の男子が息を呑む音がした。隣の女子が「え、何あの子」と小さく声を漏らした。
銀色がかった長い髪。白い肌。顔立ちの一つひとつが、嘘みたいに整っている。教室の蛍光灯に照らされているだけなのに、そこだけ光の質が違うように見える。人間の中に紛れているのに、紛れきれていない。
朝の噂の正体を、クラス全員が一瞬で悟った。
僕は、椅子に座ったまま動けなかった。
心臓が、うるさい。
なんで。
なんで銀華がここにいる。
見間違いじゃない。なぜか周りの女子高生と似た体格に調整されているけど、あの髪の色、あの肌の質感、あの目。銀色の虹彩が教室の光を弾いている。制服を着ている。月銀高校の制服を、寸分の狂いもなく。というか、そもそもなんで高校に来ている。
銀華は教壇の横に立っていた。神無月がそっと半歩引いて、彼女に場所を譲った。その動きが妙に自然で、まるで以前からこうすることが決まっていたかのようだった。
銀華がクラスを見渡した。
その視線が、僕のところで止まった。
目が合った。
神無月が「自己紹介を」と短く促した。銀華はこくりと頷いて、教室に向き直った。
「岩見銀華です。よろしくお願いします」
教室がもう一度どよめいた。後ろの方で「やば、声まで綺麗」と誰かが呟いた。
銀華がゆっくりとこちらに歩いてくる。神無月に「あの空いている席に」と指定されたのが、よりにもよって僕の隣だった。
銀華が椅子を引き、腰を下ろす。制服のスカートをそっと手で押さえる仕草が妙に板についている。少女漫画で覚えたのだろうか。
僕のすぐ横。手を伸ばせば届く距離。洞窟の中のあの定位置が、そのまま教室に引っ越してきたみたいだった。
「おはよう、透」
銀華が、僕にだけ聞こえる声で言った。
声がかすかに弾んでいた。




