第14話:麗らかな陽気と銀竜の吐息
四月の山道は、匂いが変わっていた。
三月の終わりまではまだ土と枯れ葉の匂いが残っていたのに、今日はそこに混じって青い草の匂いが強い。陽射しもぬるいを通り越して暖かくて、上り坂で少し汗ばむくらいだった。リュックの中で白銀ベーカリーの紙袋がかさかさ鳴っている。
明日から高校だ。
考えると胃のあたりがきゅっとする。制服はもう届いていて、おばあちゃんが丁寧にアイロンをかけてくれた。教科書も揃えた。通学路の確認もした。中学の頃と同じ方向だから迷うことはないけど、それでも「明日から」という響きにはどうしても身構える。
大岩をくぐる。暗い通路を抜けて、祠の前を過ぎる。いつもの道。何百回と通った道。
広間に入った。銀色の壁が淡く光っている。
銀華は座っていた。壁に背をあずけて、片手に少女漫画、もう片手で自分の髪の先をいじっている。今日は薄い水色のブラウスに、白いプリーツスカート。襟元にフリルが控えめについていて、袖口もふんわりしている。五巻か六巻のどこかを参考にしたのだろう。もう何を着ていても驚かないし、毎回ちゃんと似合うのがずるい。
「透」
漫画を閉じて、こちらを見る。数秒、僕を見たまま何も言わなかった。それから「来た」とだけ言った。声が少し柔らかい。
「来たよ。今日も」
いつもの場所に腰を下ろした。壁際の、二人分の空間。最初の頃は座布団を敷いて三メートルくらい距離を開けていたのに、今ではもう、手を伸ばせば届くくらいの位置が定位置になっている。
リュックから紙袋を出す前に、言わなきゃいけないことがあった。
「銀華、実はね」
「なんだ」
「明日から高校なんだ。僕」
銀華は首を傾げなかった。
「知っている」
「え、知ってるの?」
「四月から新しい学校に通うと以前言っていただろう。高校というものの仕組みは、漫画でおおよそわかった」
少女漫画が思った以上に教科書として機能しているらしい。
「部活、というものがあるのだろう」
「うん、あるね」
「朝練なるものが存在し、夜まで拘束され、合宿がある」
「いや、僕は部活には入らない予定だけど」
「それから文化祭という行事。模擬店を出し、演劇を上演し、装飾を施す。わざわざ学校を非日常に変えるのだ」
なんだか、僕より楽しそうに語っている。目がきらきらしていて、漫画のページを読んでいるときの集中した表情とも、新しいお菓子を前にしたときの表情とも違う。純粋に「他人の体験を想像して楽しんでいる」顔だった。
「修学旅行では皆で遠くへ行くらしいな。飛行機というものに乗ると」
「それは二年生かな」
「制服の色は何色だ。漫画ごとに異なるようだが」
銀華が一気にまくしたてる勢いで質問を並べるから、僕は手を上げて制止した。
「銀華、ちょっと待って。全部答えるから。でもその前に、大事なこと言っていい?」
「大事なこと?」
「高校が始まると、春休みのように毎日早い時間には来られなくなる」
銀華の口が閉じた。
さっきまで次から次へと質問を投げていた声が、ぴたりと止まった。
「授業が夕方まであるし、帰ってからやることもある。だから、来られるは少なくなるし、全然来られない時も出てくると思う」
銀華は何も言わなかった。
視線がゆっくりと下がった。僕の顔から、自分の膝のあたりへ。プリーツスカートの裾を、指先が無意味に摘んでいる。
「そうか」
声が小さかった。
さっきまでの文化祭への興味も、修学旅行への好奇心も、全部どこかに引っ込んでしまったみたいに、銀華は黙った。目を伏せて、唇をわずかに結んでいる。怒っているのとは違う。怒りなら声が低くなるし、不満なら腕を組む。そのどちらでもなく、ただ、少し小さくなったように見えた。
春休みの最初の日、銀華は言っていた。「三年なんて一瞬だ」と。五千年を生きてきた竜にとって、人間の三年間は瞬きほどの長さでしかないのだと。
あの頃の銀華なら「毎日来られない」と言われても、きっと微動だにしなかった。一日なんて誤差にもならないはずだった。
それなのに。
「あのさ」
慌てて口を開いた。沈んだ銀華を見ているのが居心地悪くて、何か言わなきゃと思った。
「でも、春休みが終わるっていうのは、悪いことばかりじゃないんだ」
「……何が良いのだ」
「観光客が減る」
銀華が顔を上げた。
「春休みの間は町に人がたくさんいたけど、学校が始まれば減るんだよ。特に平日は、観光で来る人がぐっと少なくなる」
銀華は、まだ僕の言葉の行き先を掴みきれていない顔をしていた。
「つまりさ──前に約束しただろ。人間がいないときに、こっそり町に出るって話」
銀華の目が変わった。
伏せていた睫毛が上がり、虹彩の銀色が洞窟の光を弾く。暗い顔をしていたのが嘘みたいに、瞳の奥に光が灯った。
「人間の目を、盗むのだな」
「そう。人目を盗んで。銀華に町を見せる」
「……人の少ないうちに?」
「うん。平日の人が少ない時間を狙えば、たぶんいける。髪の色とか目の色はちょっと目立つけど、帽子とか……って、格好はもう平気だね」
「色の問題も解決できるようになったな」
銀華の声に張りが戻っていた。さっきまでの沈んだトーンが消えて、考えを巡らせるときの、あの少し早口な調子になっている。
「町には、白銀ベーカリーがあるのだろう」
「あるよ。パンの匂いがすごいんだ、店の前」
「それから、商店街がある」
「ある。土産屋とか屋台とか」
「私の偽物が売っている場所だな」
「……まあ、そうだけど」
ツキゴンちゃんグッズの件は以前伝えてある。銀華は自分のデフォルメされた偽物には不快感を示していたから、実物を見たらどういう反応をするのか少し怖い。
「面白そうだ」
「うん」
銀華がこちらを見ていた。真っ直ぐに。さっき寂しそうに目を伏せていたのと同じ目が、今はまったく違う色をしている。
銀華が、未来の約束をこんなに楽しみにしている。それが何か、すごく大きなことのような気がした。うまく言葉にできないけど、胸の奥がじんわりする。
まだ少し沈んだ顔をしている銀華を見て、僕はリュックの紙袋に手を伸ばした。
「そうだ、今日さ、すごく暖かいんだよ。来る途中、山道で汗かいたくらい」
「……そうなのか」
「だからさ、たまには外で食べない? 気晴らしに」
銀華が顔を上げた。外、という言葉に少しだけ反応したのが見えた。
「ぽかぽかだよ、外。今日は本当に」
「ぽかぽか」
銀華がその擬態語を口の中で転がした。たぶん初めて聞いた言葉だ。意味は響きから察したのだろう、怪訝な顔はしなかった。
「……いいのか」
「いいよ。すぐそこの岩場なら人も来ないし」
立ち上がって、リュックを肩にかけた。銀華もゆっくりと腰を上げる。さっきまでの沈んだ空気がまだ残っているけど、足は素直についてきた。
暗い通路を並んで抜けて、祠の前を過ぎて、大岩の隙間から外に出る。
光が降ってきた。
春の陽射しが、真上から注いでいる。空は雲がほとんどなくて、薄い水色が広がっている。木々の新緑が風に揺れて、葉の隙間から木漏れ日がちらちら落ちている。
銀華が、目を細めた。
洞窟の中にいるときとは明らかに違う顔をしていた。まぶしさに慣れようとしているのもあるけど、それだけじゃない。風が銀色の髪を揺らして、水色のブラウスの襟を膨らませている。銀華は少しの間、何も言わずにそこに立っていた。
「ぽかぽかとは、これのことか」
「そう、それ」
「悪くない」
悪くない、は銀華の褒め言葉だ。
洞窟の入り口のすぐ脇に、平たい岩が突き出している。以前から知っていたけど座るのに使ったことはなかった。ちょうど二人分くらいの幅がある。
「あそこ座ろう。パン持ってきてるし」
岩の上に腰を下ろした。日当たりがよくて、岩の表面がほんのり温かい。銀華がその隣に座った。距離は、もう自然に近い。肩が触れるか触れないか、という間隔。
リュックから紙袋を取り出した。
「今日は二種類ある。メロンパンと、硬いやつ」
「硬い方」
即答だった。紙袋から硬めのフランスパンを出して渡す。メロンパンは僕のだ。
銀華が一口かじった。ガリ、と石を噛むような音がする。銀竜の顎なら当然だけど、少女の見た目でこの音は毎回ちょっと面白い。
「良い」
「おいしい?」
「この歯応えが良い。中の空気の層が詰まっていて、噛むたびに味が出る」
食レポが独特すぎるけど、嬉しそうなのは伝わる。僕もメロンパンにかぶりついた。
風がぬるい。葉っぱが擦れる音と、遠くで鳥が鳴く声と、銀華がパンを噛み砕く異様な音。それだけの世界だった。
しばらく、どちらも喋らなかった。パンを食べて、空を見て、風を感じて。喋らないのが気まずくない。むしろ、こういう時間が自然にあることが嬉しかった。
銀華がパンを食べ終えた。指先についたパンくずを丁寧に舌で取って、それから手を膝の上に置いた。
「……暖かいな」
「うん」
「頭がぼんやりする。悪い意味ではなく」
「うとうとする、かな。眠いっていう感じ?」
「眠い。……わからないが、近いかもしれない」
銀華の瞼が、少しずつ下がってきていた。長い銀色の睫毛がゆっくりと降りてくる。首が微かに揺れて、頭が小さく傾く。起きていようとしているのに体がついてこない、という動き方だった。
「銀華? 眠いなら中戻る?」
「……いや。暖かい」
声がとろんとしていた。いつもの凛とした響きが溶けて、輪郭のぼやけた声になっている。
次の瞬間、肩に重さを感じた。
こつん、と。軽い衝撃。
銀華の頭が、僕の肩に触れていた。
銀色の髪が肩口に広がって、視界の端にフリルのついた襟元が見える。銀華の横顔がすぐそこにあった。目を閉じていて、唇がわずかに開いている。
スー、スー、と。
静かな寝息が聞こえた。
動けなかった。
心臓がうるさい。耳の奥でドクドク鳴っていて、自分の鼓動が銀華に伝わるんじゃないかと焦る。肩に伝わってくる重さは思ったより軽い。でも温かい。確かな人肌の温度がある。銀華はいつも「この体は変身で作ったものだ」と言うけど、この温かさは本物だ。偽物じゃない。
顔が熱い。
たぶん赤くなっている。誰かに見られたら大変だけど、ここは人なんか来ない。来ないとわかっていても、心臓は治まらない。
起こすべきだろうか。でも、さっき寂しそうな顔をしていた銀華が、今はこんなに穏やかに眠っている。春の陽射しの中で、僕の肩に頭を預けて、安心しきったように。
起こせなかった。起こす気になれなかった。
ゆっくり息をついた。なるべく肩を動かさないように。
ふと思い出した。春休みの初日のことを。あの日、僕は洞窟に座布団を敷いて、三メートル離れた場所に座った。銀華は対面に、人間の姿をとってじっとこちらを見ていた。お互いの間には広い空間があって、まだまだ会話もぎこちなかった。
それが今、こうなっている。
肩がくっついて、寝息がかかって、髪が触れている。三メートルどころか、距離なんてどこにもない。
銀華の寝顔を横目で見た。起きているときはどこか張り詰めたところのある顔立ちが、すっかり力が抜けて柔らかくなっている。口元が僅かに緩んでいて、時々小さく息を吸い込む。
銀竜が、人間の肩に頭を預けて眠っている。
なんだか、すごく不思議だった。不思議で、おかしくて、ちょっとだけ照れくさくて──でも、嫌じゃない。
明日から高校だ。毎日は来られなくなる。授業がある。テストがある。たぶん面倒なこともたくさんある。
でも、週末には山を登る。この場所に来る。ここに銀華がいる。それは変わらない。
そして、銀華を町に連れ出す。商店街を歩いて、パン屋の前を通って、初めての外の世界を見せる。そのときの銀華がどんな顔をするか、想像しただけで口元が緩んだ。
風がまたぬるく吹いた。銀華の髪が揺れて、僕の首筋をくすぐった。彼女は起きる気配がない。
しょうがない、もう少しこのままでいよう。
春の陽射しが降り注ぐ岩の上で、僕は身動きひとつ取れないまま、明日からの日々のことをぼんやりと考えていた。




