第13話:嘘に翻弄される僕と銀竜の頭
スマホが震えたのは、朝ごはんの味噌汁を飲んでいるときだった。
おばあちゃんが「行儀悪い」と言う前にポケットにしまおうとして、画面を見た。Lineの通知。送り主は高坂直也。
開いたら、写真が一枚。茶色い何かが草むらに潜んでいる、ぶれぶれの画像。下に一行だけ文章がついていた。
『ツチノコ見つけた 庭にいた マジ』
味噌汁を吹きそうになった。
なんだこれ。朝から何を言っているんだこいつは。写真をよく見ると、茶色い何かは形が歪んでいて、胴が太くて短い。言われてみればツチノコっぽくも見えるが、どう見ても枯れた落ち葉の塊か、せいぜい潰れた野菜だ。
今日何日だっけ。
スマホの日付を見た。四月一日。
エイプリルフールじゃん。
脱力した。直也にしては手の込んだ嘘だ。普段は裏表がないのに、こういう日にわざわざ仕掛けてくるのがらしい。というかあいつとLine初メッセージじゃないか? 返事をどうしようか迷って、既読だけつけておくことにした。反応しないのが一番効くはずだ。
味噌汁を飲み干して、茶碗を流しに持っていった。おばあちゃんが背中から「今日も山?」と聞いてきたので、「うん、たぶん」と返す。
自室に戻ってスマホをもう一度開いた。直也からの追撃はまだない。写真を拡大してみたけど、やっぱりどう見ても落ち葉だ。
ツチノコ。UMA。嘘。
ふと、思いついた。
僕は銀華に嘘をついたことがない。
当然だ。銀華との会話で僕が嘘をつく場面なんて一度もなかった。外の世界のことを教えるとき、いつだって正直に話す。知らないことは知らないと言ったし、わからないことはわからないと言った。
もし今日、銀華に嘘をついたらどうなるんだろう。
銀華の顔が浮かんだ。真面目に首を傾げて「なぜだ」と聞いてくる、あの表情。
なんだか、試してみたくなった。
◇
山道の空気はすっかり春だった。三月までの冷えた風はなくなって、ぬるい湿り気がある。地面の落ち葉の下から新芽が覗いていて、日当たりのいい斜面では小さな花が咲き始めている。
大岩をくぐって、暗い通路を進む。祠の前を通り過ぎて奥へ。慣れた道だけど、この暗がりを抜けた先に何があるか知っているのは世界で僕だけだ。
広間に出た。銀色に光る壁が薄暗い空間をぼんやりと照らしている。
銀華が奥の壁際にいた。漫画を読んでいる。漫画を読んでいるのはいつもの光景だけど、やっぱり服が違った。
今日はオーバーサイズのカーディガン。色は薄いラベンダー。首元がゆるく開いていて、中にシンプルな白いカットソーが見える。下は細身のクロップドパンツで、くるぶしのあたりまでの丈。パンツの色はごく薄い灰色で、全体から淡い紫がかった銀のトーンが漂っている。
昨日も、一昨日も違う服だった。最初にファッションショーを見せられたときは驚いたけど、もうこの「日替わりの着こなし」が当たり前になりつつある。変身の応用で自在に服を作れるのだから、毎日同じものを着る理由がないのだ。少女漫画を教科書にして、次々と新しい組み合わせを試している。
「透」
銀華が漫画から顔を上げた。僕の姿を認めると、ぱたんと本を閉じて立ち上がる。
「今日のも、その……なんか、いい」
語彙が足りない。でも本当にいいのだ。ラベンダーのカーディガンなんて、前の白一色のワンピースのときには想像もつかなかった。柔らかい色味が銀髪に似合っていて、洞窟の中にいるのに普通の女子がカフェにいるような雰囲気が出ている。
「可愛い、ってことだと思う」
銀華の表情がほんの少しだけ緩んだ。唇の端が微かに上がって、満足の色が浮かぶ。
「そうか。この組み合わせは三巻の四十五ページを参考にした」
出典がページ単位で正確なのが銀華らしい。
「着心地はどうなの?」
「そもそも着ていない。これは私の体の一部だ。ただ、形として腕の動かしやすさは前より良いな。袖がゆったりしているから」
そう言って両腕を広げてみせた。カーディガンの袖が揺れる。人間が服を評価するのとは観点が違うけど、銀華なりに分析しているらしい。
さて。
僕は努めて何気ない顔を作った。
「ところでさ、銀華」
「なんだ」
「今日って四月一日なんだけど」
「四月一日。それがどうした」
銀華は首を傾げた。まあ、そうだ。銀華にとって日付は「透が教えてくれた数字」でしかない。カレンダーの概念は理解しているはずだけど。
よし。
「実はね」
僕は神妙な顔を作った。真剣さを装うのは得意じゃないけど、ここは頑張りどころだ。
「四月は、パンを食べてはいけないっていう決まりがあるんだ」
一拍、間があった。
銀華の表情が凍った。漫画を持ったままの手が、ぴたりと止まる。
「……なんだと?」
「うん。四月から新しい年度が始まるだろ。それにあわせて、パンを食べちゃいけない期間に入るんだ。一ヶ月」
「一ヶ月」
銀華の声が低くなった。眉が寄り、目が据わる。漫画を脇に置いて、一歩こちらに近づいてきた。
「なぜだ」
「それが決まりなんだ」
「決まりとはなんだ。誰が決めた。何のためにそのような制限がある」
銀華の目が真剣だった。本気で真剣だ。嘘をついた僕のほうが気圧されるくらい、真っ直ぐにこちらを見ている。
「パン屋の店主も、それに従うのか? パンを焼くことに身を削る人間もか。職人の執念を禁じるなど、どうしてしまったのだ」
黒岩さんまで話に巻き込まれている。
「生地をこね、酵母を見守り、焼くという……あの過程のすべてを、止めろというのか」
ダメだった。
こらえきれなかった。
銀華の表情があまりにも真剣で、あまりにも必死で、声がほんの少し震えていて──それが、おかしくてたまらなかった。
吹き出した。声が出て、笑いが止まらなくなった。
「な、なんだ。なぜ笑う」
「ごめん、嘘。全部嘘」
「嘘?」
「パンは禁止されてない。普通に食べていい。四月も五月もずっと」
銀華の目が点になった。純粋に「処理が追いつかない」という表情。
「……今のは、正しくない情報を伝えたということか」
「そう。今日はエイプリルフールっていう日でさ。四月一日は嘘をついていい日なんだ。友達とか家族の間で、軽い冗談みたいに嘘をつく。それで驚いた反応を楽しむ」
銀華はしばらく黙っていた。処理中、という感じだ。
「わざわざ、正しくない言葉を発する日があるのか」
「うん」
「しかも、それは互いに了解のうえで行われるのか」
「一応ね。まあ、嘘をつかれる側は知らなかったりもするけど」
「つまり、私は知らされていなかった側だ」
「……まあ、そうなるね」
銀華は腕を組んだ。何かを考え込むとき、最近はこの仕草をする。たぶんこれも少女漫画由来だ。
「奇妙な文化だ」
呆れたような声だった。でも、嫌悪の色はない。
「カレンダーというものの数字の並びは、ただ順番を数えるだけではないのだな。特定の日に、固有の意味がある」
「そうだよ。正月は一月一日だし、クリスマスは十二月二十五日。日付ごとに行事があったりする」
「行事」
銀華が、その単語を噛みしめるように繰り返した。
「私には、日付というものに差がなかった。毎日が同じだった。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。それを数えることさえしていなかった」
五千年近く生きてきたとされる竜が、毎日をただ「今日」として過ごしていた。カレンダーのない生活どころか、時間を区切る感覚そのものがなかったのだ。
「人間は、日に名前を与えるのだな。そして名前を与えた日に、特別な行いをする」
「まあ、そうだね」
「面白い」
素直にそう言った。銀華の「面白い」は、馬鹿にしているのとは違う。本当に新鮮で、理解に値すると思ったときの「面白い」だ。
「そういえば」
銀華が急に真顔を作った。
いつもの考え込む顔とは違う。何かを決めたような、腹を据えたような表情。
「透」
「何」
「言っておかなければならないことがある」
銀華の声が、さっきまでとは違うトーンだった。低くて、落ち着いていて、ほんの少しだけ硬い。
「毎日、色々な服に変えているうちに……竜の姿に戻れなくなった」
空気が止まった。
「え」
「少しずつ自分の形を変えすぎたせいか、本来の形がわからなくなったのだ。今朝も試してみたが、鱗が生えなかった」
銀華の顔は無表情だった。目を伏せて、自分の手を見下ろしている。カーディガンの袖から覗く細い指先。
竜に、戻れない。
頭の中が真っ白になった。僕が漫画を持ち込んだ。それがきっかけで銀華は服を変える楽しさを知り、毎日のように新しい姿を試すようになった。もし本当に、そのせいで竜に──
「ま、待ってくれ。それって」
「後ろを見てくれ」
銀華が僕の言葉を遮った。
「後ろ?」
反射的に振り返った。広間の壁。銀色に光る岩肌。何もない。
それから、背中に風を感じた。
生暖かくて、重くて、広間全体を震わせるような空気の動き。
振り返った。
銀華がいた場所に、銀竜がいた。
キリンほどの体躯。純銀の鱗が洞窟の光を受けて輝いている。鋭い牙が並んだ口元が、ほんのわずかに開いていた。
笑っている、と思った。
竜の顔に人間のような笑顔はない。でも、あの目の光り方は──間違いなく、得意になっている目だ。
「……嘘じゃん!」
声が裏返った。
銀竜が首を傾げた。巨大な頭がゆっくりと動いて、こちらを見下ろしている。竜形態では喋れないから、仕草だけで会話するしかない。でもその仕草が、明らかに「してやった」の空気を纏っていた。
光が走った。銀竜の体が縮み、鱗が肌に変わり、数秒で元のラベンダーのカーディガンを着た少女が立っていた。
「これがエイプリルフールというものだろう」
銀華の声に、初めて聞くような響きがあった。楽しんでいる。明確に、はっきりと楽しんでいる。
「い、いきなり実技に入るな」
「透が教えた。実践して何が悪い」
悪くない。悪くないけど、心臓に悪い。さっきの僕のパンの嘘なんかより何倍も質が悪い。竜に戻れなくなったなんて、冗談にしていいスケールじゃないだろ。
でも銀華は、満足げだった。腕を組んで、少しだけ顎を上げて、こちらを見ている。
「なるほど。相手を驚かせるのは、確かに気分がいいな」
「やられたほうの気持ちも考えてくれ」
「それも含めて、楽しいのだろう?」
返す言葉がなかった。さっき僕が銀華にやったのと、構造的にはまったく同じことだ。驚く顔が見たくて、嘘をついた。そしてネタばらしをして、相手の呆れた顔を見て笑う。
銀華は、ものの数分でその楽しみ方を習得して、しかも僕より上手にやってのけた。
「四月一日、か」
銀華がぼそりとつぶやいた。
「毎日が同じではなく、それぞれに名前と意味がある世界。人間はその中で、わざわざ嘘を楽しむ日を設けた」
銀華の目が、遠くを見ていた。洞窟の壁の向こう、僕がいつもやって来る外の世界のほうを。
「面白い生き方だな、と思う」
その声は穏やかだった。嘘をつかれたことへの怒りはなく、新しい知識を飲み込んだ後の、静かな充足があった。




