4.名前を呼ぶ朝
朝日が、窓から眩しく差し込んでいた。
ノックの音がして、アルベルトが入室する。
窓辺に立っていた少女が、こちらを向いて微笑んだ。
昨夜までの硬さは、もうほとんど残っていない。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「……うん」
表情が柔らかい。緊張は解けたようだ。
ドアの向こうからメイドの声がした。
「失礼いたします。アルベルト様、お食事をお持ちいたしました」
柔らかいパンと温かいスープ。新鮮なミルク、バター、チーズが並べられる。
アルベルトは向き直って、少女に声をかけた。
「じゃあ、食べよ——」
少女が硬直した。
並ぶ食事に目が釘付けになり、はわわわわ……と、声にならない声が漏れる。
(おいおい神様、よだれはマズかろう……)
アルベルトは笑いを噛み殺しながら、穏やかに言った。
「早く食べないと、スープが冷めるよ」
少女はハッとしてスープを一口すする。次の瞬間、顔がパッと明るくなった。
「……おいしい……」
スープを平らげ、パンをほおばる。
「やわらかい……」
「そうだろう。近くのパン屋がいつも焼きたてを届けてくれるんだ」
「こんなの……はじめて食べた……」
もくもくとパンをほおばる姿は、たいへん愛らしい。
アルベルトは少し考えてから、提案した。
「よかったら今日、行ってみようか。店にはもっといろんなパンが置いてある。それからこの屋敷の周りも案内しよう」
少女の目が輝く。
「お外……つれてってくれるの……?」
「ああ。まずこの屋敷の近くをしっかり覚えてくれ。ひとりで出かけた時、迷子になっては困る」
少女は少し驚いた表情を浮かべた。
「ひとりで……出かけても……いいの……?」
「もちろんいいんだよ」
アルベルトは少女の傍らに立ち、頭に手をやる。
「君はこの街で、たくさんの人と会って、いろんな物を見て、多くのことを知って、そしていつも——ここに帰ってくるんだ」
「……うん……」
「パン屋、行くかい?」
少女は頭の上の大きな手の感触にモジモジしながら、顔を赤らめた。
「行きたい……」
執務室では、エリシアがふたりを待っていた。
「お出かけする前に、やらねばならない事がある」
アルベルトが頷く。
「名付け……ですね」
「そうだ。出自はお前の遠縁の娘。お前は彼女の保護者、私は後見人。あとは、名前だ」
エリシアは少女の目線までかがむ。
「君は、以前は名前があったが、今はないと言った。大切な人からもらった名前があったんだね。どうだろう、新しい名を付けられるのは……嫌かな?」
少女は少しうつむき、逡巡する。
「わからない……。でも……大事……」
「そうだな。たぶんお父上がくれた名前なのだろう。大事に決まっている」
エリシアはそっと少女の手を取り、優しく語りかける。
「私の名前も父がくれた。私にとっての宝物だ。捨てるなんてできるわけがない。ただ……ここで暮らすのに、名無しというわけにはいかん。人はお互いを名前で呼び、その違いを知り、分かり合おうとする」
少女の目を見つめる。
「この街では“仮”の名前で過ごしてくれないか? 別にお父上がくれた名前を無理に捨てる必要はない。それは大事に胸の中にしまっておけばいい。どうかな?」
長い沈黙。少女の蒼い目の奥で、さまざまな感情が入り乱れ、交差する。
やがて少女は、驚くほどはっきりした口調で答えた。
「わかった」
エリシアがホッと安堵の息を漏らし、アルベルトも大きく頷く。
「ふふ……それでは、何にしようか」
エリシアの顔にワクワク感が浮かぶ。
「ん~、そうだな、私がエリシアだから……」
「却下」
「まだ何も言ってないぞ」
「私の遠縁という設定です」
少女がキョトンとそのやり取りを見ている。
アルベルトは、少女と初めて出会った地下の空洞を思い浮かべた。
声をかけた時、指がわずかに動いた瞬間に聞こえた、鈴の音のような涼しげな音色。
「リン……はどうですか」
エリシアが目を細める。
「……ほう……リン……か……」
アルベルトは少女に目線を合わせた。
「君は、いかがかな?」
少女は口の中でその名を転がす。
「……リン……」
口にするたびに、笑みが広がっていく。
アルベルトとエリシアが、その様子を見守る眼差しも、また笑みを含んだ。
「決まり……だね」
❖ ❖
「じゃあ、私はエリシアお姉ちゃんで」
ドヤぁと胸を張るエリシア。
リンがふんふんと頷く。
そして揃ってアルベルトを凝視する。
「『おじさん』『おじちゃん』は却下です」
「……煮え切らんヤツだな……」
「それほどデリケートな問題なんです」
エリシアが考え込む。
「名前はしっくりこないし、オジさん呼ばわりは本人がダメ……。
あとお前の呼ばれ方で残るのは……
あ、補佐……補佐があったな」
「ああ……補佐……ですか……」
「補佐=ホサ……いいじゃないか、ホサ」
リンが戸惑いを覗かせながらも、口の中で何度か呟く。
「ホサ……?」
「そう。ホサだ」
リンは何度か口にしてから、笑顔で呼び掛けた。
「ホサ!」
❖ ❖
パン屋の前で、リンは焼き立てのパンのいい匂いに鼻をクンクンさせ、ワクワクした様子で立っていた。
アルベルトが苦笑しつつ扉を開ける。
かららん……
ドアベルの音とともに、ガタイの良い大男が奥から現れた。
「へい、いらっしゃい!」
「親父さん、おはよう」
「おう、補佐さんかい。毎度どうもーーー あれ? なんだい、子連れかい?」
「はは……遠縁の子でリンといいます。これから一緒に住むんで、今日は街を案内してます。今朝食べたここのパンが、だいぶ気に入ったようだったんで連れてきました」
「おお、そうかい、そうかい。ウチの娘より少しちっちゃいくらいか」
「メリッサは今日は休みですか」
「ああ、学問所に行ってるよ。今度会わせてえな。いい友達になれんだろ。お嬢ちゃん、ウチのパン美味かったか」
「うん、おいしかった。あんなのはじめて食べた」
「ハハハ、そうかそうか。ありがとな。そんじゃな、食べたいヤツ、自分で選んでみろ」
リンはアルベルトに「いいの?」と目を向ける。
アルベルトが頷くと、リンはぱぁっと満面の笑みを浮かべ、店の中をとてとて歩き回り、カゴの中をパンで一杯にした。
「ハッハッハ、それゃいくらなんでも食い過ぎだぁ。食い過ぎるとウチのカカアみてぇになっちまうぞ」
「なんだって、アンタっ!」
店の奥からアンナが現れる。
「子供に変な事言うんじゃないよ。子供はいっぱい食べて、いっぱい遊んで、いっぱい寝る。これが一番さ。ねぇ、お嬢ちゃん」
「うん。おいしいパン、いっぱい食べる」
リンはパンを抱え、屈託のない笑顔で答えた。
帰り道、リンはパンの入った袋を大事そうに抱え、とてとてと歩く。
「本当にひとりで食べられるのかい?」
リンは少しモジモジする。
「……エリシアお姉ちゃんにも、分けてあげるの……。おいしいの、分けてあげるんだ……」
アルベルトは、健気だなと感心した。
執務室では、エリシアが書類と悪戦苦闘していた。ゲッソリと憔悴しきっている。
ノックの音がして、アルベルトとリンが入室する。
「……おお……お帰り……」
ヘロヘロの状態で出迎えるエリシアに、リンはモジモジしながら近づいた。
「……うん?……どうした……?」
「……あの……お姉ちゃん、これ……」
「……へ……?」
「……おいしいパン、一緒に食べよ……」
それを聞いたエリシアは、リンをひしっと抱きしめ、感涙した。アルベルトは苦笑し、リンはオロオロするばかりだった。
❖ ❖
昼、アルベルトはリンを連れて孤児院を訪れた。
「——というわけで、ここに遊びに来れば自然と友達もできるし、院長先生や職員の皆さんの目もあるし、私も安心です」
「わかりました。お引き受けします。リンちゃん、いつでも遊びにいらっしゃい」
院長は優しくリンに語りかける。
「ありがとう……」
リンは少しモジモジしながらも、その目は庭で遊ぶ子供たちに釘付けだった。
「ハハハ、リン。庭に行って来ていいよ」
リンの顔がパッと輝く。
「うん、行ってくる」
トタトタトタと外に向かうリンを見て、院長がアルベルトに微笑みかける。
「よく決断してくれたわね」
アルベルトも微笑みを返した。
「私がこの街の人達から与えてもらったものを、今度は私があの子に与える。ただそれだけです」
庭に目を向けると、子供たちの笑い声が溢れる賑やかな光景が広がっていた。リンは子供たちに囲まれ、みんな笑顔だった。
アルベルトは、うれしそうに微笑んだ。
❖ ❖
翌朝、領主邸の中庭通路を、ゼクスとマーサが連れ立って歩いていた。
ふたりの視線が裏庭に向く。ヨタヨタしながら洗濯物を抱えて歩くリンの姿。
メイド達のもとに無事に届け、褒められたのか、誇らしげな顔をしている。
「お~い、リン」
リンはハッとふたりに気づき、タタタっと駆け寄っていく。
「こんにちはっ!」
「お手伝い、しっかりやっとるか。みんなの役に立っとるか、ん?」
「うん、みんな褒めてくれる。……うれしい」
リンはちょっぴり恥じらう。
「おお、そうかそうか。ほれ、ご褒美だ」
ゼクスがリンを軽々と抱き上げ、「高い高い」をする。
リンはきゃっきゃと大喜びだ。
近くのメイドが苦笑する。
「なんか、こうして見てると、お孫さんと遊ぶおじいちゃんみたいですね」
リンがゼクスの顔をジッと見る。
「ゼクスが……じいじ……なの?」
ドクン!!(ゼクスの心臓)
「じゃあ……マーサは……ばあば……?」
ドクン!!(マーサの心臓)
リンがふたりを交互に見る。
「ゼクスがじいじで……マーサがばあば……?」
きゅん……(二人の心臓)
ふたりの顔が赤らみ、筋肉もみるみるうちにユルユルになっていく。
「……じいじか……、じいじ……。うむ、悪くない、悪くないぞ」
「ばあば……か……。ばあば……、ばあば……ねえ……。ふふん、結構嬉しいもんだね」
ゼクスとマーサはふんふんとご満悦だった。
「ほれ、リン、も、もう一回言ってみてくれ」
「リン、コッチ見て、ばあばって言ってちょうだい」
リンはキョトンとしながらも、ふたりに笑顔を向ける。
「ゼクスがじいじ! マーサがばあば!」
リンはふたりに抱き上げられ、うれしそうにケタケタ笑った。
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