9.白熱の怒り
エリシアとアルベルトのもとに、誘拐発生の急報が飛び込んできた。アルベルトは思わず立ち上がる。
「なに?! メリッサが攫われた?!」
「クッ、遅かったかっ!」
伝令が息を切らしながら報告する。
「目撃した引率の職員によると、犯人たちは幌馬車に気絶した彼女を積み込み逃走! 目視で犯人2名! 馭者を含め3名以上とみられます!」
エリシアは即座に立ち上がり、号令を下した。
「緊急指令! 直ちに国境付近を半封鎖! 検問所は、不審な馬車・荷車はもちろん、全ての貨物の検閲を徹底! 騎士団は、要路以外の側道に人員を緊急配備し、不審者の通過を阻止! 急げ!!」
事務官たちがバタバタと走り回る中、エリシアはアルベルトに声をかける。
「私はここで指揮を取る。お前は孤児院に行ってやってくれ」
アルベルトは短く頷き、部屋を駆け出した。
(……くそっ……私としたことが……!
完全に後手に回った……!)
邸内を走り、路地を走り、すぐに孤児院へ駆けつける。
❖ ❖
院長室は、重苦しい空気に包まれていた。
窓から差し込む午後の陽射しさえ、室内を明るくする力を失っている。
引率の職員が床に膝をつき、肩を震わせて泣き崩れていた。
「私が……もっと早く駆けつけてたら……」
声は湿り、途切れ途切れに漏れた。
リンは泣き顔で、ゴッヅ夫妻に訴えていた。
小さな手が、ゴッヅの袖をぎゅっと掴んでいる。
涙が頰を伝い、滴り落ちる。
「メリッサちゃんが、守って……くれたの……。リンちゃん、逃げてって……守ってくれたんだよ……」
声が震え、しゃくりあげるたびに肩が小さく揺れた。
ゴッヅはリンの頭を、大きな手で優しく撫でた。
その手が、微かに震えている。
優しい笑顔を浮かべようとするが、目尻から溢れ出る涙を止められない。
「……ああ、そうかい、そうかい……。あいつはお姉ちゃんだもんな……。俺との約束守って、ちゃんと妹を守ったんだな……」
言葉の端々が、湿っている。
アンナは涙を拭いながら、ゴッヅの腕にしがみつく。指が、ゴッヅの袖に食い込むほど強く。
「あんた、メリッサが帰ってきたら、褒めてやろうね……。よくやった、よく妹を守ったって……」
「あたりめえだ。こんな立派な娘になって、お前は俺達の誇りだってよ……」
ゴッヅはグズッと鼻をすすり、天を仰ぐように顔を上げた。天井を見つめる目が、赤く充血している。
「……帰ってきたら……褒めてやるよ……いっぱい褒めてやる……、だから……だから……」
仁王立ちのまま、大きな体を震わせて涙を流す。
アンナはその腕にしがみついたまま、声を上げて泣き続けた。
嗚咽が、静かな部屋に響く。
アルベルトは、泣いている二人に掛ける言葉が見つからず、ただ立ち尽くしていた。
足が、動かない。
手が、上がらない。
喉が、凍りついている。
(……私が後手に回ったばっかりに……)
時間だけが、無情に過ぎていく。壁時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
やがてゴッヅは、アンナを腕に抱きながら、その大きな体を折り曲げた。
ゆっくりと、だが確実に。
腰を折り、頭を下げる。
身体を90度に折る、深々とした礼。
漏れるのは、懇願の声。
掠れて、震えて、それでも真っ直ぐに届く声。
「……補佐さん……、こんな事を言えた義理じゃねぇかも知れねえが……なんとか……ウチの娘……助けてやっちゃあくれねえか……。
一生恩に着る……、一生恩に着るからよ……ウチの娘を……どうか……」
顔は見えない。
ただ、震える肩と、床に落ちていく涙の跡だけが、はっきりと見えた。
アルベルトは拳をグッと握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
それでも、力が抜けない。
(……この人たちに、こんな思いを……)
リンがアルベルトのもとに歩み寄ってくる。
小さな足音が、床に吸い込まれていくようだった。
泣き続けてしゃくりが止まらない。
それでも、彼の前に立ち、顔を上げて訴えかける。
「ホサ……、メリッサちゃんを……助けてあげて……」
声が裏返り、涙が新たな筋を頰に描く。
「ホサ……、お願い……メリッサちゃん……助けて……」
アルベルトの拳に、さらに力がこもる。
震える拳。指の関節が白く浮く。
(私は……君に、300年前のあの夜と同じ思いを、また……)
脳裏に、白銀の荒野が過る。
父を失った少女の空虚な瞳が、重なる。
アルベルトはゆっくりと息を吐き、ゴッヅの肩に手を置いた。
もう片方の手を、リンの頭に優しく乗せる。小さな髪が、指の間をすり抜ける。
「言われるまでもない。助けます。必ず助けますよ」
声は低く、だが揺るがない。
「だから待っていて下さい」
リンの頭を撫でる手に、わずかに力がこもる。
「私は司令部に戻ります。それでは」
アルベルトは院長室を出た。
ドアを閉めた瞬間——表情が消える。
廊下の空気が、ゆらりと揺らいだ。まるで陽炎のように。
そこには、炎のような怒りがあった。
木を焼く赤でもなく、鉄を穿つ蒼でもない。
臨界に達した、白熱の炎。
全身から噴出する、白い奔流が、静かな廊下を満たしていった。
❖ ❖
領主執務室。
今は司令部として、エリシア・ゼクスの他、数名の文官・武官が慌ただしく動き回っている。
「おう、アルベルト、戻っ……」
エリシアが、戻って来たアルベルトに声を掛け、同時に言葉が消え失せた。
尋常ならざる気配。
エリシアが、凍りついたように動けなくなる。
長年、領主の側近として付き合いがあるゼクスでも、一瞬絶句するほどの”怒り”。
だが、この豪傑はすぐに気を取り直す。
「…それも当然か…、頭に血をのぼらせおって」
ふんっと鼻息を鳴らし、エリシアの背をバンッと叩き、アルベルトに向き合った。
「お嬢、なに固まっとる。ほれ、青二才がなんぞいいもんを持ってきたぞ。なぁ、そうじゃろ?」
ゼクスの豪放磊落振りが、アルベルトの苦笑を誘う。
室内の全員が、彼の温度が急速に下がるのを肌で感じた。
部屋の空気が弛緩し、程よい緊張感に戻ったところで、アルベルトがテーブルに一枚の地図を広げた。
「これは何じゃ?知らん道がたくさん書かれておるようじゃが…」
ゼクスが地図を見ながら唸る。
エリシアもまじまじと地図を注視していたが、やがてハッとして、アルベルトに振り向いた。
「…これはもしかして…、アレか?」
過日、運送業組合長との折衝の時に、半泣きの組合長が差し出した……
「そう、運送業組合謹製、裏の輸送用側道地図です」
アルベルトが、ギラリとした笑みを浮かべた。
「これで奴らを、罠に掛ける!」
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