第9話 事故のような模擬戦
夜のうちに、雨が降った。
翌朝、小麦亭の裏口を出ると、石畳はしっとりと濡れていて、坂道のあちこちに水たまりができていた。雲は東の空に流れていき、その隙間から朝焼けがのぞいている。
駐屯地の覗き窓から、いつものようにセリアの素振りを見守った。
ぬかるんだ訓練場でも、彼女の動きは変わらない。泥が跳ねても、足を取られそうになっても、千回をきっちり振り切る。
千回目が終わってから、僕は拍手をした。
セリアは、ちらりとこちらを見た。何も言わなかったけれど、昨日のようににらまれることもなかった。
頭上には、金色の推し灯。
目を凝らすと、数字は「14」になっていた。
――あ、上がってる。
小さくガッツポーズをする僕を見て、セリアは怪訝そうに眉をひそめ、兵舎に戻っていった。
◇
昨日ほどではないが、今日も小さな幸運がいくつか続いた。
ギルドの床掃除の途中で、冒険者が落とした銅貨を拾った。届け出ると、持ち主の冒険者が「正直な坊主だな」と言って、半分を分けてくれた。
お昼の買い出しでは、パン屋で焼きたてのパンが一個おまけについてきた。
そして、昼過ぎ。椅子に座ろうとした瞬間、椅子の脚が折れて尻もちをついた。お布施だ。
推し灯の数字と、幸運の大きさ。どうやら、つながっているらしい。
仮説は、少しずつ確信に変わりつつあった。
◇
夕方。
ギルドの仕事を終えて、坂道を上っていたときのことだ。
駐屯地の通用門の近くで、数人の騎士見習いがたむろしていた。訓練を終えたばかりなのか、軽鎧を脱いで、汗を拭いている。
その中心にいたのは、金髪をなでつけた少年。
バルト・グレイヴスだった。
「――だからさ、いい加減、王都に帰ってほしいんだよな」
バルトの声が、坂道にまで響いてきた。
「部隊長も甘いんだよ。アルヴェインの名前に遠慮して、あんな使えない女を置いておくなんて。模擬戦で一本も取れない見習いなんて、前代未聞だぜ」
「でもバルト、セリアって朝も夜も一人で練習してるだろ。あれだけやってるのに――」
「だから余計に滑稽なんだよ」
バルトは鼻で笑った。
「千回振ろうが一万回振ろうが、誰も斬れない剣に意味なんかない。あいつは努力してるふりをして、自分を慰めてるだけさ。アルヴェインの恥だよ、まったく」
取り巻きの何人かが、へらへらと笑った。
僕は、坂道の途中で足を止めていた。
努力してるふり。
自分を慰めてるだけ。
頭の中で、毎朝の光景がよみがえる。夜明け前の訓練場。ぼろぼろの手のひら。千回目を振り終えて、肩で息をする背中。昨日の模擬戦のあと、木剣を見つめていた怯えた横顔。
気づいたときには、僕はバルトたちの前に立っていた。
「……あの」
バルトが、面倒くさそうにこちらを向いた。
「なんだ、お前」
「今の言葉、撤回してください」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
見習いたちが、一斉に僕を見た。
「セリアさんは、努力してるふりなんかしてません。毎朝、誰よりも早く来て、千回、剣を振ってます。昨日あれだけ笑われても、今朝もちゃんと来てました。雨上がりのぬかるみの中で、千回振り切ってました」
「……は?」
「だから、彼女を笑ったことを、撤回してください」
しん、と静まり返った。
やがて、取り巻きの一人が、ぷっと吹き出した。
「おい、こいつ、あれだろ。小麦亭の、全部Fの」
「無銘のレオン!」
「なんでそんなやつがセリアの肩持ってんだ?」
笑い声が上がる。
バルトだけは、笑っていなかった。冷たい目で、僕を上から下まで眺めている。
「お前、セリアの何なんだ」
「何でもないです。ただ、応援してるだけです」
「応援?」
バルトは、心底おかしそうに口の端をつり上げた。
「全部Fの役立たずが、落ちこぼれのお嬢様を応援してる、と。なるほど、お似合いだな」
「撤回してください」
「しつこいな」
バルトは一歩、僕に近づいた。背は僕より頭ひとつ高い。見下ろされると、それだけで体がすくみそうになる。
「なら、こうしようか。俺と木剣で勝負しろ。お前が勝ったら、撤回してやる。謝ってもいい」
「……勝負」
「どうした、怖いか? 口だけなら誰でも言えるよな」
取り巻きたちが「やれやれ!」「全部Fが騎士見習いに勝てるわけないだろ」とはやし立てる。
頭のどこかで、冷静な声がした。
――無理だ。木剣の素振りすら、十回しかできないんだぞ。
わかっている。勝てるはずがない。
でも、ここで引いたら、セリアを笑った言葉は、そのまま残る。
「……わかりました。やります」
◇
騒ぎを聞きつけたのか、訓練場には、思っていた以上の人数が集まってきた。
訓練を終えた見習いたち。兵舎から顔を出した正規の騎士たち。通用門の門番さんまで、持ち場を離れて見に来ている。
「おいおい、何の騒ぎだ」
「バルトが町の坊主と勝負するんだとよ」
「町の坊主って、あの全部Fの? かわいそうに」
訓練場の隅のほうには、ゴードン部隊長の大きな姿まであった。腕を組んで、面白そうにこちらを眺めている。止める気はないらしい。
年かさの騎士が、審判役を買って出てくれた。
「ルールは模擬戦と同じだ。有効打一本、または降参で決着。いいな」
手渡された木剣は、やっぱり重かった。両手で持つと、それだけで腕がぷるぷると震える。
向かい合ったバルトは、片手で木剣をくるくると回していた。余裕の表情だ。
「安心しろ。怪我はさせないでやるよ。軽く小突いて、終わりだ」
「……お願いします」
僕は木剣を構えた。剣先が、ふらふらと揺れている。見物人の中から、くすくすと笑い声が漏れた。
そのとき、訓練場の入口のほうから、鋭い声が響いた。
「――何をしているのですか!」
振り向くと、セリアが駆けてくるところだった。夕方の訓練に来たのだろう。木剣を手にしたまま、息を切らしている。
「レオンさん!? どうしてあなたが……バルト、これはどういうことです!」
「どうもこうも、こいつが勝負を挑んできたんだよ。お前の名誉のためにってさ。泣かせるねえ」
セリアの顔色が変わった。
「やめてください、レオンさん! あなたが戦えるはずがない!」
「大丈夫です」
僕は、セリアのほうを見ずに言った。
見てしまったら、たぶん、怖くなって逃げ出してしまう。
「僕が勝ったら、バルトさんはさっきの言葉を撤回してくれるそうです」
「そんなこと、どうでもいいです! 私のことなんか――」
「どうでもよくないです」
ようやく、セリアのほうを振り返った。
「セリアさんが毎朝どれだけ頑張ってるか、僕は知ってます。それを、努力してるふりだなんて言われて、黙ってられません」
セリアが、言葉を失ったように立ち尽くした。
その頭上で、金色の推し灯が、ふわりと大きく揺れた。
――あ。
数字が、見えた気がした。
14、ではない。もっと大きい。
「始め!」
審判の声が、それを遮った。
◇
バルトは、ゆっくりと歩いて間合いを詰めてきた。
構えもしていない。片手に下げた木剣を、ぶらぶらと揺らしているだけだ。完全になめられている。
でも、僕にはそれすらどうすることもできなかった。
足がすくんで、動けない。木剣を構えたまま、ただ突っ立っている。
「なんだ、来ないのか? じゃあ、こっちから行くぞ」
バルトが、一歩踏み出した。
軽く、とんっ、と地面を蹴る。僕の肩を小突こうと、木剣を振り上げる。
その瞬間だった。
バルトの踏み込んだ足が、ずるりと滑った。
昨夜の雨でぬかるんだ地面。その中でも、ひときわ柔らかくなっていた一角を、ちょうど踏み抜いたのだ。
「っ!?」
バルトの体が大きく傾く。とっさに、もう片方の足で踏ん張ろうとする。
その足が、何かを踏んだ。
自分のブーツの、ほどけた靴紐だった。
訓練のあと、ブーツの紐をゆるめたまま、結び直していなかったらしい。
踏ん張るはずの足が、紐に引っかかって前に出ない。
バルトの体は、完全に宙に浮いた。
振り上げていた木剣が、勢いのまま弧を描く。
ごつん。
鈍い音が、訓練場に響いた。
バルトの木剣が、バルト自身の額を、見事に打ち据えていた。
「…………」
誰も、何も言わなかった。
バルトは、ぬかるみの中に仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かない。額に、見事なたんこぶがふくらみ始めている。
僕は、木剣を構えたまま、一歩も動いていなかった。
長い、長い沈黙。
やがて、審判役の騎士が、震える声で言った。
「……ゆ、有効打、一本」
ごくりと唾を飲み込み、僕のほうを見る。
「勝者、レオン・アシュフォード」
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