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第10話 運が良かっただけです


「勝者、レオン・アシュフォード」


 審判の声が、夕暮れの訓練場に吸い込まれていった。


 誰も、拍手をしなかった。誰も、笑わなかった。


 見物していた騎士や見習いたちは、全員が口を半開きにしたまま、ぬかるみに倒れたバルトと、木剣を構えたまま突っ立っている僕を、交互に見比べていた。


 僕はというと、自分が何をしたのか、まったくわかっていなかった。


 何もしていない。


 本当に、何ひとつしていない。


 足がすくんで一歩も動けず、木剣を構えて立っていたら、バルトが勝手に滑って、勝手に靴紐を踏んで、勝手に自分の額を打った。


 それだけだ。


「……あ、あの、バルトさん、大丈夫ですか!?」


 我に返って、僕は木剣を放り出してバルトに駆け寄った。


 バルトは白目をむいて伸びていた。額には、鶏の卵ほどのたんこぶ。息はちゃんとしている。気を失っているだけらしい。


「誰か、医務室に……!」


 僕が叫ぶと、ようやく見習いたちが動き出した。取り巻きの二人がバルトの両脇を抱え、兵舎のほうへ運んでいく。


 その間も、周囲の視線は、ずっと僕に突き刺さっていた。


 ◇


 やがて、ざわめきが戻ってきた。


 ただし、それは僕が予想していたものとは、まるで違っていた。


「……今の、見たか」

「ああ。一歩も、動かなかった」

「動かずに、勝った」


 年かさの騎士の一人が、腕を組んでうなった。


「バルトの踏み込んだ場所を見てみろ。訓練場で一番ぬかるんでいる一角だ。あいつは、あそこにバルトを誘い込んだんじゃないか」


「誘い込む? どうやって」


「立ち位置だよ。あの坊主は、試合が始まる前から、あの場所に立っていた。バルトがまっすぐ向かってくれば、必ずあのぬかるみを踏む位置だ」


 ちがいます。


 たまたま、そこに立たされただけです。


「それに、靴紐だ」


 別の騎士が、真剣な顔でうなずいた。


「バルトの靴紐がほどけていることに、気づいていたんだろう。だからあえて自分からは動かず、相手に踏み込ませた」


「なるほど……相手の隙を見抜いて、最小限の動きで――いや、動きすら使わずに勝つ。あれが本当の『見切り』というやつか」


 ちがいます。


 靴紐なんて、まったく見ていませんでした。


「全部Fって話じゃなかったか?」

「能力値が低いからこそ、頭で戦うんじゃないか。あるいは、能力値そのものを偽装しているのか……」

「無銘スキルの正体が、それなのかもしれん」


 話が、どんどん大きくなっていく。


 僕は慌てて、騎士たちの輪の中に飛び込んだ。


「あ、あの! 違うんです! 僕、本当に何もしてなくて!」


 騎士たちが、一斉にこちらを向いた。


「バルトさんが滑ったのは、たまたまです。靴紐がほどけてたのも、知りませんでした。僕はただ、怖くて動けなかっただけで――」


 必死に説明する。本当のことを、ありのままに。


「僕は、運が良かっただけです!」


 しん、と静まり返った。


 騎士たちは、互いに顔を見合わせた。


 そして、年かさの騎士が、ゆっくりと口を開いた。


「……運、か」


 深く、深くうなずく。


「勝ちを誇らず、運のおかげだと言い切る。なかなか言えることではないな」


「えっ」


「普通、あれだけの勝ち方をすれば、自慢のひとつもしたくなるものだ。それを、運が良かっただけ、とは……」


「いや、だから本当に運が――」


「わかっている、わかっている」


 年かさの騎士は、僕の肩をぽんぽんと叩いた。全然わかっていない顔だった。


 そのとき、人垣が左右に割れた。


 大きな影が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 辺境騎士団部隊長、ゴードン。


 公開模擬戦で号令をかけていた、あの顎髭の大男だ。間近で見ると、さらに大きい。見上げると首が痛くなるほどだった。


 ゴードン部隊長は、僕の前で立ち止まり、しばらく黙って僕を見下ろしていた。


 品定めするような、鋭い目。


「小僧。名前は」


「レ、レオン・アシュフォードです」


「レオンか。……今の勝負、運が良かっただけだと言ったな」


「は、はい。本当に、そうなんです」


 ゴードン部隊長は、顎髭をなでた。


 そして、にやりと笑った。


「謙遜まで一流か」


「ええっ!?」


「気に入った。俺は嘘をつく人間は嫌いだが、手の内を見せない人間は嫌いじゃない」


「いや、手の内とかじゃなくて――」


「いい、いい。今はそういうことにしておいてやる」


 ゴードン部隊長は豪快に笑い、僕の背中をばしんと叩いた。その一撃で、僕は前のめりに三歩よろけた。


 周りの騎士たちが「部隊長が笑ったぞ」「あの人が人を気に入るなんて、何年ぶりだ」とざわめいている。


 ――違うんです。本当に、違うんです。


 心の中で叫んでも、誰にも届かなかった。


 ◇


 人垣の外れに、セリアが立っていた。


 騎士たちに囲まれて右往左往している僕を、少し離れた場所から、じっと見つめている。


 僕と目が合うと、セリアはぴくりと肩を震わせた。


 何か言いたそうに口を開きかけて、閉じる。もう一度開きかけて、また閉じる。


 結局、何も言わずに、くるりと背を向けて、兵舎のほうへ歩いていってしまった。


 その頭上で、金色の推し灯が揺れていた。


 朝に見たときより、ひと回り大きくなっている気がした。


 ◇


 すっかり日が暮れてから、僕はようやく解放された。


 騎士たちに「どこで剣を習った」「師匠は誰だ」「無銘スキルの効果は何だ」と質問攻めにされ、何度「運が良かっただけです」と答えても、そのたびに感心されるだけだった。


 小麦亭に戻ると、どっと疲れが出た。


 夕食もそこそこに、屋根裏の部屋に上がる。


 推しノートを開き、今日の出来事を書きつけた。


 ――バルトとの勝負。勝った。何もしていない。

 ――バルトがぬかるみで滑る→靴紐を踏む→自分の木剣で額を打つ。

 ――幸運の規模が、昨日までとまるで違う。


 ペンを止めて、考える。


 昨日までの幸運は、銅貨を拾うとか、おまけをもらうとか、その程度だった。


 今日は違った。木剣の勝負で、騎士見習いに勝ってしまった。


 何が違ったのか。


 思い当たることは、ひとつしかなかった。


 勝負が始まる直前、セリアが「やめてください」と叫んだとき。僕が「どうでもよくないです」と答えたとき。


 セリアの推し灯が、大きく揺れた。


 あのとき、数字が跳ね上がったのが見えた気がした。


 ――推し灯の数字が上がると、幸運も大きくなる。


 ――それに、たぶん。


 僕は、ペンを握り直した。


 ――誰かのために動いたとき、幸運は強く働く?


 昨日の幸運は、ただ「ついている」という感じだった。でも今日のは、まるで、僕がセリアのために立ち上がったことに、何かが応えてくれたような気がした。


 確証はない。


 でも、ノートの隅に、小さく書き加えておいた。


 ――推しのために動くと、幸運が強くなる(仮)


 書き終えて、大きく伸びをする。


 今日は、本当に疲れた。早く寝よう。


 ベッドに腰を下ろした、その瞬間。


 ばきっ。


 嫌な音がした。


 視界が、ぐらりと傾く。


 次の瞬間、僕は折れたベッドの脚と一緒に、床に転がり落ちていた。


「…………」


 天井を見上げる。


 ベッドの脚が一本、根元からぽっきりと折れていた。父さんが、僕が子どもの頃に作ってくれた、頑丈な樫のベッドだったのに。


 僕は、床に寝転がったまま、しばらく動かなかった。


 やがて、笑いがこみ上げてきた。


「……やっぱり、お布施だ」


 今日の幸運は、昨日よりずっと大きかった。


 だから、お布施も、昨日よりちょっとだけ大きい。


 律儀なスキルだ。


 階下から、父さんの「何の音だ!?」という声が聞こえてきた。


 ◇


 ――同じ頃。


 駐屯地の兵舎の一室で、セリア・アルヴェインは、寝台の上で膝を抱えていた。


 眠れなかった。


 目を閉じると、夕方の訓練場の光景が浮かんでくる。


 木剣を構えて、震えながら立っていた少年。


 剣の握り方もでたらめで、構えもふらふらで、どう見ても勝てるはずがなかった。本人だって、それはわかっていたはずだ。


 それなのに。


『セリアさんが毎朝どれだけ頑張ってるか、僕は知ってます』


『それを、努力してるふりだなんて言われて、黙ってられません』


 あの声が、耳から離れない。


 王都にいた頃も、ここに来てからも、自分のために誰かが怒ってくれたことなど、一度もなかった。


 アルヴェインの名を背負っている以上、強くあって当然。負ければ家の恥。誰も、自分の努力など見ていない。そう思って、ずっと一人で剣を振ってきた。


 それなのに、あの少年は、毎朝覗き窓の前に立っていた。千回の素振りを、一回も欠かさず数えていた。


 そして今日、勝てるはずのない勝負に、自分のために立ち上がった。


「……どうして」


 セリアは、膝に顔をうずめた。


 胸の奥が、妙に熱い。


 それが何なのか、彼女にはまだわからなかった。


 ただ、ひとつだけわかっていることがあった。


 明日の朝、千回目を振り終えたとき。


 あの覗き窓の向こうから、また拍手が聞こえてくればいいと。


 そう思っている自分が、確かにいた。


 ――セリアの頭上で、金色の推し灯が、またひとつ明るさを増したことを、彼女自身は知らない。


「運が良かっただけです」

決め台詞が決まりました!これからは毎日1話ずつ投稿していこうと思います

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