第11話 セリアの問い
翌朝、ベッドの脚は父さんが添え木で直してくれた。
「暴れたのか?」
「ううん、座っただけ」
「……樫の木だぞ」
父さんは首をかしげながら釘を打っていた。まさか「お布施です」とは言えない。
夜明け前、いつものように宿を抜け出し、駐屯地へ向かった。
昨日の勝負のせいで、何か変わってしまったらどうしよう。セリアに「余計なことをしないでください」と怒られるかもしれない。覗き窓に来るなと言われるかもしれない。
そんな不安を抱えながら、覗き窓をのぞいた。
セリアは、いつものように剣を振っていた。
ほっと胸をなで下ろす。
百、二百、三百。いつもの順番で、いつもの型。
ただ、ひとつだけ、いつもと違うことがあった。
七百回を過ぎたあたりから、セリアがときどき、ちらりと覗き窓のほうを見るのだ。素振りの合間に、ほんの一瞬だけ。
目が合うと、慌てたように前を向く。
――な、なんだろう。
千回目。
セリアが木剣を下ろす。
僕は、拍手をした。千回が終わってから。言われたとおりに。
セリアは、しばらくこちらに背を向けたまま立っていた。
それから、ゆっくりと振り返り、覗き窓のほうへ歩いてきた。
◇
「……おはようございます」
鉄格子越しに、セリアが言った。
初めてだった。彼女のほうから、挨拶をしてくれたのは。
「お、おはようございます!」
声が裏返った。
セリアは、少しだけ口元をゆるめた。笑った、と言えるほどではない。でも、いつもの硬い表情とは、明らかに違っていた。
「昨日は……その」
セリアは、言葉を探すように視線をさまよわせた。
「バルトは、医務室で目を覚ましました。たんこぶ以外は、何ともないそうです」
「よかった……」
「……あなたは、あれだけのことをされかけて、相手の心配をするのですね」
「されかけたっていうか、勝手に転んだだけなので」
セリアは、少し呆れたような顔をした。
それから、ふっと表情を引き締めた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「通用門から入ってください。……話は、中で」
◇
朝の訓練場は、まだ誰もいなかった。
東の空が白み始めている。濡れた地面から、うっすらと靄が立ちのぼっていた。
セリアは、訓練場の端に置かれた丸太の長椅子に腰かけた。少し間を空けて、僕もその隣に座る。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
やがて、セリアが前を向いたまま言った。
「どうして、私なんかを応援するのですか」
静かな声だった。
「私は、あなたに何もしていません。初めて会ったときは、追い返しました。模擬戦では、一度も勝てませんでした。アルヴェインの恥だと言われても、言い返すことすらできなかった」
セリアの手が、膝の上でぎゅっと握られた。
「それなのに、あなたは毎朝来て、千回を数えて、昨日は私のために、勝てるはずのない勝負まで……。どうしてですか。私には、わかりません」
僕は、少し考えた。
どう言えば、伝わるだろう。
前世のこと。ことりちゃんのこと。推し活のこと。全部を説明するわけにはいかない。
でも、根っこにあるものは、ずっと変わらない。
「……僕、努力してる人が、輝く瞬間を見るのが好きなんです」
セリアが、横目でこちらを見た。
「誰かが、毎日少しずつ頑張って、昨日できなかったことが、今日できるようになる。その瞬間を見ると、すごく嬉しくなるんです。自分のことみたいに」
「……自分のことみたいに」
「はい。僕は、自分が主役になるのは苦手で。運動も勉強もだめだし、全部Fだし。でも、誰かが輝いてるのを見てるときは、なんだか自分の人生にも意味があるような気がして」
照れくさくなって、頭をかいた。
「だから、セリアさんを見つけたとき、すごく嬉しかったんです。夜明け前に一人で千回振ってる人なんて、そうそういないから」
セリアは、黙って聞いていた。
僕は、少しだけ迷ってから、続けた。
「それに、セリアさんは、まだ本気を出してないですよね」
セリアの肩が、びくりと震えた。
「最後の一歩。踏み込む直前で、いつも止まってる。素振りのときも、模擬戦のときも。あれがなければ、セリアさんは誰にも負けないと思う」
「……っ」
「僕は、その瞬間が見たいんです。セリアさんが、最後まで踏み込んだときの剣を」
沈黙が落ちた。
靄の向こうで、鳥がさえずっている。
セリアは、長いあいだ、地面の一点を見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……見られて、いたんですね。全部」
「すみません」
「謝らないでください。誰も、気づかなかったのに」
セリアは、自分の手のひらを見下ろした。
マメが潰れて、固くなった手。
「私が、どうして王都から外されたか。知っていますか」
「……実力が足りないから、っていう噂は聞きました」
「半分は、本当です。もう半分は」
セリアは、一度言葉を切った。
唇を噛む。ためらうように、指先が震えている。
それでも、彼女は話し始めた。
◇
「十歳のときです」
セリアの声は、かすれていた。
「私は、アルヴェイン家の訓練場で、兄弟子と稽古をしていました。ライナス兄様。父の弟子で、私に剣の基礎を教えてくれた人です。優しくて、いつも笑っていて……私は、兄様のことが大好きでした」
「…………」
「その頃の私は、まだ固有スキルを授かっていませんでした。開花の儀は十八歳ですから。でも、スキルの片鱗は、子どもの頃から少しずつ表れることがあるんです。私の場合、それが剣の速さでした」
セリアは、自分の手を強く握りしめた。
「あの日、稽古の途中で、急に体が軽くなったんです。今までにないくらい、速く動けた。嬉しくて、楽しくて、私は思い切り踏み込みました。兄様に、成長したところを見てほしくて」
声が、震え始めた。
「でも、速すぎたんです。自分でも、止められないくらい。兄様は、私の剣が見えなかった。受け止められなかった」
セリアは、目を閉じた。
「木剣でしたけど……兄様の右腕の骨が、折れました。肩の筋も、傷ついて。兄様は、二度と、前のようには剣を振れなくなりました」
僕は、何も言えなかった。
「兄様は、私を一度も責めませんでした。『セリアは悪くない。すごい剣だった』って、笑ってくれて。でも、私は……」
セリアの頬を、一筋の涙が伝った。
「それから、踏み込めなくなったんです。最後の一歩を踏み出そうとすると、あのときの兄様の顔が浮かんで。また誰かを傷つけてしまうんじゃないかって。体が、勝手に止まるんです。止めたくなくても、止まってしまう」
セリアは、袖で乱暴に涙を拭った。
「十八歳で神速剣を授かったとき、家の皆は喜びました。アルヴェイン家にふさわしい、最高のスキルだと。でも、私には、呪いにしか思えなかった。もっと速くなれば、もっと誰かを傷つける。だから、踏み込めない。踏み込めないから、勝てない。勝てないから、王都の騎士団から外されて、ここに来ました」
セリアは、乾いた声で笑った。
「笑ってください。アルヴェインの恥、と言われても仕方ありません。名門の娘が、自分の剣を怖がっているなんて」
◇
僕は、しばらく黙っていた。
かける言葉を、探していた。
大丈夫だよ、とは言えなかった。気にしなくていい、とも言えなかった。彼女が八年間抱えてきたものは、そんな簡単な言葉で消えるものじゃない。
だから、思ったことを、そのまま言うことにした。
「笑いません」
セリアが、顔を上げた。
「セリアさんが踏み込めないのは、弱いからじゃないと思います」
「……では、何だと言うんですか」
「優しいからだよ」
自分でも気づかないうちに、言葉づかいが崩れていた。
「怖いのは、君が優しいからだよ。誰かを傷つけたくないって、本気で思ってるから、怖いんだ。そんなふうに怖がれる人が、恥なわけない」
セリアの目が、大きく見開かれた。
「ライナスさんが、『すごい剣だった』って言ったのは、たぶん本心だよ。だって、セリアさんの剣は、本当にすごいから。僕は毎朝見てるから、わかる」
「…………」
「だから、いつか。セリアさんが、怖いのを抱えたままでも、最後の一歩を踏み込めるときが来たら」
僕は、笑った。
「僕は、一番前で拍手するよ」
セリアは、何も言わなかった。
ただ、うつむいて、肩を小さく震わせていた。
その頭上で、金色の推し灯が、ゆっくりと輝きを増していく。
僕は、そっと目を凝らした。
――30
昨日の朝は、14だった。
◇
その日の夜。
小麦亭の屋根裏で、僕は推しノートにセリアのことを書いていた。
――十歳のとき、兄弟子ライナスさんに大けがをさせた。
――それ以来、最後の一歩が踏み出せない。
――「怖いのは、優しいから」
――推し灯、30。
ペンを置いて、窓の外を見た。
二つの月が、静かに町を照らしている。
セリアは、いつか踏み込めるだろうか。
自分の剣を、呪いではなく、誰かを守るための力だと思える日が来るだろうか。
僕にできることは、ほとんどない。剣も教えられないし、過去を消すこともできない。
でも、見ていることはできる。応援することはできる。
そのとき。
――ウォオオオオォォン……
遠くから、低い遠吠えが聞こえてきた。
僕は、窓から身を乗り出した。
町の東。魔の森のほうからだ。
狼の声とは違う。もっと重く、もっと低く、腹の底に響くような声。
ひとつではなかった。いくつもの遠吠えが、重なり合うように、夜の森にこだましていた。
駐屯地のほうで、見張りの鐘が、短く一度だけ鳴った。
僕は、なぜか胸騒ぎがして、しばらく窓辺から離れられなかった。




