第12話 魔物襲来
鐘の音で、目が覚めた。
カン、カン、カン、カン、カン――。
昨夜のような、一度きりの短い音ではない。途切れることなく、狂ったように打ち鳴らされている。
窓の外は、まだ薄暗かった。夜明け前だ。
僕はベッドから跳ね起き、窓を開けた。
町のあちこちで、窓に明かりが灯り始めている。人々が戸口から顔を出し、不安そうに駐屯地のほうを見上げていた。
物見櫓の上で、見張りの騎士が鐘を打ちながら、何かを叫んでいる。
「――魔獣だ! 魔の森から魔獣の群れ! 東門へ向かっている!」
背筋が、ぞくりと冷えた。
昨夜の遠吠え。あれは、これの前触れだったのだ。
「レオン!」
階下から、父さんの声が響いた。
◇
宿の食堂に降りると、父さんと母さんが、泊まり客たちを集めていた。
行商人が二人、旅の薬師が一人、それに王都へ向かう途中の老夫婦。全部で五人。みんな寝間着のまま、青ざめた顔をしている。
「町の西にある教会が、避難所になっている」
父さんが、落ち着いた声で言った。
「東門から一番遠い。あそこなら石造りで頑丈だ。皆さん、荷物は最低限にして、すぐに移動してください」
「わ、わかった」
「魔獣って、どれくらいの数なんだ」
「騎士団がいるんだろう? 大丈夫なんだろうな」
客たちが口々に言う。父さんは「騎士団を信じましょう」とだけ答えた。
母さんが、僕の肩に手を置いた。
「レオン。あなたは、お客様を教会まで案内して。お父さんと私は、近所のお年寄りを見て回るから」
「わかった」
僕はうなずいた。
役に立てることがあるなら、何でもやる。剣は振れなくても、道案内くらいはできる。
◇
外に出ると、町はすでに混乱していた。
家々から人が飛び出し、荷物を抱えて西へ走っていく。泣き叫ぶ子ども。家畜を引いて逃げる農夫。転んだ老人を助け起こす若者。
東の空が、うっすらと赤い。夜明けの光ではない。何かが燃えているのだ。
そして、その方角から、地響きのような音が聞こえてきた。
ドドドドド……。
無数の足音。獣の咆哮。
「こちらです! 西の教会へ!」
僕は声を張り上げ、客たちを先導して坂道を下った。
途中、駐屯地の前を通りかかった。
通用門が大きく開け放たれ、騎士たちが次々と飛び出していく。鎧の擦れる音。馬のいななき。指示を飛ばす怒号。
その中心に、ゴードン部隊長の大きな姿があった。全身を鋼の鎧で固め、背丈ほどもある大剣を背負っている。
「第一隊、第二隊は東門で防衛線を張れ! 第三隊は町の中に入り込んだ魔獣を掃討! 見習いどもは住民の避難誘導だ!」
腹の底に響く声で、次々と指示を出していく。
その前に、一人の見習いが進み出た。
亜麻色のポニーテール。
セリアだった。
「部隊長! 私も、東門の防衛に加えてください!」
ゴードン部隊長は、ちらりとセリアを見下ろした。
「アルヴェイン。お前は後方だ」
「しかし――」
「魔獣の群れの中に、双頭の大鬼がいるという報告がある。並の魔獣とは格が違う。見習いを前に出すわけにはいかん」
「私は戦えます! 速さなら、誰にも負けません!」
「速さだけではな」
ゴードン部隊長の声は、厳しかった。
「お前は最後の踏み込みができない。それは模擬戦で、皆が見ている。実戦で一瞬でも足が止まれば、死ぬのはお前だけではない。隣で戦う仲間も死ぬ」
セリアの顔から、血の気が引いた。
「……お前はまだ早い。後方で、住民の避難を手伝え。これは命令だ」
ゴードン部隊長はそう言い残し、馬に飛び乗って東門へと駆けていった。騎士たちが、その後に続く。
セリアは、その場に立ち尽くしていた。
唇を、血がにじむほど強く噛みしめている。握りしめた拳が、ぶるぶると震えていた。
その頭上で、金色の推し灯が、不安定に揺れていた。
「セリアさん……」
声をかけようとして、僕は足を止めた。
今、何を言えばいいのか、わからなかった。
昨日、彼女は話してくれた。十歳のときのこと。踏み込めない理由。そして今、それが原因で、戦うことすら許されなかった。
セリアは、僕に気づかないまま、くるりと背を向けて走り出した。後方の避難誘導へ。命令どおりに。
その背中が、ひどく小さく見えた。
「おい、坊主! 早く行かないと!」
行商人の声に、我に返る。
「す、すみません! こっちです!」
僕は、客たちを連れて、再び走り出した。
◇
西の教会までは、普段なら歩いて四半刻ほどの道のりだ。
でも、今日は違った。避難する人々で道はごった返し、なかなか前に進めない。
しかも、僕の体力がもたなかった。
坂道を下る途中で、息が上がる。足がもつれる。石畳の段差につまずいて、派手に転んだ。
「だ、大丈夫かい、坊や」
老夫婦のおばあさんに、逆に心配されてしまった。
「平気です……っ、こっちです……!」
膝をすりむいたまま立ち上がり、また走る。
二回転んだ。三回目は、なんとか踏みとどまった。
ようやく教会の尖塔が見えてきたときには、全身が汗でびっしょりだった。
教会の前には、すでに大勢の町の人が集まっていた。神官たちが扉を開け、人々を中へと導いている。
「ここです……! 中に入ってください……!」
客たちを教会の中へ送り込み、ようやく一息つく。
「ありがとう、坊主。助かったよ」
行商人の一人が、僕の肩を叩いてくれた。
その瞬間、行商人の頭上に、ぽっと小さな白い光が灯った。
――あ。
旅の薬師の頭上にも。老夫婦の頭上にも。小さな、小さな白い灯が、ひとつ、またひとつと灯っていく。
感謝の色。
数字を見る余裕はなかった。でも、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
◇
教会の前で、僕は一度振り返った。
東の空が、さっきよりも赤く染まっている。地響きと咆哮は、ますます大きくなっていた。
「レオン!」
人混みの中から、母さんが駆け寄ってきた。
「お客様は?」
「みんな中に入ったよ。父さんは?」
「近所のお年寄りを連れて、もうすぐ来るわ。あなたも早く中に――」
「待って、母さん」
僕は、教会の前に集まった人々を見回した。
「市場のほうは? あそこ、朝早くから店を開ける人が多いよね。避難、間に合ってる?」
母さんの顔が、曇った。
「……わからないわ。市場は東門に近いから」
ハルネの朝市は、夜明け前から始まる。農家の人たちが野菜を運び込み、店主たちが屋台を組み立てる。この時間なら、もう何人かは市場にいるはずだ。
そして、市場は東門のすぐ内側にある。
「僕、見てくる」
「レオン!? だめよ、危ないわ!」
「大丈夫。様子を見て、誰か残ってたら、こっちに来るように言うだけだから。すぐ戻る」
「レオン!」
母さんの声を背中に聞きながら、僕は走り出していた。
――何やってるんだ、僕は。
頭のどこかで、冷静な自分が言う。
全部Fだぞ。剣も振れない。走ればすぐに息切れする。魔獣に出くわしたら、一瞬で終わりだ。
わかっている。
でも、足は止まらなかった。
前世で、看板の下に飛び込んだときと同じだった。考えるより先に、体が動いてしまう。
◇
市場に着いたときには、もう息が限界だった。
広場は、がらんとしていた。
組み立てかけの屋台。転がった野菜の籠。踏み潰された果物。慌てて逃げ出したのだろう、売り物がそのまま放り出されている。
人の姿は、ない。
――よかった。みんな、逃げられたんだ。
ほっと胸をなで下ろした、そのときだった。
「……ひっく……ひっく……」
かすかな声が、聞こえた。
泣き声だ。
僕は、声のするほうへ目を向けた。
広場の隅。果物屋の屋台の陰。
小さな男の子が、うずくまっていた。
五歳か、六歳くらい。膝を抱えて、顔をうずめて、肩を震わせている。
「ど、どうしたの!?」
駆け寄ると、男の子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「お、おかあさんと……はぐれちゃった……っ」
「お母さんと?」
「にげるとき……人がいっぱいで……手、はなれちゃって……っ」
男の子は、しゃくり上げながら言った。足元には、小さな布袋が落ちている。中から、木彫りの小さな馬の人形がのぞいていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。お兄ちゃんと一緒に、お母さんのところに行こう。お名前は?」
「……ティム」
「ティムくんか。よし、ティムくん、立てる?」
僕は、ティムの小さな手を握った。
その瞬間。
ドォン――!!
すさまじい轟音が、広場を揺らした。
東門の方角から、石壁が崩れる音。騎士たちの怒号。悲鳴。
そして、市場の入口の向こう、崩れた家屋の土煙の中から、それが姿を現した。
巨大な影。
人の背丈の三倍はある、筋骨隆々の体。灰色の分厚い皮膚。丸太のような腕に、大木を削り出したような棍棒を握っている。
そして、その太い首の上には――頭が、二つあった。
四つの赤い目が、ぎょろりと動き、広場を見回す。
双頭の大鬼。
ゴードン部隊長が言っていた、並の魔獣とは格が違う怪物。
騎士団の防衛線を、突破してきたのだ。
ティムが、僕の手を握りしめたまま、声も出せずに凍りついた。
僕も、動けなかった。
大鬼の四つの目が、ゆっくりと、こちらを向いた。




