第13話 逃げ遅れた子ども
四つの赤い目が、僕とティムを見ていた。
双頭の大鬼。
二つの頭はそれぞれ別の方向を向いていたのに、僕たちを見つけた瞬間、そろってこちらに顔を向けた。左の頭が鼻をひくつかせ、右の頭が、黄ばんだ牙をむき出しにして笑った。
笑った、ように見えた。
獲物を見つけた獣の顔だった。
ずしん。
大鬼が一歩、踏み出す。広場の石畳がひび割れ、組み立てかけの屋台がぐらりと揺れた。
ずしん。
もう一歩。
逃げなきゃ。
頭ではわかっている。ティムの手を引いて、反対側の路地へ走れば。今すぐ。
なのに、足が動かない。
膝ががくがくと震えている。喉がからからに乾いて、声も出ない。全身の血が、足元から抜けていくような感覚。
前世で、ホラー映画を観たことがある。怪物に追われた登場人物が、その場で固まってしまう場面を見て「なんで逃げないんだ」と思った。
今ならわかる。
本物の恐怖の前では、人間は動けなくなるのだ。
「お……おにいちゃん……」
ティムが、僕の服の裾をぎゅっと握りしめた。小さな手が、氷のように冷たい。
その感触で、ほんの少しだけ、我に返った。
――このままじゃ、二人とも死ぬ。
◇
「ティムくん、こっち!」
僕は、ティムを抱き上げて走り出した。
いや、走り出そうとした。
五歳の子どもは、思っていたよりずっと重かった。全部Fの僕の腕には、それだけで精一杯だった。三歩進んだところで足がもつれ、膝をつく。
背後で、大鬼が咆哮した。
グォオオオオオオッ!
空気がびりびりと震える。耳が痛い。屋台の天幕が、風圧で裂けた。
振り返ると、大鬼はもう、広場の真ん中まで来ていた。
反対側の路地まで、まだ二十歩はある。間に合わない。
市場の出口は、大鬼の背後。
逃げ道が、ない。
「……っ」
僕はティムを地面に下ろし、自分の背中の後ろに隠した。
何の意味もない行動だ。わかっている。僕の体なんて、あの棍棒の前では紙切れ一枚ほどの盾にもならない。
それでも、体が勝手に動いていた。
「ティムくん。お兄ちゃんの後ろから、出ちゃだめだよ」
「で、でも……」
「大丈夫。大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
大鬼が、ゆっくりと近づいてくる。急ぐ必要がないのだ。逃げられない獲物を、楽しむように。
◇
頭の中で、いろいろなことが浮かんでは消えていった。
母さんの笑顔。父さんの大きな手。「あなたが生きて、ここにいてくれれば、それでいいの」。
ごめん、母さん。また親不孝をしてしまうかもしれない。
それから、前世の記憶。
あの夜も、こんな感じだった。
風の音。きしむ看板。スマホを見ていて、頭上に気づかないことりちゃん。
考えるより先に、体が動いた。植え込みから跳ね上がり、彼女を突き飛ばした。そして、鉄の板が落ちてきた。
怖くなかったと言えば、嘘になる。
でも、後悔はしなかった。
ことりちゃんが無事でよかった。最後に見えた白い光が、あたたかかった。
――結局、僕はこういう人間なんだな。
前世でも、今世でも。
自分が主役になるより、誰かを守るほうを選んでしまう。剣も魔法も使えないくせに。全部Fのくせに。
でも、それでいいと思った。
僕は、震える足に力を入れて、立ち上がった。
両手を広げて、ティムの前に立つ。
大鬼の四つの目と、まっすぐに向き合った。
足は、まだ震えている。声も出ない。
それでも、一歩も引かなかった。
◇
――同じ頃。
セリア・アルヴェインは、町の中ほどの通りで、避難する住民たちを誘導していた。
「こちらです! 西の教会へ! 走らずに、落ち着いて!」
声を張り上げながら、セリアは何度も東の空を振り返っていた。
黒煙が上がっている。地響きと咆哮が、ここまで届いてくる。
――私は、ここで何をしているのだろう。
部隊長の言葉が、耳から離れなかった。
『お前は最後の踏み込みができない』
『実戦で一瞬でも足が止まれば、死ぬのはお前だけではない』
正しい。部隊長は、何も間違っていない。
だから、何も言い返せなかった。
悔しい。情けない。名門アルヴェインの娘でありながら、戦うことすら許されない。後方で、避難誘導をしているだけ。
でも、それが今の自分の実力だった。
「――ティム! ティムはどこ!?」
悲鳴のような声が聞こえて、セリアは振り向いた。
若い女性が、人混みをかき分けながら、必死に叫んでいる。髪は乱れ、エプロンは泥だらけだった。
「どうしました!?」
「息子が……息子がいないんです! 市場で、逃げるときに手が離れて……! 五歳なんです、まだ五歳なんです!」
市場。
セリアの顔から、血の気が引いた。
市場は、東門のすぐ内側だ。今、一番危険な場所。
「落ち着いてください。教会へ避難した中にいるかもしれません。私が確認を――」
言いかけたとき、近くにいた老人が声を上げた。
「市場なら、さっき若いのが一人、走っていったぞ。宿屋の倅だ。小麦亭の」
心臓が、どくんと跳ねた。
「……小麦亭の?」
「ああ。全部Fだとかいう、あの坊主だよ。止めたんだが、聞かなくてな。誰か残ってないか見てくるって」
セリアは、その場に立ち尽くした。
レオン・アシュフォード。
剣も握れない。走ればすぐに息切れする。全項目、最低ランク。
あの少年が、今、市場にいる。
そして、その市場の方角から――
グォオオオオオオッ!
ひときわ大きな咆哮が、響いてきた。
双頭の大鬼。部隊長が言っていた、並の魔獣とは格が違う怪物。
騎士団の防衛線を、破ったのだ。
「…………」
セリアは、腰の剣の柄を握った。
命令は、後方での避難誘導。
持ち場を離れれば、命令違反だ。見習いの身で、それは許されない。それに、もし市場へ行っても、自分にあの怪物が倒せるのか。最後の一歩を踏み込めない、自分に。
足が、すくんだ。
あの日と同じように。
――でも。
頭の中に、声がよみがえった。
『怖いのは、君が優しいからだよ』
『いつか。セリアさんが、怖いのを抱えたままでも、最後の一歩を踏み込めるときが来たら』
『僕は、一番前で拍手するよ』
毎朝、覗き窓の向こうで千回を数えてくれた少年。
勝てるはずのない勝負に、自分のために立ち上がってくれた少年。
その少年が、今。
「……すみません。この方を、教会までお願いします」
セリアは、そばにいた町の男に母親を託した。
「お、おい、騎士さん!? どこへ――」
「市場へ。お子さんは、必ず連れて帰ります」
それだけ言うと、セリアは走り出した。
避難する人々の流れに逆らって。東へ。咆哮の聞こえるほうへ。
自分でも信じられないくらい、足が速かった。
◇
市場の広場で、大鬼は、僕たちの目の前まで来ていた。
見上げるほどの巨体。灰色の皮膚から、獣と血の臭いがむっと漂ってくる。二つの頭の、四つの赤い目が、僕を見下ろしている。
右の頭が、低くうなった。
大鬼が、右腕を振り上げる。
大木を削り出したような、巨大な棍棒。表面には、乾いた血がこびりついている。あれが振り下ろされたら、僕もティムも、ひとたまりもない。
僕は、目をつぶらなかった。
怖かった。死ぬほど怖かった。
でも、目をつぶったら、ティムを守れない気がした。
棍棒が、天高く掲げられる。
朝日が、その影を僕たちの上に落とす。
――そのとき。
視界の端に、何かが映った。
広場の向こう。東の通りの、ずっと先。
小さな光だった。
金色の光。
朝日とは違う。もっとやわらかくて、あたたかい光。それが、ものすごい速さで、こちらへ近づいてくる。
見覚えがあった。
毎朝、訓練場で見ている光。昨日の朝、30という数字を浮かべていた光。
――セリアさん?
まだ、姿は見えない。遠すぎて、人影すらわからない。
なのに、その金色の推し灯だけは、はっきりと見えた。
今まで見たことがないほど、強く、まぶしく輝いていた。
僕は思わず、目を凝らした。
光の中に、数字が浮かぶ。
――30、ではなかった。
数字が、揺れている。上がっている。
35。40。45。
まだ止まらない。
48。
50。
大鬼の棍棒が、振り下ろされた。




