第14話 三度外れる一撃
風を切る音がした。
巨大な棍棒が、僕の頭上に迫る。
時間が、ひどくゆっくりと流れていた。棍棒の表面の木目まで、はっきりと見える。こびりついた血の染み。ささくれだった木の繊維。
――あ、終わった。
そう思った、次の瞬間だった。
ばさっ。
棍棒の先が、何かに引っかかった。
頭上に張られていた、果物屋の屋台の天幕だった。
骨組みはさっきの咆哮の風圧で半分折れていたが、厚い帆布の天幕は、まだ屋台の柱に結びつけられたまま、僕たちの真上に垂れ下がっていた。
振り下ろされた棍棒は、その帆布を巻き込んだ。
ずるり、と軌道が横にそれる。
ドゴォン!
棍棒は、僕の右肩のすぐ横、拳ひとつ分の距離の石畳を叩き割った。
砕けた石の破片が、頬をかすめる。地面が揺れて、僕は尻もちをついた。
「…………え?」
生きていた。
背中の後ろで、ティムが小さく悲鳴を上げている。ティムも無事だ。
大鬼の左の頭が、不思議そうに首をかしげた。右の頭が、苛立ったように唸る。棍棒に絡まった帆布を、乱暴に振り払った。
◇
逃げなきゃ。
今のうちに。
僕はティムの手をつかんで、立ち上がろうとした。
でも、遅かった。
大鬼は、もう二撃目の構えに入っていた。今度は横なぎ。僕とティムをまとめて薙ぎ払おうと、棍棒を大きく後ろへ引く。
――今度こそ。
そのとき、東の家並みの切れ目から、朝日が差し込んだ。
雲が切れたのだ。
低い角度の朝日が、まっすぐに広場を貫く。
その光が、ちょうど大鬼の顔を――四つの目を、正面から射た。
グギャッ!?
大鬼の二つの頭が、同時にのけぞった。
まぶしさに目がくらんだのだ。
横なぎの一撃は、狙いを大きく外れた。棍棒は僕たちの頭上、髪の毛一本分の高さを通り過ぎ、背後の屋台の柱をへし折った。
木片が雨のように降ってくる。僕はとっさにティムに覆いかぶさった。背中にいくつか木片が当たったが、大したことはない。
顔を上げる。
大鬼が、両方の頭を振りながら、目をしばたたかせていた。
「…………」
二回。
二回も、外れた。
偶然だろうか。
いや、偶然かもしれない。でも――
僕の脳裏に、金色の光がよぎった。遠くから近づいてくる、強く輝く推し灯。
50という数字。
『推しのために動くと、幸運が強くなる(仮)』
ノートの隅に書いた、あの一行。
――まさか。
◇
大鬼が、怒りの咆哮を上げた。
二度も獲物を仕留め損ねたことに、完全に頭に血が上っている。二つの頭が同時に吼え、棍棒を両手で握り直した。
今度は、真上からの振り下ろし。全体重を乗せた、渾身の一撃。
大鬼が、一歩、大きく踏み込む。
その足が、何かを踏んだ。
ぐしゃっ。
石畳の上に散らばった、果物だった。
最初の一撃で吹き飛ばされた果物屋の籠から、熟れた桃と葡萄が転がり出ていたのだ。大鬼の巨大な足が、それをまとめて踏み潰した。
果汁と果肉で、足元がぬるりと滑る。
大鬼の巨体が、ぐらりと傾いた。
振り下ろされた棍棒は、僕たちのいる場所から大きく外れ、すぐ隣の石畳を叩いた。
ドガァァン!
これまでで一番大きな衝撃だった。石畳が粉々に砕け、地面に大きなくぼみができる。
そして――
ぴしっ。
嫌な音がした。
大鬼の握る棍棒に、一筋の亀裂が走っていた。
ぴし、ぴしぴしっ。
亀裂は見る間に広がっていく。一撃目で石畳を叩き、二撃目で屋台の柱をへし折り、三撃目で、ひときわ硬い石畳の芯を叩いた。三度の衝撃に、ついに棍棒そのものが耐えきれなくなったのだ。
バキィィィン!
大鬼の手の中で、巨大な棍棒が、粉々に砕け散った。
木片が、四方八方に飛び散る。
大鬼は、柄だけになった棍棒の残骸を、呆然と見つめていた。二つの頭が、同時に。
広場に、奇妙な静寂が落ちた。
◇
「……今だ!」
僕はティムを抱き上げ、走り出した。
大鬼が武器を失って混乱している、今しかない。反対側の路地まで、二十歩。全力で走れば――
三歩目で、足がもつれた。
自分の左足に、自分の右足が引っかかった。
視界が、ぐるりと回る。
「うわああっ!?」
僕はティムを抱えたまま、派手に前のめりに転んだ。とっさに体をひねって、ティムを胸に抱え込む。背中から石畳に落ちた。
ごつん、と後頭部を打つ。目の前に星が散った。
「お、おにいちゃん!?」
「だ、大丈夫……っ、ティムくんは……?」
「ぼく、だいじょうぶ……」
よかった。ティムには、怪我ひとつない。
代わりに僕は、肘と膝をすりむき、後頭部にたんこぶを作っていた。
――お布施、か。
こんなときに、と思った。でも、仕方ない。大きな幸運のあとには、必ず小さな不運が来る。三回も命を拾ったのだから、転ぶくらいは安いものだ。
問題は。
ずしん。
背後で、地面が揺れた。
振り返る。
大鬼が、こちらを見下ろしていた。
手には、もう棍棒はない。代わりに、丸太のような両腕を、ゆっくりと広げていた。
四つの赤い目が、怒りに燃えている。
武器がなくても、あの腕でつかまれたら、それで終わりだ。握りつぶされる。
僕は、ティムを抱えたまま後ずさった。でも、背中が何かにぶつかる。崩れた屋台の残骸だった。
逃げ場が、ない。
大鬼が、巨大な手を伸ばしてくる。
指一本が、僕の腕ほどの太さがある。爪は黒く、鋭く尖っている。
その手が、僕とティムの上に、影を落とした。
――ああ、今度こそ、だめだ。
僕は、ティムを胸に強く抱きしめた。
せめて、この子だけは。
◇
――その少し前。
セリアは、東の通りを駆けていた。
避難する人々の流れは、もう途切れている。人の消えた通りに、自分の足音だけが響く。肺が焼けるように熱い。それでも、速度を緩めなかった。
角を曲がった瞬間、市場の広場が見えた。
まず目に飛び込んできたのは、見上げるほどの灰色の巨体だった。双頭の大鬼。その足元に、子どもを抱えた少年が、尻もちをついている。
レオンだった。
大鬼が、棍棒を振り下ろす。
セリアの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
――間に合わない。
ところが、棍棒はレオンの真横の石畳を叩いた。二撃目は、頭上を通り過ぎた。三撃目は、大鬼が足を滑らせて、地面を叩いた。
そして、棍棒そのものが、粉々に砕け散った。
セリアは、走りながら目を疑った。
何が起きているのか、わからない。レオンは、何もしていない。ただ、子どもをかばって、そこに座り込んでいるだけだ。
なのに、怪物の攻撃が、一度も彼に届かない。
――まるで、世界のほうが、彼を守っているみたいに。
だが、その奇跡も長くは続かなかった。
逃げようとしたレオンが転び、大鬼が素手で手を伸ばす。今度こそ、逃げ場はない。
セリアは、剣を抜いた。
足が、震えていた。あの巨体に向かっていけば、また最後の一歩で止まってしまうかもしれない。そうなれば、自分も、レオンも、子どもも、死ぬ。
――怖い。
でも、それ以上に。
あの少年が、あの怪物の手に握りつぶされるところを、見たくなかった。
セリアは、歯を食いしばった。
そして、残りの距離を、一息に駆け抜けた。
◇
そのとき。
風が、吹いた。
いや、風ではなかった。
何かが、僕の目の前を、すさまじい速さで通り過ぎたのだ。
しゅん、という音が、遅れて聞こえた。
次の瞬間、大鬼の伸ばした腕から、黒い血が噴き出した。
グギャアアアッ!
大鬼が悲鳴を上げ、腕を引っ込める。手首のあたりに、深い切り傷が走っていた。
僕は、何が起きたのかわからないまま、顔を上げた。
僕とティムの前に、ひとつの背中があった。
細い背中。訓練用の軽鎧。両手で構えた、一振りの剣。
朝日を受けて、亜麻色のポニーテールが、金色に輝いていた。
その頭上で、金色の推し灯が、まぶしいほどに燃えている。
「……セリア、さん」
かすれた声で、名前を呼んだ。
セリアは、振り返らなかった。
大鬼から目を離さず、剣を構えたまま、短く言った。
「下がっていてください、レオンさん」
その声は、少しだけ震えていた。
でも、もう、背中は小さく見えなかった。




