第15話 止めない剣
大鬼が、血の流れる手首を押さえながら、セリアをにらみつけた。
四つの赤い目に、さっきまでとは違う色が浮かんでいる。
警戒だ。
獲物ではなく、敵として、セリアを見ている。
セリアは、剣を中段に構えたまま、静かに息を整えていた。
「ティムくん、こっち」
僕はティムを抱えて、崩れた屋台の陰まで這うように下がった。セリアの戦いの邪魔にならないように。
ティムが、僕の腕の中で震えながら、セリアの背中を見つめている。
「……きしさま?」
「うん。すごく強い騎士さまだよ」
僕は、迷わずそう答えた。
◇
先に動いたのは、大鬼だった。
グォオオッ!
咆哮とともに、丸太のような右腕が横なぎに振るわれる。武器はなくても、あの腕そのものが鈍器だ。
セリアの姿が、消えた。
次の瞬間には、大鬼の左側に回り込んでいた。目で追えなかった。毎朝、覗き窓から見ていた、あの速さ。
大鬼の腕は、空を切る。
がら空きになった左脇腹。
セリアが、地面を蹴った。
踏み込――
止まった。
ほんの一瞬。最後の一歩の直前で、セリアの足が、地面に縫いつけられたように止まった。
剣は振り抜かれた。でも、勢いが足りない。刃は大鬼の分厚い皮膚を浅く裂いただけで、致命傷には程遠かった。
大鬼が、痛みに吼えながら体をひねる。
左腕が、セリアめがけて振り下ろされた。
セリアは、それもかわした。かろうじて。後ろに跳んで距離を取る。
――やっぱり、止まる。
僕は、拳を握りしめた。
セリアは、また攻めた。正面から。右から。背後から。
速さでは、完全にセリアが上だった。大鬼の攻撃は、ひとつも当たらない。セリアの剣は、何度も大鬼の体に届いた。
でも、そのたびに、最後の一歩で止まる。
浅い傷ばかりが、大鬼の体に増えていく。一つ一つは、皮膚を裂く程度のもの。分厚い筋肉に守られた大鬼には、ほとんど効いていない。
逆に、セリアの息が上がり始めていた。
あれだけの速さで動き続ければ、体力の消耗は激しいはずだ。毎朝の千回の素振りで鍛えた体でも、限界はある。
そして。
五度目の踏み込みが止まった瞬間、大鬼の拳が、ついにセリアをとらえた。
ドゴッ。
鈍い音。
セリアの体が、宙を舞った。
数歩分の距離を吹き飛ばされ、市場の石壁に背中から叩きつけられる。剣が手から離れ、からからと石畳を転がった。
「セリアさん!」
僕は思わず叫んでいた。
セリアは、壁にもたれたまま、ずるずると崩れ落ちた。軽鎧の胸当てが、大きくへこんでいる。口の端から、一筋の血が流れていた。
意識は、ある。でも、すぐには立ち上がれない。
大鬼が、ゆっくりとセリアに向き直った。
四つの目に、勝ち誇ったような光が浮かぶ。
ずしん。ずしん。
一歩ずつ、セリアに近づいていく。
◇
――私は、また。
石壁にもたれたまま、セリアは、霞む目で大鬼を見上げていた。
――また、止まってしまった。
五回。五回とも、勝てる機会があった。あと一歩踏み込めば、剣は大鬼の急所に届いていた。
なのに、体が止まった。
踏み込もうとするたびに、あの日の光景が浮かぶ。
十歳の夏。アルヴェイン家の訓練場。
自分の剣が、見えないほどの速さで、ライナス兄様の腕を打ち据えた瞬間。骨の折れる、嫌な音。兄様の、苦痛にゆがんだ顔。
あれから八年。
ずっと、自分の剣が怖かった。
速くなればなるほど、怖くなった。この剣は、いつかまた、大切な誰かを傷つける。だから、踏み込めない。踏み込んではいけない。
――結局、私は。
大鬼の巨体が、目の前に迫る。
――何も守れないまま、ここで。
◇
「セリア!」
声が、聞こえた。
広場に、響き渡る声だった。
セリアは、ゆっくりと顔を向けた。
崩れた屋台の陰。子どもを抱えた少年が、こちらを見ていた。
膝をすりむき、頬に擦り傷を作り、髪はぼさぼさで、服は泥だらけ。全身がぼろぼろだった。
なのに、その目だけは、まっすぐに自分を見ていた。
「セリア! 最後まで踏み込め!」
レオンは、叫んでいた。
喉が裂けるんじゃないかと思うほどの、大声で。
「君の剣は、誰かを傷つけるための剣じゃない! 守るための剣だ!」
セリアの目が、見開かれた。
「僕は毎朝見てた! 君が千回、剣を振るのを! 誰も見てなくても、誰にも褒められなくても、一回も休まずに振り続けてたのを!」
レオンは、ティムを抱えたまま、身を乗り出していた。
「あれは、誰かを傷つけたくて振ってた剣じゃないだろ! 強くなりたくて、守れるようになりたくて、振ってた剣だろ!」
声が、かすれる。それでも、レオンは叫び続けた。
「だから、大丈夫だ! 君の剣は、もう誰も傷つけない! 今、ここで、僕とこの子を守ってくれてるじゃないか!」
◇
セリアの脳裏に、いくつもの光景がよみがえった。
夜明け前の訓練場。冷たい空気。手のひらの痛み。一回、二回と数えながら振る剣。
千回目を振り終えたとき、覗き窓の向こうから聞こえてくる、拍手の音。
『毎朝、誰よりも早く来てますよね』
『怖いのは、君が優しいからだよ』
『僕は、一番前で拍手するよ』
そして、もうひとつ。
ずっと忘れていた、記憶。
腕を折られたライナス兄様が、包帯だらけの姿で、それでも笑って言った言葉。
『セリアは悪くない。すごい剣だった』
『いつか、その剣で、誰かを守ってやれ』
――ああ。
セリアは、気づいた。
兄様は、最初から言ってくれていたのだ。
この剣は、呪いじゃない。
誰かを守るための、力なのだと。
自分が、ずっと、それを聞こうとしなかっただけで。
◇
大鬼が、セリアの目の前で、両腕を振り上げた。
組み合わせた巨大な拳。それを、ハンマーのように振り下ろそうとしている。
セリアの手が、石畳の上を探った。
指先が、剣の柄に触れる。
握る。
手のひらのマメが、柄に食い込む。何度も潰れて、何度も固まった、自分の手。
――怖い。
まだ、怖い。
踏み込もうとすると、足が震える。あの日の光景が、まぶたの裏にちらつく。
――それでも。
セリアは、立ち上がった。
壁から背中を離し、剣を構える。
大鬼の拳が、振り下ろされる。
――怖いままで、いい。
セリアは、地面を蹴った。
一歩。
二歩。
そして、最後の一歩。
八年間、一度も踏み出せなかった、その一歩を――
セリアは、踏み込んだ。
止まらなかった。
◇
音が、消えた。
僕の目には、何も見えなかった。
セリアの体が、ぶれたと思った次の瞬間には、彼女はもう大鬼の背後にいた。剣を振り抜いた姿勢のまま、片膝をついている。
風が、遅れて吹き抜けた。
ポニーテールが、ふわりと揺れる。
大鬼は、両腕を振り上げた姿勢のまま、固まっていた。
一秒。
二秒。
大鬼の二つの首に、一筋の赤い線が浮かび上がった。
左の首から、右の首へ。一太刀で、まっすぐに。
ずるり。
大鬼の巨体が、ゆっくりと前に傾いた。
ズゥゥゥン――!
地響きを立てて、双頭の大鬼は、市場の石畳に倒れ伏した。
もう、動かなかった。
◇
広場に、静寂が落ちた。
セリアは、片膝をついたまま、自分の手の中の剣を見つめていた。
刃には、大鬼の黒い血がついている。
その手は、震えていた。
でも、もう、怯えている顔ではなかった。
信じられないものを見るような、呆然とした顔。
セリアは、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
僕は、ティムを地面に下ろした。
そして、両手を胸の前に持ち上げた。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
手を叩いた。
一番前で。約束どおりに。
手のひらが痛くなるまで、何度も、何度も。
「すごいよ、セリア……!」
声が、震えた。目の奥が、熱かった。
「すごかった。本当に、すごかった……!」
前世で、何度も見てきた。推しが壁を越える瞬間。昨日できなかったことが、今日できるようになる瞬間。
でも、こんなに胸が震えたのは、初めてだった。
ティムも、僕の真似をして、小さな手で拍手をしていた。
「きしさま、すごい! すごい!」
セリアは、僕たちを見つめていた。
蒼い瞳から、一粒の涙がこぼれた。
それから、彼女は、くしゃりと顔をゆがめて――
笑った。
初めて見る、セリアの笑顔だった。
涙で濡れて、口の端に血をつけたまま、子どもみたいに笑っていた。
その頭上で、金色の推し灯が、朝日よりもまぶしく輝いていた。
――これは、僕の幸運なんかじゃない。
僕は、拍手を続けながら思った。
あの一太刀は、セリアが八年間積み重ねてきたものだ。毎朝の千回の素振りと、怖さを抱えたまま踏み込んだ、彼女自身の勇気が生んだものだ。
僕は、それを一番前で見届けただけ。
それが、何よりも誇らしかった。
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