第16話 正当な評価
大鬼が倒れてから、しばらくして、東門の方角の喧騒が静まっていった。
魔獣の咆哮が途絶え、代わりに、騎士たちの勝ちどきが聞こえてくる。
「……終わった、のかな」
僕がつぶやくと、隣でセリアが小さくうなずいた。
「群れの頭は、あの大鬼でした。頭を失った魔獣は、統率が取れなくなります。あとは騎士団が掃討するだけでしょう」
セリアは、石畳に座り込んだまま、まだ肩で息をしていた。軽鎧の胸当ては大きくへこみ、口の端の血は乾きかけている。
「セリアさん、怪我は……」
「肋骨が、何本か。でも、大丈夫です。息はできますから」
「全然大丈夫じゃないよね!?」
思わず大きな声を出すと、セリアはびくりと目を丸くして、それから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……あなたも、たいがいぼろぼろですよ」
言われて、自分の姿を見下ろす。膝も肘もすりむけて、服は泥と果汁でぐちゃぐちゃ。後頭部には、さっき打ったたんこぶがずきずきと脈打っている。
二人とも、ひどい有様だった。
顔を見合わせて、どちらからともなく、小さく笑った。
◇
「ティム!」
市場の入口から、悲鳴のような声が響いた。
振り向くと、エプロン姿の若い女性が、転がるように駆けてくるところだった。
「おかあさん!」
ティムが、僕の腕から飛び出した。小さな足で石畳を駆け、母親の胸に飛び込む。
母親は、ティムを抱きしめたまま、その場に崩れ落ちた。声を上げて泣いている。ティムも、母親の首にしがみついて泣いていた。
僕は、その光景を、ただ黙って見ていた。
よかった。
本当に、よかった。
やがて、母親が顔を上げた。涙で濡れた目で、僕とセリアを見る。
「あ……ありがとうございます……っ、本当に、ありがとうございます……っ!」
何度も、何度も頭を下げる。
その頭上に、ぽっと白い光が灯った。
ティムの頭上にも。小さな、小さな白い灯。
――感謝の色だ。
ティムが、母親の腕の中から、僕に向かって手を振った。
「おにいちゃん、ありがとう! きしさまも、ありがとう!」
その手には、木彫りの小さな馬の人形が、しっかりと握られていた。
◇
昼過ぎには、魔獣の群れは完全に掃討された。
騎士団にも怪我人は出たが、死者はいなかった。町の東側の家屋がいくつか壊されたものの、逃げ遅れた住民は、ティム以外にいなかったらしい。
被害は、驚くほど小さかった。
夕方、駐屯地の中庭に、騎士団の全員が集められた。
僕も、なぜか呼ばれていた。手当てを受けた肘と膝に包帯を巻いたまま、中庭の隅に立つ。
騎士たちの列の前に、ゴードン部隊長が進み出た。鎧は傷だらけで、顎髭には煤がこびりついている。
「今日、我々はハルネを守り抜いた。皆、よくやった」
騎士たちから、おお、と声が上がる。
「だが、ひとつ、皆に伝えておかねばならんことがある」
ゴードン部隊長は、列の端に目を向けた。
「セリア・アルヴェイン。前へ」
セリアの肩が、ぴくりと震えた。
包帯の上から軽鎧をつけ直したセリアが、ゆっくりと列から進み出る。騎士たちの視線が、一斉に彼女に集まった。
「お前は、後方での避難誘導を命じられていた。にもかかわらず、持ち場を離れ、市場へ向かった。間違いないか」
「……間違いありません」
セリアは、まっすぐに部隊長を見上げて答えた。
「命令違反だ。見習いの身で、許されることではない」
「承知しています。どのような処分も、受けます」
中庭が、しんと静まり返った。
僕は、思わず一歩前に出かけた。違う、セリアは子どもを助けるために――
でも、その前に、ゴードン部隊長が口を開いた。
「――そして、市場に逃げ遅れた子どもと住民を、双頭の大鬼から守った」
部隊長の声が、少しだけやわらいだ。
「双頭の大鬼は、正規の騎士が五人がかりで当たる相手だ。それを、見習いがひとりで討ち取った。一太刀で、二つの首をな」
騎士たちが、ざわめいた。
「一太刀……?」
「本当か、あの大鬼を?」
「死骸を見てきたが、首の切り口が恐ろしいほどきれいだった。あれは、とんでもない速さの剣だぞ」
ゴードン部隊長は、ざわめきを手で制した。
「命令違反は、命令違反だ。処分として、三日間の兵舎内謹慎を命じる」
セリアが、唇を引き結んで頭を下げる。
「そして」
部隊長は、にやりと笑った。
「双頭の大鬼討伐の功により、セリア・アルヴェインの見習い期間を終了とし、正騎士への昇格を王都に推薦する。謹慎が明けたら、叙勲式だ」
セリアが、顔を上げた。
蒼い瞳が、大きく見開かれている。
「……え」
「聞こえなかったか? お前は今日から、ハルネ辺境騎士団の正騎士候補だ。アルヴェイン家にも、この戦果は正式に報告しておく」
一瞬の静寂のあと。
中庭に、拍手が湧き起こった。
最初はまばらだった。でも、すぐに広がっていった。騎士たちが、見習いたちが、セリアに向かって手を叩いている。
僕も、手が痛くなるまで拍手した。
セリアは、呆然と立ち尽くしていた。
やがて、その頬を、一筋の涙が伝った。
◇
中庭の集まりが解散したあと。
兵舎へ戻ろうとするセリアの前に、ひとりの見習いが立ちはだかった。
額に大きな包帯を巻いた、金髪の少年。
バルト・グレイヴスだった。
僕は思わず身構えた。また何か言うつもりだろうか。
でも、バルトの顔に、いつもの嘲るような笑みはなかった。
バルトは、しばらく黙ってセリアを見つめていた。
それから、深々と頭を下げた。
「……すまなかった」
セリアが、目を丸くする。
「お前のことを、アルヴェインの恥だと言った。努力してるふりだと言った。全部、撤回する」
バルトは、頭を下げたまま、絞り出すように続けた。
「あの大鬼の死骸を見た。俺には、あんな剣は振れない。何年かかっても、たぶん無理だ。……俺は、お前が怖かったんだと思う。お前の剣が速すぎて。だから、最後の一歩が止まるのを見て、安心してた。笑ってた」
「バルト……」
「悪かった。本当に」
セリアは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「顔を上げてください。……謝罪は、受け取りました」
バルトが、ゆっくりと顔を上げる。
それから、バルトは、くるりと僕のほうを向いた。
「お前にも、だ」
「え、僕?」
「勝負の約束だっただろ。俺が負けたら、撤回するって。……撤回する。セリアは、恥なんかじゃない」
それだけ言うと、バルトはばつが悪そうに頭をかき、兵舎の中へ消えていった。
その頭上に、ほんの小さな、白い光がちらりと灯ったのを、僕は見逃さなかった。
◇
一方、僕のほうにも、思わぬことが起きていた。
騎士団の手当てを受けて小麦亭に戻る途中から、なぜか町の人たちの視線が、やけに熱かったのだ。
「おい、あれが噂の……」
「双頭の大鬼の前に、素手で立ちはだかったって」
「棍棒の一撃を、三度もかわしたらしいぞ」
かわしていない。
全部、勝手に外れただけだ。
翌日には、噂はさらに大きくなっていた。
ギルドに顔を出すと、冒険者たちが一斉にこちらを振り向いた。
「お、来たぞ! 大鬼の攻撃を三度見切った男だ!」
見切っていない。
「全部Fって話は、やっぱり偽装だったんだな」
「天幕を使って一撃目を逸らし、朝日の角度を計算して二撃目をかわし、三撃目は果物で足を滑らせる。全部、計算ずくだったって話だ」
「しかも棍棒の耐久まで読んで、三撃で砕けるように誘導したとか……」
話が、とんでもない方向に膨らんでいる。
僕は、必死に首を振った。
「ち、違います! あれは全部、たまたまです!」
ギルドの中が、しんと静まり返った。
冒険者たちが、顔を見合わせる。
やがて、片目に眼帯をつけた初老の男――登録試験のときの試験官、グスタフさんが、腕を組んで重々しく口を開いた。
「……たまたま、か」
その声には、畏怖のようなものが混じっていた。
「天幕も、朝日も、果物も。そのすべてが、たまたま坊主の味方をした。それを、本人は『たまたま』と言う」
グスタフさんは、眼帯のないほうの目を細めた。
「運すら支配する境地か……」
ギルドの中に、どよめきが広がった。
「運すら支配……!」
「そんな境地が、本当に……」
「だから能力値に表れないのか!」
僕は、頭を抱えた。
「違います……」
誰も、聞いていなかった。
◇
三日後。
謹慎が明けたセリアのもとに、王都から一通の手紙が届いた。
早馬で運ばれてきたそれは、厚手の上質な紙に、アルヴェイン家の紋章の封蝋が押されていた。
その日の夕方、訓練場で、セリアはその手紙を僕に見せてくれた。
「……父からです」
封を切られた手紙を、セリアは両手で大切そうに持っていた。
僕は、のぞき込んだ。
手紙は、驚くほど短かった。
便箋の真ん中に、力強い筆跡で、たった一行だけ。
――よくやった。
「父は、昔から口数の少ない人で」
セリアは、手紙を見つめたまま言った。
「私が王都の騎士団から外されたときも、何も言いませんでした。叱りもせず、慰めもせず。私は、父に見放されたのだと思っていました」
セリアの指が、便箋の端をそっと撫でた。
「でも、この字……。少し、震えているんです。父は、剣を握るときでさえ、手が震えたことのない人なのに」
セリアの声が、かすれた。
「たった一行……。たった、一行なのに……」
蒼い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
セリアは、手紙を胸に抱きしめて、子どものように泣いた。
八年分の涙だった。
僕は、何も言わずに、その隣に座っていた。
夕日が、訓練場を茜色に染めていた。
セリアの頭上で、金色の推し灯が、静かに輝いていた。
――58
八年間、誰にも見てもらえなかった努力が、ようやく報われた日。
僕は、その光を見上げながら、心の中で拍手を送り続けていた。




