第7話 僕だけは知っている
翌朝も、セリアは訓練場にいた。
五戦全敗した次の日だ。正直なところ、今朝は来ないかもしれないと思っていた。あれだけ笑われたあとで、いつもどおり剣を振れる人はそういない。
でも、覗き窓の向こうでは、いつもと同じ音が響いていた。
ひゅん。ひゅん。ひゅん。
僕は、そっと息を吐いた。
――やっぱり、この人はすごい。
いつものように、黙って素振りを数える。
百。二百。三百。基本の型が終わり、足さばきを組み合わせた連続技に移る。
昨日の模擬戦の疲れが残っているのか、動きがわずかに重い。打たれた右の手首を、ときどきかばうような仕草も見える。それでも、セリアは一度も手を止めなかった。
七百。最後の三百回。踏み込んで、上段から斬り下ろす型。
一振りごとに、あの一瞬の「ため」が見える。昨日の模擬戦で、五回とも彼女を負けさせた、あの一瞬。
セリアはそれを振り払うように、何度も、何度も、同じ型を繰り返す。
九百九十八。九百九十九。
千。
最後の一振りを終えて、セリアは木剣を下ろした。肩で大きく息をしている。額から流れた汗が、顎の先から地面に落ちた。
東の山から朝日が差し込み、訓練場を金色に染めていく。
その光の中に立つ彼女を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。
ぱち、ぱち、ぱち。
気づいたときには、覗き窓の前で手を叩いていた。
黙って見ていると約束したのに。声も出さないと言ったのに。
でも、止められなかった。
昨日あれだけ笑われて、それでも今朝ここに立って、千回を振り切った人に、拍手を送らずにはいられなかった。
セリアが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
◇
「……約束が違います」
通用門の脇で、セリアは腕を組んで僕をにらんでいた。
拍手を聞いた彼女はつかつかと覗き窓まで歩いてきて、「そこで待っていなさい」と言い残し、通用門から出てきたのだ。
「黙って見ていると言いましたよね」
「はい。すみません。破りました」
僕は深々と頭を下げた。言い訳のしようがない。
「それで、何のつもりですか。昨日の模擬戦を見ていたのでしょう。五戦全敗した女に拍手なんて、嫌味ですか」
「嫌味じゃないです」
顔を上げて、まっすぐ彼女を見た。
「本当に、すごいと思ったから」
「……何がすごいんですか。私は昨日、全部負けました。バルトの言うとおりです。私の剣は、速いだけで、誰も斬れない」
セリアの声には、何の感情もこもっていなかった。自分に言い聞かせるような、平坦な声。
僕は、肩にかけていた鞄から一冊の帳面を取り出した。
推しノート。
セリアのページを開く。
「毎朝、誰よりも早く来てますよね」
「……は?」
「僕が一度、いつもより半刻早く来たことがあったんです。それでもセリアさんはもう素振りを始めてた。たぶん、夜明けの一刻以上前から来てる」
セリアの眉が、ぴくりと動いた。
「素振りは毎朝ちょうど千回。六日間、一回も欠かしてない。最初の三百回が基本の型で、次の四百回が連続技、最後の三百回が上段からの踏み込み」
「ちょ、ちょっと待ってください。数えていたんですか?」
「数えてました」
僕はページをめくった。
「それから、足の運び。三日前と比べて、連続技のときの左足の戻りが速くなってます。最初の日は、三連撃目で一瞬だけ重心が後ろに残ってたんですけど、昨日の朝はそれがなかった」
「……っ」
「構えも変わりました。先週までは剣先が少し右に流れてたのに、今週から真ん中に戻ってる。たぶん、自分で気づいて直したんですよね。誰にも言われてないのに」
セリアの口が、半開きになっていた。
「あと、昨日の模擬戦。五試合とも、セリアさんのほうが速かったです。相手の攻撃は全部かわしてた。一本も、まともに食らってない。負けたのは、全部、最後の踏み込みのところだけでした」
そこで、言葉を切った。
踏み込みのことは、まだ言わないほうがいい気がした。昨日、彼女が木剣を見つめていたときの怯えた顔が、頭をよぎったから。
代わりに、ノートを閉じて言った。
「だから、すごいと思ったんです。昨日あれだけ笑われて、それでも今朝、いつもと同じ時間に来て、千回振り切ったことが。それがすごくないなら、何がすごいのか、僕にはわかりません」
沈黙が落ちた。
朝の鳥が、どこかで鳴いている。
セリアは、しばらく僕の顔と、手の中のノートを交互に見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「……気持ち悪いくらい、見ていますね」
「よく言われます」
前世でも、同僚に同じことを言われたことがある。
セリアは、ふっと視線をそらした。
「そんなこと……誰にも、言われたことがありません」
小さな声だった。
「家でも、王都の騎士団でも。みんな、結果しか見ていなかった。何回勝ったか。何回負けたか。アルヴェインの名にふさわしいかどうか。毎朝何時に来ているかなんて、誰も……」
そこで、セリアは言葉を詰まらせた。
唇を噛んで、うつむく。亜麻色の前髪が、表情を隠した。
「……今日はもう、戻ります」
そう言って、くるりと背を向けた。
「あ、あの! 明日も来ていいですか?」
また同じことを聞いてしまった。
セリアは足を止めた。振り返らずに、少しだけ間を置いてから答える。
「……拍手は、終わってからにしてください。途中だと、数を間違えます」
それだけ言うと、通用門の向こうに消えていった。
僕は、その場に立ち尽くしていた。
――今の、来てもいいってこと、だよね?
◇
その瞬間だった。
通用門の向こう、石壁越しに見えるセリアの頭の上に、何かが灯った。
小さな光。
母さんや父さんの頭上にある白い光とは、色が違った。
金色だった。
朝日を受けた麦の穂のような、やわらかな金色の光。それが、セリアの頭上でふわりと揺れながら、兵舎のほうへ遠ざかっていく。
「……え」
僕は目をこすった。
消えない。
石壁の向こうなのに、なぜかはっきりと見える。歩くセリアの頭上で、金色の光は小さく、でも確かに輝いていた。
白い光は、母さんと父さん。そしてことりちゃん。
金色の光は、セリア。
色が違う。どうして?
僕はその光を、じっと見つめた。目を細め、意識を集中させる。
すると、光の中に、何かが浮かび上がってきた。
文字……いや、数字だ。
ぼんやりと揺らぐ、小さな数字。
――12
「……じゅう、に?」
つぶやいた瞬間、数字はふっと揺らいで見えなくなった。金色の光だけが残り、やがてセリアの姿と一緒に兵舎の中へ消えた。
僕は、通用門の前で呆然と立ち尽くしていた。
頭の中で、いくつもの疑問が渦を巻く。
金色の光。12という数字。
母さんの光は、どうして白いんだろう。母さんの光にも、数字はあるんだろうか。
そして、どうして今、セリアの頭上に光が灯ったんだろう。
ついさっきまでは、なかったはずだ。毎朝覗き窓から見ていたけれど、彼女の頭上に光を見たことは一度もなかった。
灯ったのは、僕がノートを読み上げたあと。彼女が「誰にも言われたことがありません」とつぶやいたあと。
――もしかして。
僕は、自分の手の中の推しノートを見下ろした。
◇
帰り道、坂道を下りながら、僕はずっと考えていた。
朝の町は、少しずつ目を覚まし始めている。パン屋の煙突から煙が上がり、井戸端では女の人たちが水を汲んでいる。
すれ違う人たちの頭上を、ひとりずつ見ていく。
光は、ない。
小麦亭の前まで来ると、ちょうど母さんが店の前を掃いていた。
「あら、レオン。また朝の散歩?」
「うん。ただいま」
母さんの頭上には、いつもの白い光が灯っている。
僕は立ち止まり、その光をじっと見つめた。さっきと同じように、意識を集中させる。
光の中に、数字が浮かんだ。
――85
「……はちじゅう、ご」
「え? 何か言った?」
「ううん、なんでもない!」
僕は慌てて首を振り、宿の中に駆け込んだ。
階段を上り、屋根裏の部屋に飛び込んで、扉を閉める。
心臓がどきどきしていた。
母さんは85。セリアは12。
母さんは、十八年間、僕を育ててくれた人だ。誰よりも僕を大切にしてくれている。
セリアは、今朝初めて、まともに言葉を交わした人だ。
85と、12。
その差が、何を意味しているのか。
僕は推しノートを開き、新しいページに震える手で書きつけた。
――光の色:白(母さん、父さん、ことりちゃん)、金
――光の中に数字がある。集中すると見える。
――母さん85、セリア12。
――セリアの光は、今朝、話したあとに灯った。
書きながら、ひとつの仮説が、頭の中で形になっていく。
でも、それを言葉にするのは、まだ少し怖かった。
もし本当にそうなら。
この光は――




