第6話 負け続ける神速剣
それから五日間、僕は毎朝、駐屯地の覗き窓の前に立った。
夜明け前に宿を抜け出し、坂道を上り、石壁の覗き窓から訓練場をのぞく。
セリア・アルヴェインは、毎朝そこにいた。
僕が着く頃には、もう素振りを始めている。たぶん、僕よりずっと早く来ているのだろう。一度、いつもより早く家を出てみたことがあったが、それでも彼女はもう剣を振っていた。
約束どおり、僕は声を出さなかった。ただ黙って見ていた。
セリアも、僕に話しかけてこなかった。目が合うことすらなかった。まるで覗き窓の向こうに誰もいないかのように、ひたすら剣を振り続けていた。
それでいい、と思った。
推しの邪魔をしないこと。それが一番大事だ。
見ているうちに、いろいろなことに気づいた。
素振りは、毎朝ぴったり千回。数えてみたら、五日間とも同じだった。
千回のうち、最初の三百回は基本の型。次の四百回は、足さばきを組み合わせた連続技。最後の三百回は、ひたすら同じ一つの型を繰り返している。
大きく踏み込んで、上段から斬り下ろす型。
その型のときだけ、セリアの動きがわずかに変わる。
踏み込む直前、ほんの一瞬だけ、足が止まる気がするのだ。
気のせいかもしれない。素人の僕には、はっきりとはわからない。でも、何度見ても、その一瞬の「ため」のようなものが、引っかかった。
◇
六日目の朝。
いつものように覗き窓をのぞくと、訓練場の様子が違っていた。
セリアの姿がない。代わりに、騎士団の団員たちが、訓練場の周りに木の長椅子を並べている。
「おう、坊主。また来たのか」
石壁の通用門の前で、門番の中年騎士に声をかけられた。毎朝通っているうちに、すっかり顔を覚えられてしまったらしい。
「おはようございます。今日は何かあるんですか?」
「月に一度の公開模擬戦だよ。騎士見習いの連中が、町の人の前で腕前を披露するんだ。昼から始まるから、見たけりゃ来な。中に入れてやるよ」
公開模擬戦。
つまり、セリアが戦うところを、間近で見られる。
「ぜ、ぜひ!」
僕が勢いよく頭を下げると、門番さんは「変わった坊主だな」と笑った。
◇
昼過ぎ。
駐屯地の訓練場は、思っていた以上の人出だった。
長椅子には町の人たちがぎっしりと座り、子どもたちは柵に鈴なりになっている。屋台まで出ていて、焼き栗の香ばしい匂いが漂っていた。辺境の町にとって、公開模擬戦はちょっとしたお祭りなのだろう。
僕は長椅子の一番前の端に、なんとか席を確保した。
訓練場の中央には、騎士見習いたちが整列していた。全部で二十人ほど。そのほとんどが十代後半の若者で、緊張した顔をしている。
その列の、一番端。
亜麻色のポニーテールが見えた。
セリアだった。背筋をまっすぐに伸ばし、前だけを見つめている。表情は、朝の訓練場で見るときよりも、さらに硬い。
「静粛に!」
太い声が響いた。
訓練場の中央に、大柄な騎士が進み出た。日焼けした顔に、豊かな顎髭。肩幅は僕の二倍はありそうだ。
「辺境騎士団部隊長、ゴードンである! 本日はよく来てくれた! 見習いどもの成長ぶりを、存分に見ていってくれ!」
町の人たちから拍手が起きる。
ゴードン部隊長の説明によると、模擬戦は木剣を使った一対一の勝負。相手に有効打を一本入れるか、相手が降参すれば勝ち。見習いたちは総当たりで、何人かと順番に戦うらしい。
「第一試合! セリア・アルヴェイン、対、マルコ・ベイル!」
いきなり、セリアの名前が呼ばれた。
僕は思わず身を乗り出した。
◇
セリアの相手は、セリアより頭ひとつ大きい、がっしりした体格の少年だった。
二人が向かい合い、木剣を構える。
「始め!」
ゴードン部隊長の号令。
マルコが、大きく木剣を振りかぶって突進した。力任せの、隙だらけの一撃。
セリアなら、簡単にかわせる。かわして、一本入れられる。毎朝あの剣を見ている僕には、それがわかった。
実際、セリアは動いた。
消えるような速さで横に跳び、マルコの一撃をかわす。観客席から「おおっ」と声が上がる。
そのまま、セリアはマルコの懐に踏み込もうとした。
踏み込もうと、した。
――止まった。
踏み込む直前。ほんの一瞬。
朝の訓練場で見た、あの「ため」と同じだった。
その一瞬で、セリアの剣は勢いを失った。マルコの脇腹に届くはずだった木剣は、浅くかすめただけ。有効打にはならない。
そして、体勢を立て直したマルコの二撃目が、セリアの肩を打った。
「一本! マルコ・ベイルの勝ち!」
観客席から、気の抜けたような拍手が起きた。
セリアは、打たれた肩を押さえもせず、無言で一礼して下がっていった。
◇
二試合目も、三試合目も、同じだった。
セリアは、どの相手よりも速かった。相手の攻撃はすべてかわせていた。何度も、相手の懐に入り込むチャンスがあった。
なのに、最後の一歩で、必ず止まる。
踏み込みが止まり、剣が鈍り、その隙を突かれて負ける。
三戦全敗。
四試合目が始まる頃には、観客席の空気が変わっていた。
「アルヴェイン家のお嬢様って、こんなもんなのか」
「動きは速いのになあ。なんで最後に止まるんだ?」
「怖がってるんじゃないか。剣を当てるのを」
ひそひそ声が、あちこちから聞こえてくる。
そして、見習いたちの列のほうから、もっとはっきりとした声が上がった。
「おいおい、また止まったぞ!」
声の主は、金髪を後ろになでつけた、鼻筋の通った少年だった。仕立てのいい軽鎧には、家紋らしき刺繍が入っている。
「名門アルヴェインの剣ってのは、相手の目の前で止まって、お辞儀でもする剣なのか?」
見習いたちの何人かが、くすくすと笑った。
「バルト、やめておけ」
隣の見習いがたしなめるが、金髪の少年――バルトは、肩をすくめただけだった。
「事実を言ってるだけだろ。俺たちは辺境で真面目にやってるんだ。王都で使い物にならなかったお嬢様に、足を引っ張られちゃたまらない」
そして、聞こえよがしに付け加えた。
「アルヴェインの恥だよ、まったく」
観客席の何人かが、つられて笑った。
セリアは、何も言い返さなかった。
列の端で、まっすぐ前を見たまま、微動だにしない。ただ、木剣を握る手だけが、白くなるほど強く握りしめられていた。
◇
五試合目。セリアの最後の試合。
相手は、そのバルトだった。
「始め!」
バルトは、ほかの見習いたちとは違った。構えに無駄がなく、動きが鋭い。おそらく、見習いの中でも上位の実力者なのだろう。
それでも、セリアのほうが速かった。
バルトの突きを、セリアは紙一重でかわした。返す刀で、バルトの胴が完全にがら空きになる。
今だ。
僕は、思わず長椅子から腰を浮かせていた。
セリアの足が、地面を蹴る。
踏み込――
止まった。
また、止まった。
セリアの剣がバルトの胴に届く寸前で、ふっと力を失う。バルトはその一瞬を見逃さなかった。体をひねって剣をかわし、セリアの手首を木剣で打ち据えた。
からん、と乾いた音を立てて、セリアの木剣が地面に落ちた。
「一本! バルト・グレイヴスの勝ち!」
バルトが、勝ち誇った顔でセリアを見下ろした。
「わかったか? お前の剣は、速いだけで、誰も斬れない」
観客席から、笑い声と拍手が同時に起こった。
◇
五戦全敗。
模擬戦が終わり、観客たちが帰り始めても、僕は長椅子から立ち上がれなかった。
訓練場の隅で、セリアがひとり、地面に落ちた木剣を拾っていた。
ほかの見習いたちは、もう兵舎に戻っている。誰も、彼女に声をかけなかった。
セリアは木剣を拾い上げ、じっとそれを見つめていた。
夕日が、彼女の横顔を照らしていた。
僕は、その表情を見て、はっとした。
悔しそうな顔を、想像していた。唇を噛み、涙をこらえるような顔を。
でも、違った。
セリアの顔に浮かんでいたのは、悔しさではなかった。
怯え、だった。
自分の手の中にある木剣を、まるで恐ろしいものでも見るかのように見つめている。その指先が、かすかに震えていた。
――怖がってる。
観客席の誰かが言っていた。剣を当てるのを、怖がっているんじゃないかと。
でも、それだけじゃない気がした。
彼女が怖がっているのは、相手じゃない。負けることでもない。
もっと別の、何か。
あれほど速い剣を持ちながら、最後の一歩を踏み出せない理由。毎朝千回の素振りの最後に、同じ型ばかりを三百回も繰り返していた理由。
僕は、覗き窓から見ていた五日間の彼女の姿を思い出していた。
踏み込む直前の、ほんの一瞬の「ため」。
あれは、彼女自身が、自分で止めていたのだ。
セリアは木剣を腰に差し、誰もいない訓練場をひとりで歩き去っていった。
その背中を、僕はただ見送ることしかできなかった。
◇
夜。推しノートを開く。
セリアのページに、今日のことを書きつけていく。
――公開模擬戦、五戦全敗。
――全試合、相手より速い。攻撃はすべて回避。勝機は毎試合あった。
――最後の踏み込みで、必ず止まる。朝の素振りの「ため」と同じ。
――止めているのは、セリア自身。
――バルト・グレイヴス。「アルヴェインの恥」。
――試合後、木剣を見つめる顔。悔しさじゃなく、怯え。
ペンを止めて、ページを見つめた。
この人は、何を怖がっているんだろう。
わからない。
でも、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
――毎朝誰よりも早く来て、千回剣を振る人が、「恥」なんかであるはずがない。
僕はペンを握り直し、ページの一番下に、大きく書いた。
――明日、ちゃんと伝えよう。
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