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第5話 訓練場の少女

 その夜、僕はなかなか眠れなかった。


 目を閉じると、夕暮れの訓練場で剣を振っていた影が浮かんでくる。


 あれは誰だったんだろう。


 騎士団の人なら、訓練が終わったあとに一人で残る理由があるはずだ。罰として居残りを命じられたのか。それとも、自分から残っていたのか。


 あの剣の振り方は、罰で振らされている人のものには見えなかった。


 一振りごとに、何かを確かめるような。何かを振り払うような。


 気になる。


 どうしようもなく、気になる。


 前世でも、こういう夜は何度もあった。新しいアイドルのデビュー配信を偶然見かけて、その子の歌い方が頭から離れなくなった夜。ゲームの新キャラのストーリーを読んで、その子の過去が気になって眠れなくなった夜。


 推しに出会う前の夜は、いつもこんな感じだった。


 僕は、窓の外の二つの月を見上げた。


 ――明日の朝、もう一回行ってみよう。


 ◇


 夜明け前。


 空がまだ群青色のうちに、僕は宿の裏口からそっと抜け出した。


 町は眠っている。石畳を照らすのは、沈みかけた青い月の光だけ。吐く息が白い。辺境の秋の朝は、思っていたよりずっと冷える。


 坂道を上り、駐屯地の石壁に沿って歩く。


 昨日の覗き窓の前まで来たとき、壁の向こうから音が聞こえた。


 ひゅん。ひゅん。ひゅん。


 昨日の、打ち込み台を叩く音とは違う。空気を切り裂く音だ。素振りをしている。


 ――いた。


 心臓が跳ねた。


 つま先立ちになって、覗き窓から中をのぞく。


 まだ薄暗い訓練場の中央に、昨日と同じ影があった。


 そして今度は、顔が見えた。


 少女だった。


 年齢は、僕と同じくらいか、少し上。亜麻色の長い髪を、頭の高い位置でひとつに結んでいる。訓練用の軽鎧を身につけ、両手で木剣を握っていた。


 ひゅん。


 木剣が振り下ろされる。


 見えなかった。


 構えから振り下ろしまでの動きが、まるごと消えている。気づいたときには、木剣はもう地面すれすれで止まっていて、ポニーテールが遅れて揺れていた。


 ひゅん。ひゅん。ひゅん。


 一振りごとに、空気が鳴る。足元の砂が、剣圧でわずかに舞い上がる。


 前世で、剣道の全国大会の映像を見たことがある。プロの殺陣師の動きを解説する番組も見た。


 そのどれとも比べものにならなかった。


 速い。美しい。そして、迷いがない。


 ――すごい。


 薄明かりの中で剣を振る少女の姿は、まるで一枚の絵のようだった。


 空が少しずつ白んでいく。東の山の稜線から、最初の陽光が差し込んだ。その光が、彼女の髪と木剣を、金色に縁取った。


 その瞬間、僕は完全に心を奪われていた。


「……すごい……」


 声が、漏れた。


 ほんの小さなつぶやきだった。


 なのに、少女の動きがぴたりと止まった。


 木剣を構えたまま、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。


 蒼い瞳と、目が合った。


 ◇


「……誰ですか」


 低く、硬い声だった。


 僕は覗き窓の向こうで固まった。完全に不審者だ。夜明け前に騎士団の駐屯地を覗き込んでいる男。前世なら通報されている。


「あ、あの、怪しい者じゃなくて!」


 余計に怪しい言い方をしてしまった。


 少女は木剣を下ろさないまま、覗き窓に近づいてきた。鉄格子越しに、蒼い瞳が僕をにらむ。


 近くで見ると、整った顔立ちをしていた。でも、目の下にはうっすらと隈がある。頬は少しこけていて、唇は乾いて切れていた。


「町の者ですか」


「は、はい。小麦亭っていう宿屋の、レオン・アシュフォードです」


「……ああ」


 少女の表情が、わずかに動いた。


「開花の儀で、全項目最低ランクだったという」


 騎士団にまで知られていたらしい。


「はい、その全部Fのレオンです」


 僕が正直に答えると、少女は少しだけ意外そうな顔をした。自分から言うとは思わなかったのだろう。


「それで、その全部Fの方が、こんな時間に何の用ですか」


「昨日の夕方、ここで剣を振ってる人を見かけて。それで、気になって……」


「見世物ではありません」


 少女はぴしゃりと言った。


「お帰りください。ここは騎士団の敷地です」


 くるりと背を向け、訓練場の中央へ戻っていく。


 ――まあ、そうなるよね。


 僕は肩を落とした。当然の反応だ。知らない男に練習を覗かれて、いい気分がするはずがない。推しに迷惑をかけない。三箇条の二番目に、さっそく違反してしまった。


 帰ろう。


 そう思って覗き窓から離れかけたとき、少女が木剣を握り直すのが見えた。


 その手に、目が吸い寄せられた。


 両手の手のひら。指の付け根。


 皮膚が、ぼろぼろだった。


 マメができて、潰れて、また同じ場所にマメができて、潰れて。それを何度も何度も繰り返した跡。古い傷の上に新しい傷が重なり、固くなった皮膚が割れて、うっすらと血がにじんでいる。


 一日や二日で、ああはならない。


 何か月も。いや、何年も。


 毎日、誰よりも早くここに来て、誰よりも遅くまで剣を振り続けてきた手だ。


 ――この人は。


 胸の奥が、熱くなった。


 あの剣の速さは、才能だけじゃない。この手が、それを証明している。


「あのっ!」


 気づけば、声をかけていた。


 少女が、うんざりした顔で振り返る。


「まだ何か」


「明日も、来ていいですか」


「……は?」


「邪魔はしません。声も出しません。ここから見てるだけです。だから……明日も、来ていいですか」


 少女は、まじまじと僕を見つめた。


 何を言っているんだこいつは、という顔だった。


 長い沈黙のあと、彼女は短く言った。


「……勝手にしてください」


 そして、もう二度と振り返らずに、素振りを再開した。


 ひゅん、ひゅん、と空気を切る音が、また訓練場に響き始める。


 断られなかった。


 僕は、覗き窓の前で小さく拳を握った。


 ◇


 その日の昼、ギルドの床を磨きながら、僕はポーラさんにそれとなく聞いてみた。


「ポーラさん。騎士団に、亜麻色の髪の、ポニーテールの女の子っていますか?」


「亜麻色のポニーテール……ああ、セリア様のことかしら」


「セリア様?」


「セリア・アルヴェイン様。王都の名門、アルヴェイン家のお嬢様よ。半年くらい前に、騎士見習いとしてハルネの駐屯地に来たの」


 ポーラさんは声を落とした。


「ここだけの話だけどね。アルヴェイン家って、代々王国騎士団の団長を何人も出してきた家なの。そこのお嬢様が、王都の騎士団じゃなくて、こんな辺境に来るなんて普通じゃないでしょう?」


「……何か、あったんですか」


「噂だと、実力が足りなくて、王都から外されたんだって。名門の落ちこぼれ、なんて陰口を叩く人もいるわ」


 落ちこぼれ。


 僕は、ブラシを持つ手を止めた。


 夜明け前の訓練場。目で追えないほどの剣速。ぼろぼろの手のひら。


 あれが、落ちこぼれ?


「……そんなはず、ないと思うけどなあ」


「え?」


「あ、いえ、なんでもないです」


 僕は掃除に戻った。でも、頭の中はセリア・アルヴェインのことでいっぱいだった。


 ◇


 その夜。


 屋根裏の部屋で、僕は推しノートを開いた。


 まだ何も書かれていない、まっさらなページ。


 羽根ペンをインクに浸し、ページの一番上に名前を書く。


 ――セリア・アルヴェイン


 その下に、今日見たものを書きつけていく。


 ――夜明け前から訓練場で素振り。前日の夕方も日没まで打ち込み。

 ――剣速、目で追えない。構えから振り下ろしまでの動作がほぼ見えない。

 ――手のひらのマメ、何度も潰れた跡。数年単位の積み重ね。

 ――目の下に隈。睡眠時間を削っている?

 ――名門アルヴェイン家の娘。王都から辺境へ。噂では「実力不足」。

 ――でも、あの剣が実力不足とは思えない。何か理由がある?


 書き終えて、ページを見返した。


 久しぶりの感覚だった。


 新しい推しのページを作るときの、あのわくわくする感じ。この人のことを、もっと知りたい。この人が輝く瞬間を、この目で見たい。


 ページの一番下に、もう一行だけ書き加える。


 ――明日も、見に行く。


 僕はノートを閉じ、ろうそくの火を吹き消した。


 暗闇の中で目を閉じると、朝日に縁取られた彼女の姿が、まぶたの裏に浮かんだ。


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