12-2 旅路
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王都の城門が見えなくなったのは、出発して半刻ほど経った頃だった。
「おお、見ろ! 羊だ!」
ジークバルトの声に、ミアが窓の外へ顔を向けた。
街道の向こうに広がる牧草地で、白い羊が何十頭も草を食んでいる。柵のそばには牧羊犬らしい犬が寝そべっていて、近くの木陰では少年が退屈そうに枝を振り回していた。
「かわいいですね!」
「なあ、あれって何頭くらいいるんだ?」
「数えてみればいいだろう」
アレクサンダーが答えると、ジークバルトは本当に数え始めた。
「一、二、三……あ、動くなよ!」
「羊に言っても仕方がないだろう」
向かいの席でトビアスが笑う。
「それよりジーク、さっきから窓に寄りすぎじゃない?」
「落ちたりしないって」
「橋を渡ったときも同じことを言っていたな」
「さっきは橋だっただろ。今度は羊だ」
「何が違うんだ」
アレクサンダーが呆れたように言うと、ミアがとうとう声を立てて笑った。
セレスティーナも、つられて笑みをこぼす。
馬車の中は、出発してからずっとこんな調子だった。
王宮が用意した馬車は五人で乗っても十分な広さがあり、座席も柔らかい。街道はよく整備されていて、揺れもさほど気にならなかった。
もっとも、王都を離れてしばらくは、誰も座席の座り心地など気にしていなかった。
窓の外に何か見つけるたび、誰かが声を上げる。
王都の石造りの建物が途切れ、畑が増え、やがて街道の両側には広い草原が続くようになった。
遠くにはなだらかな丘が重なり、その向こうに青く霞んだ山々が見えている。
「セラ様、あちらをご覧ください」
ミアが指さした先に、小さな水車があった。
緩やかな川の流れを受け、大きな車輪がゆっくりと回っている。そばには石造りの小屋が建ち、建物の前には麻袋が積まれていた。
「まあ……」
セレスティーナは窓へ顔を寄せた。
「ずいぶん大きな水車ですね」
「粉を挽いているんだと思います。昔、村で見たことがあるんです」
「そうなのですね」
水車は、思っていたよりもゆっくり回っていた。
あの速さで、本当に粉が挽けるのだろうか。
もっと勢いよく回すものだと、何となく思っていたのだけれど。
「水の量で速さが変わるらしいですよ」
セレスティーナの疑問に気づいたのか、ミアが教えてくれた。
「雨のあとなんかは、もっと速く回っていた気がします」
「まあ。では、雨の日にはたくさん粉が挽けるのでしょうか」
「どうでしょう……?」
二人で顔を見合わせる。
「速ければいいというものでもないと思うけどね」
トビアスが横から口を挟んだ。
「水車の仕組みについては、王城の書庫にも資料があったはずだよ」
「トビアス様はご覧になったのですか?」
「いや、目録で見かけただけ」
「なんだ、知らないのか」
ジークバルトが笑った。
「知らないから資料があるって話をしてるんだよ」
「じゃあ帰ったら調べようぜ」
「君が?」
「なんだよ」
「いや、珍しいなと思って」
「俺だって本くらい読むぞ」
「剣術書以外で?」
「……読むぞ」
わずかな間があった。
アレクサンダーが口元を押さえた。
「無理に答えなくてもいいんだぞ」
「殿下まで!」
また馬車の中に笑い声が広がった。
セレスティーナはもう一度、水車へ目を向ける。
小さな建物は、もうずいぶん後ろへ流れていた。
少し残念に思ったけれど、きっとこの先にも、知らないものがたくさんある。
そう考えると、残念な気持ちもすぐに薄れていった。
昼前になると、ジークバルトのお腹が鳴った。
なかなか立派な音だった。
「……」
「……」
誰も何も言わなかった。
ジークバルトが、わざとらしく咳払いをする。
「今日は朝が早かったからな」
「誰も何も言っていないぞ」
アレクサンダーが答えた。
「殿下、そういうときは聞こえなかったふりをするんだよ」
トビアスが笑いながら言う。
ミアは少し迷ってから、足元の籠を持ち上げた。
「あの、お菓子がありますけれど……」
「食べる!」
あまりにも早い返事に、ミアが目を丸くした。
「まだ何も言ってませんよ?」
「お菓子だろ?」
「はい。セラ様が用意してくださったんです」
籠の中から取り出されたのは、小さな木の実の焼き菓子だった。
一口で食べられるほどの大きさで、表面にはこんがりと焼き色がついている。
「エマと相談して、日持ちのするものを選びましたの」
セレスティーナが嬉しそうに言った。
「道中でも召し上がれるように、小さく作っていただきました」
「へえ、助かるな!」
ジークバルトが早速一つ取る。
口に入れた途端、表情が変わった。
「これ、うまい!」
「本当ですか?」
「うん。もう一ついいか?」
「もちろんです」
「ジーク」
アレクサンダーが横から声をかけた。
「まだ全員に行き渡っていない」
「あ、そうだった」
ジークバルトは伸ばしかけた手を引っ込めた。
「殿下も食べてみろよ。本当にうまいぞ」
「だから、まず全員にだな……」
「殿下、こちらをどうぞ」
セレスティーナが一つ差し出すと、アレクサンダーは言いかけていた言葉を止めた。
「……ありがとう、セレスティーナ」
それを見たトビアスが、何となく楽しそうに笑っていた。
菓子は思った以上に好評だった。
ミアは木の実の香ばしさが気に入ったらしく、何度も小さく頷いている。トビアスは材料を尋ね、ジークバルトは三つ目を取っていいか真剣に悩み始めた。
セレスティーナは、その様子を眺めながら自分も一つ口に運んだ。
昨夜、エマと一緒に選んだお菓子だ。
どれが持ち運びやすいか、何日くらい日持ちするか、甘いものばかりでは飽きてしまうだろうか。
そんなことを考えながら籠に詰めてもらった。
選んでいるときから楽しかったけれど、こうして皆で食べると、もっと美味しく感じられる。
「そういえば、セレスティーナ」
アレクサンダーが籠を覗き込んだ。
「これは何日分なんだ?」
「五日間の道中で召し上がっていただけるようにと、エマが多めに用意してくれました」
「へえ。じゃあ、まだたくさんあるんだな!」
ジークバルトが嬉しそうに言った。
「はい。皆様のお口に合うようでしたら、何よりでございます」
「よし、もう一つ!」
「待て、ジーク」
今度はアレクサンダーが、菓子へ伸びる手を止めた。
「もうすぐ昼食だぞ」
「……ああ、そうだった」
「お腹が空いていたんじゃなかったの?」
トビアスが笑う。
「空いてるから食べてるんだろ」
「お菓子でお腹いっぱいになったら、昼食が入らなくなるよ」
「それは困るな」
ジークバルトは真剣な顔で菓子を見下ろした。
「……じゃあ、昼食のあとにするか」
「それもどうかと思うけどね」
セレスティーナは思わず笑ってしまった。
「まだ十分にございますから、どうぞお急ぎにならず」
「そうだな。あとでゆっくり食べようぜ」
ジークバルトがようやく手を引っ込めると、ミアは包みを閉じ、籠へ戻した。
初日の昼食は、街道沿いの宿場で取った。
遠征隊が到着すると、宿の前にはすでに食事の用意が整えられていた。
屋外の長卓にパンや肉料理が並び、騎士たちは交代で食事を取っている。
五人も案内された席へ座ったが、ジークバルトは食事を始める前から、宿の裏手にある井戸が気になっているようだった。
「なあ、あれってどれくらい深いんだろうな」
「井戸?」
「王都の城にもあるけど、あんなに大きくないだろ」
「城の井戸は場所によって造りが違うからな」
アレクサンダーが答える。
「へえ。じゃあ、あとで見てもいいか?」
「宿の方に許可をもらえばいいんじゃないかな」
トビアスが言った。
「ただ、出発まであまり時間がないよ」
「じゃあ食べ終わったらすぐ行こう」
「まず食べ終わることを考えなよ」
ミアは笑いながらパンを手に取った。
午後も街道を南下し、夕方には最初の宿泊地となる町へ到着した。
王太子の一行が宿泊することは事前に伝えられていたらしく、宿の主人は玄関前で待ち構えていた。
「ようこそお越しくださいました、殿下!」
深々と頭を下げた主人の背後には、従業員がずらりと並んでいる。
玄関には新しい花が飾られ、床も磨き上げられていた。
ジークバルトが小声で呟く。
「……すごいな」
「君が言うと、何だか変な感じがするね」
トビアスが囁いた。
「何がだよ」
「いや、王太子と一緒に来てるんだから、こうなることくらい予想できたんじゃない?」
「そういうもんか」
「そういうものだよ」
アレクサンダーは聞こえないふりをして、宿の主人へ礼を述べていた。
ミアは従業員たちを見ながら、少し居心地が悪そうにしている。
「何だか、こんなに準備していただいて申し訳ないですね……」
「ああ、分かる」
ジークバルトが頷いた。
「もっと普通の宿でいいのにな」
「普通の宿だと思うけど」
トビアスが答える。
「ただ、今日は普通じゃないお客様がいるんだよ」
その言葉に、ちょうど戻ってきたアレクサンダーが眉を上げた。
「……俺のことか?」
「他に誰がいるのさ」
「もう少し言い方があるだろう」
「事実だよ?」
五人の間で小さな笑いが起きた。
セレスティーナは、そんなやり取りを聞きながら宿の中へ足を踏み入れた。
食堂には温かな料理の香りが漂っている。
石造りの壁。木の梁。窓辺に飾られた小さな花。
王都の屋敷とは何もかも違っていた。
宿に荷物を運び込んだあと、夕食までは少し時間があった。
ジークバルトが窓から通りを眺めていると、ちょうど荷車を引いた商人が宿の前を通り過ぎた。荷台には籠や木箱が積まれ、その向こうには小さな店がいくつも並んでいる。
「なあ、少し外を見てきてもいいか?」
「何か気になるものでもあったのか?」
アレクサンダーが尋ねる。
「いや、せっかく知らない町に来たんだしさ。ちょっと歩いてみたい」
「私も行ってみたいです」
ミアが顔を上げた。
「王都とは、ずいぶん雰囲気が違いますよね」
アレクサンダーは少し考えてから、近くにいた護衛の騎士へ声をかけた。
宿の周辺であれば問題ないとの返事を受け、五人は護衛とともに町へ出ることになった。
夕方の通りには、仕事を終えた人々が行き交っていた。
軒先に籠を並べた店、木製の食器を売る露店、乾燥させた香草を束ねて吊るした小さな商店。道の向こうからは、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
「おお、見ろよ、あれ!」
ジークバルトが足を止めた。
店先には、木彫りの動物がいくつも並んでいた。馬や羊、犬に混じって、角の大きな鹿らしいものもある。
「すごいな。これ、全部木で作ってるのか」
「そうだよ。そっちの大きいのは三日かかったんだ」
店主が笑いながら答えた。
ジークバルトは一番大きな鹿の置物を持ち上げた。両腕で抱えるほどの大きさがあり、角の部分まで丁寧に彫り込まれている。
「これ、土産にいいんじゃないか?」
「……ジーク、それを?」
トビアスが目を丸くした。
「ああ。父上の執務室に置いたら面白そうだろ」
「君、それをこれから一か月持ち歩くつもり?」
「馬車に積めばいいだろ」
「荷物はもう十分あるよ。それに、明日からは野営もするんだから」
「別に持って歩くわけじゃないだろ?」
「だから、荷物を増やす必要がないって話をしてるんだよ」
ジークバルトは腕の中の鹿を見下ろした。
「……でも、よくできてるぞ」
「それは認めるけどね」
二人のやり取りを聞いていたアレクサンダーが、笑いながら口を挟んだ。
「無事に演習を終えたら、帰りに買って帰ろう。荷物が増えるのは、そのときでいいだろう」
「……そうだな!」
ジークバルトは納得したように頷き、鹿を元の場所へ戻した。
「おじさん、帰りにまた寄るからな!」
「そりゃあ、ありがたいね。気をつけて行っておいで」
店主に見送られ、一行は再び歩き出した。
ミアは布地や刺繍糸を並べた店を見つけ、セレスティーナと一緒に覗き込んだ。王都では見かけない色合いの糸があり、二人であれこれ話していると、いつの間にかジークバルトたちが少し先まで進んでいた。
「ミア、セレスティーナ。そろそろ戻るぞ」
アレクサンダーに呼ばれ、二人は店主へ礼を言って通りへ戻った。
そのとき、セレスティーナの目が、道端の小さな露店に留まった。
木箱の上に、細長い焼き菓子がいくつも並べられている。
表面はこんがりと茶色く焼け、ところどころに木の実が見えていた。切り分けられたものもあれば、一本のまま紙に包まれているものもある。
派手な飾りはなく、王都の菓子店で見かけるものより、ずいぶん素朴な見た目だった。
けれど、近くを通ると、焼いた小麦と木の実の香ばしい匂いがした。
セレスティーナは、ほんの少し足を緩めた。
見たことのないお菓子だった。
どのようなお味がするのだろう。
木の実が入っているのなら、少し香ばしいのかもしれない。けれど、見た目はパンにも似ている。甘いのだろうか。それとも、食事のときにいただくものなのだろうか。
「セラ様?」
隣を歩いていたミアが振り返った。
「何かございましたか?」
「いえ……」
セレスティーナは小さく首を振った。
「珍しいお菓子だと思いまして」
ミアも露店へ目を向けた。
「あ、本当ですね。あれは何でしょう?」
店主に尋ねると、旅人向けに焼いている菓子なのだという。
小麦粉に卵と木の実、少量の蜜を混ぜて焼いたもので、乾燥しないように包んでおけば数日は持つらしい。
「馬車で食べるなら、こっちの小さいのがいいよ。切らなくて済むからね」
店主はそう言って、掌ほどの大きさの焼き菓子を見せてくれた。
「まあ……」
セレスティーナは、並んだ菓子を眺めた。
ミアが嬉しそうに言った。
「お菓子なら、途中で食べられますよね。明日の馬車でいただくのも楽しそうです」
「そうですね」
セレスティーナは頷いた。
その後ろから、エマが静かに声をかける。
「お嬢様、購入されますか?」
「……え?」
セレスティーナは振り返った。
エマはいつもの穏やかな表情で、返事を待っている。
「いえ、その……」
セレスティーナはもう一度、焼き菓子を見た。
食べてみたいとは思った。
けれど、馬車にはエマが用意してくれたお菓子がたくさんある。宿へ戻れば夕食も待っているし、明日も食事に困ることはない。
それなのに、珍しいからというだけで、わざわざ買う必要があるのだろうか。
「……そのような無駄遣いは、申し訳ございません」
小さな声で答えると、エマは少し不思議そうに瞬きをした。
「無駄遣い、でございますか?」
「はい。お菓子は十分にございますし……」
「ですが、お嬢様」
エマは露店へ目を向けた。
「こちらのお菓子は、まだ召し上がったことがございませんでしょう?」
「……はい」
「でしたら、一度お試しになってもよろしいのではありませんか?」
セレスティーナは返事に迷った。
買い物というものは、必要なものを揃えるためにするものだと思っていた。
以前は、何かを買うときには、少しでも安いものを選ばなければならなかった。食べ物を手に入れるだけでも大変で、店先に並んだ菓子を眺める余裕などなかった。
今は違う。
公爵家では、欲しいものを口にすれば大抵のものが用意される。けれど、学院の勉強や魔術の訓練で毎日が過ぎていくうちに、自分で町へ出て、何かを選んで買うということを考えたこともなかった。
こうして店先で足を止め、食べてみたいと思ったものを買う。
そんなことをしてもよいのだろうか。
「セラ様」
ミアが隣から声をかけた。
「私も食べてみたいです。一緒にいただきませんか?」
セレスティーナは目を瞬かせた。
「ミア様も、でございますか?」
「はい。とても美味しそうですし、みんなで分けたら楽しいと思います」
ミアはにっこり笑った。
「それに、旅先でしか食べられないものかもしれませんよ」
「……そう、ですね」
セレスティーナは、もう一度焼き菓子を見た。
素朴な茶色の表面に、木の実がいくつか顔を出している。
「……では、少しだけ」
そう答えると、エマは嬉しそうに微笑んだ。
「かしこまりました。何名様分をご用意いたしましょうか?」
「皆様にも、召し上がっていただけるでしょうか」
「もちろんでございます」
エマは店主に声をかけ、五人で分けられる量を包んでもらった。
代金を支払うのも、包みを受け取るのもエマだった。
セレスティーナはその横で、店主が一つずつ丁寧に菓子を包む様子を眺めていた。
「ありがとうございました。またおいでくださいね」
「はい。ありがとうございます」
セレスティーナは丁寧に頭を下げた。
エマが包みを籠に収めると、ちょうどジークバルトたちが戻ってきた。
「何か買ったのか?」
「はい。明日の馬車でいただくお菓子を、少し」
セレスティーナが答える。
「おお、いいな!」
ジークバルトが嬉しそうに笑った。
「俺も食べていいのか?」
「もちろんでございます」
「やった!」
「ジーク、夕食前だからね」
トビアスが釘を刺す。
「分かってるって。明日だろ?」
アレクサンダーは籠の中の包みを見て、少し笑った。
「楽しみが増えたな」
「はい」
セレスティーナも微笑んだ。
何だか、とても小さな買い物だった。
それでも、宿へ戻る道すがら、セレスティーナは何度かエマの持つ籠へ目を向けてしまった。
明日、皆で食べるお菓子。
それが、少し楽しみだった。
その日の夕食には、肉と豆をたっぷり使った煮込み料理が出された。
少し濃い味付けで、香草の香りが強い。添えられたパンは外側が硬く焼かれていて、ちぎると中から湯気が立った。
「これ、美味いな!」
ジークバルトが早速パンをちぎる。
「煮込みにつけると、もっと美味しいですよ」
ミアに教えられ、ジークバルトはすぐに試してみた。
「おお、ほんとだ!」
「……君、本当に楽しそうだね」
トビアスが呆れ半分に笑う。
「だってうまいだろ?」
「それはそうだけど」
セレスティーナも、パンを小さくちぎって煮込みに浸してみた。
口に運ぶと、香草の香りと肉の旨味が広がる。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
「大変、美味しゅうございます」
「セラ様もお気に召しましたか?」
ミアが嬉しそうに尋ねた。
「はい。パンをこのようにしていただくのも、素敵ですね」
「この辺りでは、よくこうして食べるみたいですよ」
「そうなのですね」
セレスティーナは、もう一口食べた。
屋敷で食べる料理も美味しい。
学院の食堂で皆と食べる食事も好きだ。
けれど、今日の料理は、そのどちらとも違っている。
知らない町で、初めて見る食器を使い、初めての味付けの料理を食べる。
それだけで、何だか特別な食事になった。
宿の主人が食堂の入口から心配そうに様子を窺っていたが、五人が料理を喜んでいると知ると、ようやく肩の力を抜いたようだった。
二日目、馬車は大きな川を渡った。
橋の中央から見える川幅は、王都の近くを流れる川よりもずっと広かった。
「うわ、すごいな!」
ジークバルトが声を上げる。
「落ちるなよ」
「だから落ちないって!」
アレクサンダーの注意にも、もう慣れたものだった。
「そういえば、昨日のお菓子!」
ジークバルトが思い出したように声を上げた。
「もう食べてもいいか?」
「まだ昼前だぞ」
アレクサンダーが言った。
「少しくらいいいだろ?」
「昨日も同じことを言っていたな」
「今日は昨日と違う菓子だぞ」
「そういう問題じゃないと思うけどね」
トビアスが笑った。
セレスティーナは足元の籠を開き、昨日の包みを取り出した。
「皆様で少しずつでしたら、よろしいのではないでしょうか」
「ほら!」
ジークバルトが嬉しそうに言う。
「……セレスティーナがそう言うなら」
アレクサンダーは苦笑した。
包みを開くと、昨日の露店で嗅いだ香ばしい匂いが、馬車の中にふわりと広がった。
小さく切り分けられた菓子を、ミアが一つずつ配っていく。
「いただきます」
ミアが口に運んだ。
セレスティーナも、そっと一口かじってみる。
思っていたよりも、しっかりとした食感だった。
少しぱさついていて、噛むと木の実の香りが広がる。甘さは控えめで、いつも屋敷でいただく焼き菓子とはずいぶん違っていた。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
「いかがですか、セラ様?」
ミアが尋ねる。
「……美味しゅうございます」
セレスティーナはもう一口食べた。
「いつものお菓子より、甘さは少ないのですね」
「そうですね。でも、木の実の味がよく分かります」
「うん。これはこれでうまいな」
ジークバルトが頷いた。
「もっと甘いのかと思ってたけど」
「旅人向けだから、あまり甘くしないのかもしれないね」
トビアスが言った。
「蜜は高いし、日持ちを考えた作り方なんだろう」
「なるほどな」
アレクサンダーも菓子を口に運んだ。
「確かに、いつものものとは違うな」
「でも、何だか美味しいですよね」
ミアが笑った。
「昨日、みんなで見つけたからでしょうか」
「そうかもしれません」
セレスティーナは頷いた。
窓の外では、大きな川がゆっくりと流れている。
遠くには見知らぬ町並みが続き、馬車は橋の上を静かに進んでいた。
いつもより少し硬くて、甘さの少ないお菓子。
屋敷で出されたなら、きっと他のお菓子と並べていただくだろう。
けれど、昨日初めて訪れた町で見つけて、今日こうして皆と分け合っていると、何だかとても美味しく感じられた。
セレスティーナは手元に残った小さな一切れを眺めた。
「また、いただきとうございますね」
ぽつりと呟くと、ミアが嬉しそうに笑った。
「では、帰りにまた寄りましょう!」
「そうだな。鹿の置物も買わないといけないし」
ジークバルトが言う。
「まだ覚えてたの?」
トビアスが呆れたように笑った。
「当たり前だろ!」
「じゃあ、帰りの荷物は少し余裕を作っておかないとな」
アレクサンダーが言うと、ジークバルトは満足そうに頷いた。
「そういうこと!」
また馬車の中に笑い声が広がった。
セレスティーナは、残った一切れを口に運んだ。
素朴な甘さが、ゆっくりと広がっていった。
三日目には緩やかな丘陵地帯へ入った。
畑では収穫作業が進められ、大きな籠を背負った農夫たちが行き交っている。
馬車が通ると、道端で遊んでいた子供たちが立ち止まって手を振った。
ミアが小さく手を振り返す。
すると、一人の子供が嬉しそうに跳び上がり、隣にいた子まで両手を振り始めた。
「ふふ、かわいいですね」
「ミアが手を振ったから、喜んでるんだろうね」
トビアスが言う。
「そうでしょうか」
「そうだと思うよ」
その横でジークバルトも手を振った。
子供たちは、さらに大きく手を振った。
「ほら、俺にも振ってるぞ!」
「よかったな」
アレクサンダーが笑う。
四日目には、宿場の市場で焼きたての平たいパンを食べた。
薄く伸ばした生地を鉄板で焼き、刻んだ肉と野菜を挟んだものだった。
「これ、野営でも作れそうですね」
ミアが言うと、ジークバルトが顔を上げた。
「本当か?」
「材料があれば、ですけど」
「じゃあ今度やろうぜ!」
「誰が作るの?」
トビアスが尋ねた。
「俺たちで」
「……誰が生地を作るの?」
「みんなで?」
「君も?」
「もちろん」
「じゃあ覚えておこう」
トビアスが楽しそうに答える。
「何だよ、その顔」
「いや、ジークが料理するところ、楽しみだなと思って」
「俺だって料理くらいできるだろ」
「やったことあるの?」
「……ないけど」
「ほらね」
「やってみなきゃ分からないだろ!」
そんなやり取りを聞きながら、セレスティーナは残りのパンを口に運んだ。
香ばしい生地の中から、肉汁がじゅわりと広がる。
こちらも、とても美味しい。
明日の町では、どんな料理が食べられるのだろう。
そう思っていたのだけれど。
「明日からは、あまり店もなくなると思うよ」
地図を確認していたトビアスが言った。
「山沿いの農村に入るからね」
「まあ……」
思わず声が漏れた。
「残念ですか?」
ミアが尋ねる。
セレスティーナは少し考えた。
「……はい。少しだけ」
正直に答えると、ミアが目を丸くした。
それから、ふふっと笑う。
「そうですね。私も少し残念です」
「じゃあ、帰りも同じ道を通ればいいじゃないか」
ジークバルトが言った。
「また買えばいいだろ?」
「ああ、それもいいね」
トビアスが頷く。
「帰りにどこへ寄るか、覚えておかないと」
「じゃあ、ここのパンは決まりだな!」
ジークバルトが言い切った。
まだ目的地にも着いていないのに、帰り道の楽しみがまた一つ増えてしまった。
五日目の午後。
王都を出た頃には遠くに霞んでいた山々が、いつの間にか空を覆うほど大きくなっていた。
街道の両側には畑や牧草地が広がっているが、その向こうには深い緑の森が続いている。
馬車は次第に速度を落とし、やがて小さな村の広場で止まった。
「着いた!」
ジークバルトが真っ先に馬車を降りた。
大きく伸びをしてから、森の方を見る。
「ようやく魔の森だな!」
その声に、近くで荷物を確認していた騎士が振り返った。
日に焼けた顔に古い傷のある、三十代半ばほどの男だった。
王都の騎士とは少し違う、実用的な装備を身につけている。
「……魔の森?」
騎士は不思議そうに首を傾げた。
ジークバルトが森を指さす。
「ああ。ここから先が魔の森なんだろ?」
騎士は指さされた先を見た。
それから、声を立てて笑った。
「いやいや、あんなところを魔の森と呼ばれちゃ困りますよ!」
「……え?」
「あそこは村の裏山みたいなもんです。薪を拾いに行く者もいますし、狩りだってします。あんな場所まで魔の森にされたら、村の連中が怖がって仕事になりません」
「でも、地図には魔の森って書いてあるぞ?」
「王都の地図でしょう?」
騎士は苦笑した。
「向こうじゃ南の森は何でも魔の森ですからね」
「……そうなのか?」
「ええ。まあ、魔物がいないわけじゃありませんがね。この辺りは村の人間が普通に暮らせる場所ですよ」
ジークバルトが森を見つめた。
緑の木々が密集した、どこにでもありそうな森林だ。
「じゃあ、本当の魔の森は?」
「もっと南です。砦を越えて、さらに奥へ進めば、ずいぶん様子も変わりますよ」
「どんなふうに?」
「そりゃあ、木の生え方からして違います。魔物も、こことは比べものになりません」
「へえ!」
ジークバルトの目が輝いた。
騎士は、その様子を見て少し笑った。
「もっとも、私はあまりお勧めしませんがね」
「どうして?」
「帰ってこられなくなるからですよ」
あまりにもあっさりした答えだった。
ジークバルトが一瞬黙る。
それから、真面目な顔で頷いた。
「……なるほどな」
「そこは納得するんだね」
トビアスが横から言った。
「いや、実際に行ったことのある人の話だろ? 聞いておかないとな」
「それはそうだけど」
アレクサンダーも騎士へ向き直った。
「この辺りでは、どのような魔物が多いんだ?」
「狼に似た小型のものですね。あとは猪の類でしょうか。畑を荒らすものもいますので、定期的に巡回しております」
「被害は多いのか?」
「時期によりますね。最近は少し、普段より奥から出てくるものが増えた気もしますが……」
騎士はそこで言葉を切った。
「まあ、詳しいことは隊長からお聞きください。私は荷物を降ろさないと」
「ああ、すまない。仕事の邪魔をしたな」
「いえいえ。夕食のあとでしたら、いくらでもお話しできますよ」
騎士は笑って荷馬車へ戻っていった。
ジークバルトは名残惜しそうにその背中を見送った。
「……魔の森じゃないのか」
「残念そうだな」
アレクサンダーが言った。
「いや、だってさ。五日もかけて来たんだぞ?」
「まだ調査は始まってもいないよ」
トビアスが笑う。
「それに、王都から見れば魔の森なのは間違いないんじゃない?」
「でも、ここで暮らす人たちにとっては違うんですね」
ミアが言った。
彼女の視線の先では、籠を背負った女性が森へ続く道を歩いていた。
少し離れたところには、荷車を引いた男の姿もある。
「普通に森へ入っていくんですね」
「そうですわね」
セレスティーナも頷いた。
魔物の住む森。
そう聞いていたから、もっと恐ろしい場所を想像していた。
けれど、目の前に広がっているのは、緑の木々が生い茂る静かな森だった。
村の人たちは、その森で薪を拾い、狩りをして暮らしているらしい。
「……何だか、不思議ですわ」
セレスティーナが呟く。
「何が?」
アレクサンダーが尋ねた。
「同じ森でも、見る方によって、ずいぶん違うものなのですね」
「そうだな」
アレクサンダーは森を見た。
「父上が現地の話を聞いてこいと言っていたのも、こういうことなのかもしれない」
「でも、魔物がいるのは本当なんだろ?」
ジークバルトが言う。
「だったら、やっぱり魔の森でいいんじゃないか?」
「君、まだそこにこだわるの?」
トビアスが笑った。
「だって名前が格好いいだろ!」
それには、アレクサンダーも返す言葉がなかった。
読んでいただきありがとうございます。




